トンサンの別荘

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久しぶりに「女生徒」が読みたくなって・・・「小さな恋のものがたり」まで。

2013年07月02日 01時14分15秒 | 日記

7月1日(月) 晴れ

図書館に行ったら「女生徒一九三六」と言うチラシがあった。
「これって、あの太宰治の・・・」と手に取ってみると、そうだった。
このタイトルの映画のチラシだった。

「女生徒」・・・懐かしく、また読んでみたくなった。



チラシと図書館で借りてきた本。


「女生徒」は高校生のころ読んだと思う。
「女生徒」は太宰治が女生徒の語り口で、肯定したり否定したり、揺れ動く心を書き表した私小説(ししょうせつ)だとトンサンは思っている。
大人になろうとしている多感なころ、トンサンもピタッとその「女生徒」の気持ちになってしまった。
あまりにも自分の気持ちとぴったり。
特に次の描写は「あ、そうそう、そのとおり。」と。

おみおつけの温(あたた)まるまで、台所口に腰掛けて、前の雑木林を、ぼんやり見ていた。そしたら、昔にも、これから先にも、こうやって、台所の口に腰かけて、このとおりの姿勢でもって、しかもそっくり同じことを考えながら前の雑木林を見ていた、見ている、ような気がして、過去、現在、未来、それが一瞬間のうちに感じられるような、変な気持がした。こんな事は、時々ある。誰かと部屋に坐って話をしている。目が、テエブルのすみに行ってコトンと停(と)まって動かない。口だけが動いている。こんな時に、変な錯覚を起すのだ。いつだったか、こんな同じ状態で、同じ事を話しながら、やはり、テエブルのすみを見ていた、また、これからさきも、いまのことが、そっくりそのままに自分にやって来るのだ、と信じちゃう気持になるのだ。どんな遠くの田舎の野道を歩いていても、きっと、この道は、いつか来た道、と思う。歩きながら道傍(みちばた)の豆の葉を、さっと毟(むし)りとっても、やはり、この道のここのところで、この葉を毟りとったことがある、と思う。そうして、また、これからも、何度も何度も、この道を歩いて、ここのところで豆の葉を毟るのだ、と信じるのである。また、こんなこともある。あるときお湯につかっていて、ふと手を見た。そしたら、これからさき、何年かたって、お湯にはいったとき、この、いまの何げなく、手を見た事を、そして見ながら、コトンと感じたことをきっと思い出すに違いない、と思ってしまった。


太宰治が考えていることはトンサンとぴったり。太宰治は自殺した。
トンサンも自殺するんじゃないかと怖くなって、太宰治の小説は読まなくなってしまった。
でもこの「コトン」という情景を感じることは誰にでもあるのではないかと、今は思う。


「女生徒」は図書館で借りてきた「人間失格ではない太宰治」にも載っているのだが、「あれまてよ、うちにもあったはず」と探してみると・・・


昭和50年にまた読みたくなって買ったのだろう。トンサンが26歳の時だ。

「みつはしちかこ」のイラストのしおりが挟まっていた。
そういえばトンサンが大好きだった「小さな恋のものがたり」の叙情(じょじょう)まんがも1冊はとっておいたはず。


「みつはしちかこ」の本は2冊取ってあった。


「小さな恋のものがたり」の叙情まんがは、記憶に寄るとトンサンが文通していた女の子から第1集~第3集をプレゼントしてもらい、とても面白くて、第15集まで続けて買って読んだ。
今調べると第42集まで発行されているようだ。
今読んでも「胸キュン」になるなぁ・・・



ところで図書館には太宰治の本は11冊しかなかった。
「女生徒」はそのなかで「人間失格ではない太宰治」の中に収められていたので借りてきた。
爆笑問題の太田光が選んだ小説と言うことで、意外でもあり、やっぱりの感もあり。