走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

温知政要(おんちせいよう)

2008年06月10日 20時41分23秒 | その他
 徳川宗春(1696-1764)

 江戸中期の尾張藩主。三代藩主綱誠(つななり)の二〇子。商工業の振興など積極的経済政策を打ち出し、吉宗の享保改革の施策と対立、1739年蟄居(ちつきよ)を命ぜられました。

 その著「温知政要」で、その政治信条として倹約を強いると、倹約が倹約を呼び経済が回らなくなると、時の将軍・徳川吉宗を批判しました。
その逆鱗に触れたため蟄居を命じられたという人もありますが、実は当時の税制が彼の足をひっぱったのが大きな原因と言われています。

 もともと徳川吉宗の政治信条が、儒家の修めるべき五徳(温・良・恭・倹・譲)の「倹」と儒教の五徳(仁・義・智・礼・信)の「礼」に重きを置いていたと言われています。
 一方、宗春は「慈」と「忍」の仁政を布(し)くところにあったのです。
仁政の「仁」は、人が二人いたら社会が生まれ、国家とはその小さな集合であると説き、それゆえに仁を重んじていたと言われます。
 その考え方には、物々交換のときに、仁の心で感謝し、上乗せをしたとします。
すると相手も次から次へとお礼を上乗せするので仁が仁を呼び経済が回りだすと説いたのです。
そして、それによって領民はみな裕福になり、貧富の差がなくなると信じていたのです。

 しかし、宗春が考えるほど経済は回りませんでした。
その理由としては、当時、農民が納める税(年貢)が税収の基本だったからです。
彼の政策によって、娯楽産業は驚くほど栄えました。
それによって、農民も遊ぶことを覚え、エスカレートしていったために働くことを嫌い始め、それにより米の生産力が落ちてしまったのです。
つまり、税収が大幅に減っていたために藩の経営を圧迫したのです。

 宗春のとった政策は結果的には失敗だったといわれますが、一方の徳川吉宗の享保の改革も米相場に拘りすぎて失敗だったという評価もあります。

 これにより、政事(まつりごと)は、領民にとってわかりやすいこと、楽しいことが大事であるということ。(事実、当時の尾張藩はさまざまな文化の発信地になったと言われています。)

 そして、政事は
    民に何を強いたかではなく、
    民へいかに尽くしたかが大切であるということが学べます。