茨城県南部、牛久市で江戸時代末期に一揆があったことを知った。
一揆はあちらこちらで起こったようだが、身近であったとは興味深い。
牛久と名付けられいるが、今の阿見町にその碑がある。
一揆の指導者が阿見町の出身だという。
阿見一区南の交差点。
ちゃんとお花が活けられている。
ほとんど風化しても読めないが、となりに解説があった。
3人は江戸での厳しい取り調べで評決前に獄死したという。
その供養を兼ねた碑という。
そして、この碑をたてたのが、なんと一揆で打ち壊された家の方であるのも興味深い。
「牛久助郷一揆」はwikipediaにも記載されていた。
1804年(文化元年)10月、牛久宿近くの女化原に大勢の百姓共が徒党を組み牛久宿問屋の麻屋治左衛門他2人の居宅を打壊し、幕府老中の青山忠裕から佐倉藩と土浦藩に対して騒動鎮圧の公儀御達が出された。女化一揆とも呼ばれるこの騒動は、打壊しの後間もなく治まり、勘定奉行所の松平兵庫頭が掛りになって徒党共の吟味を行い、翌1805年(文化2年)8月に裁許状が村々に届けられた。
(wikipediaより)
阿見町のネット記事も見つかった。
pdfにはその顛末が要領よくまとめられている。
それによると、
江戸と水戸のちょうど間にある牛久宿は往来も多い重要な宿場だったらしい。
年貢の他、伝馬役や人足など多くを課せられ、天明の飢饉などもあり疲弊した中で、私利私欲を肥やす業者がいて、とうとう爆発したようだ。
牛久の女化稲荷に6000人もの農民が集まったという。
よく統率がとれて、打ち壊しをしたが、盗みや危害は与えることなく引き上げたとされる。
自由民権の先駆的なものと位置づけられている。
この場所、グーグルマップには何もでていない。
この場所 ↓ なので、興味のある方、訪れてみたらいかがでしょうか。
36.028595, 140.189608666
ではまた、ぶらり
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます