十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

生きるとは楽しむこと

2019-03-20 09:22:13 | 投稿

生きるとは楽しむこと

 私は、61歳の時に脳出血で倒れて見えなくなり、意識も無くなりました。そして、救急車で病院に運ばれ8時間におよぶ手術を受けましたから、生き返ったような人間です。その点が、他人との違いだと思っています。

また、105歳で亡くなった故日野原医師や同じ脳出血で倒れたキャリアの人などは、「人間は生きるか死ぬかの経験をして価値観も変わり、精神的にも一層強くなれる」と言っていました。

ところで私は、登山に夢中な時期がありました。なぜ、夢中であったかというと楽しかったからです。生きる以上、楽しまなければ損だと思います。苦しむために生まれてきたなんて、苦しむために生きるなんて無意味だと思います。どうせ生きるなら、どうせ仕事をしなければならないならば、楽しく仕事をしたいと思います。

そして、登山家でエベレスト山に挑戦していた故栗城氏も、ブログの中で「挑戦すること(生きること)に楽しさがある」と言っていました。                     以 上

「会員」より  


「十勝の活性化を考える会」入会にあたって

2019-03-19 09:39:13 | 投稿

 

「十勝の活性化を考える会」入会にあたって

                 福岡市在住 南俊博、68歳   

                                         

 会長とは40数年前、東京都国立市の独身寮で同じ釜の飯を食い、酒を飲んだり麻雀をしたり議論したりする気心の知れた同志であった。

「十勝の活性化を考える会」発足には、敬服しています。まさに仏教の基本である自利・利他の実行で、自らの体験、思いを通して悟り、気付き、みんなのためになることを行なう姿勢です。会長の持論は、「同じ境遇に置かれないと本当の気持ちは分からない」です。

現代は政治、財政、外交、また社会においても虐待、いじめ、親、子殺人、自殺など問題が山積みです。慈しみ、いたわり、敬いなどといった言葉は、自己中心の世の中にあって死語になったようです。

戦争時、多くの若者が、家族、国のために苦悩し割切りつつ死んでいったことを思うとやるせない気持ちです。このような時にまず、地元のことを考えることの意義は、大きいと考えます。

北海道は自然の豊かさと厳しさを備えて、先住民族アイヌや先人の労苦によって拓かれ、共生のこころの育まれた雄大な大地と思っています。遠隔地に在住のため会への参加は制限されますが、可能な限り協力したいと考えています。

「とらわれず、かたよりもなく、こだわらず」で、十勝、北海道、子供達のために、自由で淡々とした活動ができればと思っています。なお、九州では桜が開き始めました。 以上


松浦武四郎と明治150年

2019-03-18 11:39:25 | 投稿

  

【帯広市民文芸に投稿した随筆です】

松浦武四郎と明治150

帯広 寺町 修

 

昨年のクリスマスの日、松浦武四郎原著による『アイヌ人物誌』という本を、友人からプレゼントされた。昨年の北海道は、松浦武四郎により命名された150年目を迎えた年で、様々なイベントがあった。

しかし、アイヌ民族にとっては、和人による搾取と収奪、植民地化された150年目とも言えるもので、アイヌの人達から見れば同化政策の是非など、重要な焦点がずらされてしまった。

アイヌ民族が文字を持たなかったこともあるが、歴史は常に“勝利者”の側から、つまり日本では和人側からみた「史実」や「正史」が記録されてきた。江戸時代以降、こうした記録以外にも多くの和人たちが蝦夷地を訪れ、そのほとんどが共通の視点を持って書かれていた。その共通の視点とは、意識しているいないに拘わらず「文明」化された和人が、「未開」のアイヌを見下すというものであった。

文明が栄えたところに必ず文字があった。その理由は、文字があれば文化が伝わりやすかったからだと思う。アイヌ民族が文字を持たなかったのはなぜだろうか、何の不自由もなく生活しており、必要なかったのではないだろうか。

さて、松浦武四郎は文化十五(1818)年、伊勢国(現在の三重県松阪市)に生まれた。そして、北方情勢の緊迫を聞きつけ、弘化二(1845)年から蝦夷地を探検し、安政二(1855)年には幕府御雇(おやとい)の御用掛となっている。明治維新後は新政府に採用され、明治二(1869)年に開拓判官となり、明治二十一(1888)年に享年七十一歳で亡くなっている。

武四郎は、「北海道国群検討図」や「東西蝦夷山川地理取調図」などの地図を書いているが、アイヌ民族の差別も「十勝日誌」などに克明に書き残している。そして、自分の雅号を「馬角斎」(ばかくさい)と付けているが、これは明治新政府がアイヌ民族に対してとった政策が、バカ臭くてやっていられないという意味であろう。

近代における人間の歴史は、国や社会の共同体を維持しつつ、如何にして自由になるかという人権獲得の歴史であったとも言えよう。その結果、人間は近代化によって「自由」というものを手に入れたが、実は人間は「自由になればなるほど不幸になるという現実にも気づかなければならない。あらゆる制約から自由になった人間は、地域社会の温かい人間関係を失い、格差拡大や自分中心主義になり孤立してしまった。その結果、過去には見られなかった無差別殺人、いじめ、幼児虐待、親・子殺しなどの事件が起こりはじめている。

真の自由とは何か、真の幸福とは何かなど、自然と人間の関わりを考え直す時期に来ているのかもしれない。十九歳の短い生涯を終えた知里幸恵は、編訳したアイヌ神謡集の序文に、次のように書いている。

「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されて、のんびりと生活していた彼らは、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。(中略)

平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けていく。」

明治生まれで環境問題も知らなかった知里幸恵、この序文だけは自身の思いを日本語で語ろうとした。明治新政府によるアイヌ民族に対して行なった同化政策(「北海道旧土人保護法」など)の事実を、和人は忘れてはならないと思う。

アイヌ神謡集には、自然や先祖への畏敬、そして迫害を受けた民族としての思いが感じられる。

だから私たちは、今こそ自然破壊に対して自然や先祖を敬愛してきたアイヌ民族の精神文化を学び、「今年がアイヌ民族の復権、北海道の脱植民地化に取組みはじめた最初の年だった」と言われる年にしたい。  (完)

土人:土着の人(児玉恭子著「エミシ・エゾからアイヌへ」より)。

奈良時代以降の東北や北海道などには、土人しか住んでいなかったと見られる。

 


我が国の財政は、引き続き深刻な状況に陥っている

2019-03-17 12:09:28 | 会報

我が国の財政は、引き続き深刻な状況に陥っている

「日本の財政」のことですが、財務省のホームぺージによりますと、
「我が国の財政は、引き続き深刻な状況に陥っている。」とのことです。
財務省がこのように書くのは、よほど深刻のように思いますが、
間違っているのでしょうか?
昨年10~12月、年金運用機構(?)では15兆円の赤字を
出したとニュースで報じていました。
以上                          会長 寺町 修


(財政制度等審議会「平成30 年度予算の編成等に関する建議(平成29年11月29日)」)より

 

 

 



何故一歩が踏み出せないか?

2019-03-16 12:33:10 | 投稿

何故一歩が踏み出せないか?

(体現したものからの「語り」)

                         熊谷 三嶋完治

【自己紹介】

二〇〇五年七月、五十歳のとき脳出血を罹患。言語障害(失語症)、右片麻痺の後遺症が残っている。急性期病院の医師から「社会復帰は望めない」と言われ絶望感に襲われた。(身体障害程度等級一級)

二十五メートル泳げたという自信が、その後「勇気・希望」がもて「変容」につながり、新しい自分(居場所)を発見した。

現在、障害を持ったからこそ果たせる役割があると公益活動に従事しながら、大学で障害者福祉をゼロから学んでいる。

 

[はじめに】

多くの人は中途障害を抱えると、回復の停滞感や減速感から徐々に落ち込み、情緒が不安定になり、引きこもりになる場合も多い。

私も四年間にわたり希望を失い、どん底の毎日を経験した。しかし、ちょっとした「きっかけ」(出会い)から「動機づけ」(変容)に変わり、新しい自分(居場所)を発見した。

本日は、私の障害からの克服について語らせていただきます。

【存在意義の否定】

 私は救命されたものの、医師からの心ない言葉で失意のどん底に陥った。さらに仕事の仲間からは「三嶋は終った」と囁かれ、人間不信にもなった。こうなると、どんどんモチベーションが下がっていった。

自分が知らぬ間に「社会的弱者」と思うようになり、障害の有無にかかわらず、人間にとって最も避けたい存在意義を失った。これではいけないと思っていても、なかなか行動に移せない、一歩が踏み出せない日々が続いた。

【モチベーション(動機づけ)を上げるためには】

一番怖かったのは、目指す絶対的な価値観がなくなり、どこを目指したら良いのか分からず、空回りが続いた。それに加えて過去の自分と比較し、それが足かせになった。

心理学者のE.デシは、「自分がやりたいことをやった時、一番能力が発揮できる」と説いている。モチベーションを上げるためには、「これだったら、自分もできるかも知れない」ことを、一つ見つけることが大切。自分ができるところから、自分のペースでゆっくりやればいい。「自分で決めたこと」をやれば高いモチベーションが保てる。

【克服へのきっかけ(出会い)]

二〇〇九年、リハビリの一環として水中リハをはじめ、一年後に二十五メートルを泳ぐことができた。その時の水中映像で、麻痺側下肢がしっかり動いている自分の姿を見て、それまで「動かない」と思い込んでいたことにハッとした。

 泳げたという「自信」と脳の可能性を信じる「希望」、そこから克服のチャレンジがはじまった(心のスイッチが入った)。当初、泳ぐことに躊躇していたが、指導員から背中を押してもらったことも、「きっかけ」になった。

【きっかけ(出会い)から動機づけ(変容)】

 とはいっても、どうやったら「心のスイッチ」が入るのか? それには自分を信じることと、自分ができることからはじめること。私の場合は、泳げたという「自信」と麻痺側下肢がしっかり動いている姿を見て「希望」がでてきた。

しかし、それだけではスイッチは入らない。どうやったら、きれいに泳げるのか。そのための目標を自発的に取り組むことで、「これだったらできるかも」と納得し、意欲も湧いてきた。この過程が、きっかけ(出会い)から動機づけ(変容)に変わった(スイッチが入った)。

【動機づけとは何か】

「きっかけ」は、自分以外の持つ力、助力によるものが多い。動機づけは一般に「モチベーション」と訳され、自分が納得し意慾をもって作り上げるもの。人は何か「自信」や「希望」を持つとたとえ障害があっても、人の価値は変わらないことに気が付く(価値観の転換)。

そして「意欲」は、心の持ちよう次第ですぐに湧いてくる。「動機づけ」は、心の心理的な原動力である。

【新しい自分(居場所)の発見】

人には必ず「役割」があると思う。ここでいう役割とは、お金や時間には代えられない「生きる喜び」のことである。

私は一時仕事を失ったが、私を必要としている人とめぐり合い、「まだまだ人の役に立つ」と感じるようになった。そして私は、一人で希望が持てるようになったのではなく、支える他者と共にいることで立ち直ることができた。

私は六十を過ぎても、人として成長を続けていると思っている。

【リハ・スポーツの意義】

スポーツは嫌々やるのではなく、楽しいから続けられる(自立性の欲求)。

「できた」という達成感が自信を取り戻し、希望・意欲・やる気につながる(有能性の欲求)。

他人と尊重し合える関係を創ることができる(関係性の欲求)。

同じ境遇の仲間と体験を分かち合い、勇気づけられ、障害に打ち克つ賢さを学ぶ。三つの欲求を学ぶことで、心のスイッチが入る。

【まとめ】

 ・障害の有無にかかわらず、人には必ず「役割」がある。

・モチベーションを上げるには、「これだったら自分もできるかもしれない」ことを一つ見つけることが大切。

・自分ができるところから、自分のペースでゆっくりやればいい。

 

・「自分で決めたこと」をやれば、モチベーションが上がる。

・人は何か自信や希望を持つと、たとえ障害があっても人の価値は変わらないことに気づく(価値観の転換)。

・障害のある人は、一人で希望が持てるようになるのでなく、支える他者がいることで立ち直ることができる。

・リハビリテーション・スポーツは、同じ境遇の仲間と体験を分かち合い、勇気づけられ、障害に打ち克つ賢さを学んでいく。

 

以上      

  

 

    ※「帯広ふだん記」に投稿した文章です     会長 寺町 修