素敵な来館者たち!
冬季期間は、団体の来館者は少ないのですが、3 月6 日に陸別中学校の1 年生14 名と先生3名が来館されました。
関寛斎の記念館がある町からの来館者でしたので、ピアソン宣教師と関寛斎の約110 年前の交流について、ピアソン資料をもとに説明しました。
※資料(JOTTINGS FROM HOKKAIDO. From Letters from George P.Pierson.)
『Japan Evangelist Vol.XVI No.8 August, 1909 : p.308 - p.312』より。
北原俊之/訳 (1909年6月24日の記録を一部抜粋 )
森林を抜けたあとは、馬が放牧されていたり牛が草を食んでいる丘陵地帯を通る曲がりくねった道を進み、十勝國の幹線道路に達した。
この道の合流地点に、札幌農学校の卒業生であり、黒木典獄の義理の息子である関( 寛斎の息子、又一か) 氏が住んでおり、彼の牧場はいくつもの山を範囲とする広大なものであった。
このあたりでの新鉄路建設作業がかなり活発であり、北海道の中では、室蘭を除けば、最も活気のある場所であるとの話であった。関氏の父親〔関寛斎〕は、医者であり80歳を越える人であるが、有名人である。
冬でも夏でも、彼は毎日、川で行水をする。
一年のうちかなりの期間が凍結している川なので、氷を割つて行水を行うのである。
鉄道建設の労働者が「かっけ」を煩った時には、この良きサマリア人〔関寛斎〕は、わらじを履いて往診にでかけ、治療費はとらないのである。
彼は、洗礼を受けたクリスチャンではないが、旧約聖書を取り出して、アブラハムの話を引用して、「これが私と同じであり、神が新しい共同体を作るようにと私をこの場所まで導いてくれて、その共同体が動き出したら、私は、また別の場所に行くつもりである。」と語っていた。
彼は、ほんとうに北海道の開拓精神を持ち合わせた人物である。
この記録文は、ピアソン宣教師が明治42 年6月に徒歩で名寄から興部、紋別、湧別、学田、野付牛、北光社、陸別、本別、池田を宣教した記録からの抜粋です。
ピアソン宣教師は、旅の途中で出逢う素晴らしき人には尊敬の念を持って接し、その事をしっかりと記録に留めておりました。
陸別開拓の功労者関寛斎と、ピアソン宣教師の出会いの記録。新たな発見です。
§
この記事に出会ったとき、私は戦慄を覚えました。
関寛斎研究者は、有名無名も含めて世にあまたの人材があり、出版されている書籍も多数に上ります。
その生い立ちから蘭学医となるいきさつ、戊辰戦争での野戦病院の設立と活躍。その後四国に開業し、地元の人たちから大明神といわれる信頼を得たこと。御年72歳になってから突然の如く北海道開拓をめざし、極寒の地陸別町トマムに入植した事。かん難辛苦の末、大きな牧場として一旦は成功した事。
これらの一部始終を、事細かに資料を掘り起し様々な方が研究し世に発表されていました。
しかし、共通して言えることは一点だけ実に曖昧な表現しかできない部分がありました。
それは、関寛斎がどのようにして亡くなったのかという点です。
現在はどなたも「自殺説」を取っております。
いわく、「息子又一はアメリカ式牧場経営をめざし、寛斎は牧場を自作農に開放することを目指していた。しかし、牧場の名義や経営権はすべて又一が握っており、父子は激しく対立した。ついには長男の息子から、財産に関する裁判を起こされるに至り、自ら命を絶った。」
しかし、その自殺の手段は服毒であったり農薬であったり、ピストルであったりとはっきりしません。
あれだけ生前のことを事細かに研究されていた諸先生方は、この件に関しては口を閉ざしていると言えます。
私はこの状況から、自殺の手段について無責任と言っていいほどの推測がはびこっていることについて、1個ずつ検証し、除外する作業に没頭しておりました。
そして、「自殺にあらず」という確証を深めてまいりました。
そんな折に、ピアソン便りにこのような記事が掲載されるにおよび、まったく新たな角度から傍証が出てきたことになります。
そもそも、この文書は国内には存在せず、ピアソンが米国へ手紙として送っていたものが現地に保存されていたものです。
ピアソン記念館の交流団が米国を訪れた時、多数の文書と共に持ち帰り、地道に翻訳して世に出したとのことです。
ピアソン記念館の方々も、特に意識していたわけではなく、紀行文にたまたま陸別の開拓の祖関寛斎のことが載っていた、という認識でした。
これは、関寛斎研究者にとって全く新しい資料が発掘されたといえる出来事でした。
すなわちこれはピアソン夫妻と、当時駅逓も経営していた関寛斎が接触していたことを表しております。
そして、関寛斎は息子又一との確執を乗り越え、新しい土地に開拓の鍬を下ろそうと計画していたことを表します。
自殺説の大きな動機の一角が崩れたのです。
ピアソン夫妻も関寛斎も、100年を優に超える現在に至るも私たちの魂を揺さぶり続ける、フロンテアスピリッツの先覚者だったという事です。
「十勝の活性化を考える会」会員 K
本当にそうなのですね。先覚者には試練が付きものですが、当の本人は、ただ真っ直ぐに事を行うだけであり、世がどのように言おうともなんの妨げでもないのでしょう。どのような評価が残ろうとも・・。
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身があかししてくださいます。」
というみことばを思いだします。
「ただ真っ直ぐに事を行う・・・世がどのように言おうとも」
自分はそのように生きてきたのかと振り返ると、心に刺さるお言葉です
ムベ様のような強い信念がないとそのようには生きづらい世の中ですね
また一つ教えていただきました