トーネードの無職生活

無職生活で日常どのように過ごしいてるのか?
ウォーシミュレイションゲーム
日ごろ思ったことを書いていきます。

ポルカドットスティングレイの武道館公演を堪能す

2019-07-18 01:42:10 | 日記
 日付的には昨日となりますが、ポルカドットスティングレイの日本武道館の公演を楽しんできました。武道館は小学生のころ機動隊の剣道の道場に通っていた時に武道館で剣道の集会みたいなのがあり、機動隊のバス金網付きで武道館に行って以来です。開園の30分くらい前に着いたのですが、グッズ売り場は大混雑でこれから並んでも開園に間に合わないぞな感じであきらめました。公演が終わってからも大混雑でグッズはあきらめました。これまでライブハウスぐらいしか経験していないので万単位の人が集まるという状況に自分の想像力が及びませんでした。日常人混みとは無縁の生活を送っているので、久しぶりに人に酔う感じがしました。

 今回の武道館の公演はポルカのアルバムに添付されていた最速の予約だったのですが、アリーナ席ではなく東の一階席でした。公演が始まるとバナナの山からギターヴォーカルの雫ちゃんがでてきてノリノリの曲でスタートです。いっきに会場も盛り上がります。私は今回初めてのポルカのライブだったのですが、一階席からアリーナ席を眺めているとアリーナにいるお客さんはたぶんポルカのライブに何回も足を運んでいるのだろうと感じました。ほんと一体感があるんですよね。いきなり私のような初めての人間が入ったらちょっとついていけないかも。

 今回の公演の中でポルカの雫ちゃんも言ってましたが、初めてのアコースティックで二曲披露されました。バンドでノリノリもいいのですがアコースティックも良いですね。それからポルカのミュージックビデオには芸人さんが登場したりするのですが、直近のMVに登場した芸人さん、それから最新のMVに登場される芸人さんまで登場して大盛り上がりでした。まだテレビに登場する前の芸人さんをミュージックビデオに登場させるのはポルカの特徴で、ミュージックビデオを見ていてもなかなか面白いです。

 あっというまの2時間でしたがとても楽しい時間を過ごすことができました。考えてみれば、私がもし普通に結婚して子供をもうけていたらポルカのメンバーと同じくらいの年齢になるわけで、まわりのお客さんを見ても自分は年くったおっさんだなと感じたところです。

 ついでに武道館は椅子があったので腰の調子がいまいちのおっさんにとっても助かりました。家を出でコルセットをするのを忘れたのに気が付いたのですが、電車も平日のわりにはあまり混雑せずちょこっと座れたりして助かりました。

 今度はライブハウスでポルカドットスティングレイのライブを見てみたいな。





武勲艦航海日記を読む

2019-07-15 13:47:25 | 日記
 武勲艦航海日記という本を読みました。内容は太平洋戦争で伊38潜水艦と第40号海防艦に操舵手として乗り組んだ方の手記です。伊38では約一年間にわたり23回の輸送作戦に従事され、第40号海防艦では船団の護衛を行い、戦後も機雷の掃海に従事されました。

 日本はアメリカに対してワシントン条約などで戦艦などの保有する比率をアメリカ、イギリスよりも低く抑えられることとなりました。そのため仮想敵国であるアメリカと戦う場合、アメリカ海軍が日本近海に侵攻してくるときに潜水艦をもちいて、少しでもアメリカ艦隊の艦艇を撃沈してアメリカ艦隊との決戦に臨もうと考えていました。そのため潜水艦は大型で水上を航行する速力も他国よりも早いという特徴をもっていました。

 そして大戦に突入後も潜水艦りメインターゲットアメリカ軍の戦闘艦でしたが、護衛の駆逐艦がいる戦闘艦を潜水艦が雷撃する機会は少なく、大物だとワスプの撃沈、サラトガの撃破ぐらな感じでしょうか。潜水艦の艦長は通商破壊戦を主張しますが、インド洋で行われた程度で通商破壊戦はほとんど行われませんでした。それどころかソロモンの戦いでは制空権をアメリカ軍に握られたため補給を輸送艦では行えず駆逐艦で行いましたが、駆逐艦でも困難になり潜水艦で輸送を行うようになりました。

 ちょうど著者が乗り組んだ伊38はその輸送に携わった潜水艦でした。とても危険な任務でしたが艦長の安久中佐が有能だったのたと思います。大きな損傷を受けることなく任務を完遂しました。艦長としては敵艦に向けて魚雷を撃つことが願いだったと思うのですか、一言の不平も述べずに任務を遂行しました。他の本でもこの艦長は上陸すると大酒を飲んで出港が迫ってきても艦に戻らず、士官たちが手分けして探し出して艦に連れ帰ったこともあったようです。きっと航海中のストレスは厳しいものがあったのだと思います。それとも単なる酒好きか。

 著者は伊38を退艦して航海学校で学び、今度は第40号海防艦に乗り組みました。この艦の艦長もとても優れた方だったようで、被害を受けることなく大戦を生き残りました。そして大戦後アメリカ軍より機雷の掃海を命ぜられて終戦後も第40号海防艦に乗り組むこととなりました。掃海もとても危険な任務だったようですがすぐれた艦長のもと無事に任務を終えて退艦することとなりました。

 著者は潜水艦、海防艦ともに艦長に恵まれ、運もあったのでしょう、潜水艦、海防艦とも大戦末期にはとても被害が大きかったのですが大戦を生き抜くことができました。そして貴重な記録を残してくださったのだと思います。




ハーツオブアイアンIII フランスでまたも敗北

2019-07-14 17:23:24 | 日記
 ハーツオブアイアンIIIをフランスでプレイした一回目はマジノ線からつながるようにベルギーとの国境に要塞を築こうとしましたが、要塞のレベルが4程度までにしかならず、さらに歩兵師団の生産も少ないうえ既存の歩兵師団の改良もなかなか進まずに、ドイツと開戦して簡単にドイツ軍の一個師団に敗れてしまい敗戦が決定しました。

 二回目となる今回は要塞は築かず歩兵師団を一ライン生産してベルギーからマジノ線に至る国境線に二個師団づつ配置しました。戦車師団も二個師団配備しましたが、国境線に張り付けるだけで精一杯で予備部隊はありません。それからゲームの進め方としては史実に沿って進めることにしました。ですからドイツの戦争状態になってもドイツ領には攻め込まず、ドイツ軍が侵攻してくるまで待つという戦略です。

 結果は見事史実通りでして、マジノ線以外ではドイツ軍にはとんとかないません。感覚的にはドイツ軍の一個師団に対してフランス軍五個師団くらい必要なような感じです。イタリアとの国境もあのイタリア軍に簡単に破られて占領地を広げられました。どちらもいかんともしがたいです。手の打ちようがない。パリが占領されたところでゲームを終えることにしました。

 で、三回目にチャレンジすることにします。今回はドイツ軍が侵攻するまで待つ戦略でしたが、三回目はドイツと開戦したらドイツ領に攻め込むことにします。マジノ線に張り付けた部隊はそのままにして、残りの司令部には侵攻用に準備してドイツと開戦したら国境の三地区ほどに一気に侵攻。その後の展開はどうなるかちと想像がつきません。ポーランドを攻め落としたドイツ軍が反転してくるのか、それとも史実通りデンマークやノルウェーに侵攻するのか。いずれにしても次回でフランスデプレイするのは終了という感じですね。そのあとはイタリアでプレイしてみるかな。



歴史群像のドニエプル攻防戦を読む

2019-07-13 15:23:39 | 日記
 今月発売された歴史群像の中の記事ドニエプル攻防戦を読みました。この戦いでドイツ軍がソビエト軍には勝てないというか後退局面に入ったことが決定的になった戦いでした。ドニエプル攻防戦の前段に発生したのがドイツ軍のツィタデレ作戦です。

 独ソ戦3年目の1943年となりドイツ軍は東部戦線の主導権を握るため、クルスク近郊のソビエト軍の突出部を南北から攻撃して切断するツィタデレ作戦を計画しました。突出部を切断すれば独ソの戦線に張り付けている部隊を浮かせることができて予備兵力をふやすことができます。しかし、素人でも突出部を切断しようと考えると思うので、作戦としては見え見えであったといえます。ですから冬から春になり泥のシーズンが終わり戦車が自由に動けるようになったら即、作戦を発動すべきでした。

 しかし、ヒトラーは新型戦車のパンターとティーガーなどを配備してから作戦を発動することとしたため、ソビエト軍に陣地を作る時間的余裕を与えてしまいました。二重三重どころか五重六重以上の陣地ができ大量の対戦車砲が配備され、戦車部隊も大量に集められました。

 そして作戦発動。ドイツ軍はソビエト軍の陣地に悩まされて電撃戦のような突破は行えませんでした。それでも南部地区で行われたソビエト軍との大戦車戦では大量のソビエト軍戦車を撃破してこの戦いには勝利したといえます。しかし、イタリアへの連合軍の上陸などもあり作戦は中止されました。ソビエト軍は大きな被害を出しましたが、十二分な補充戦車をもっており迅速に反撃に移りました。それに対してドイツ軍は戦車部隊の受けた損害を回復することができず、とうとう東部戦線の主導権を明け渡すこととなりました。

 ソビエト軍の反攻に北部戦線ではドイツ軍が包囲されそうになりましたが、からくも包囲を免れました。もし包囲されたらドイツ軍はもっと早く崩壊していたと思います。南部戦線でも名将マンシュタイン元帥をもってしてもソビエト軍の反攻を抑えることができませんでした。そうするとできることは天然の障害となるドニエプル川まで後退して川を挟んでソビエト軍を迎え撃つ態勢をとることです。ドイツ軍はドニエプル川目指して後退しました。

 ソビエト軍もドニエプル川の重要性はわかっていたので、いち早く渡河することを目指しました。ドイツ軍がようやく川を渡っても陣地が整備されていたわけでもなく、部隊の配置にも時間がかります。そのどさくさにまぎれてソビエト軍の小部隊が渡河しました。ソビエト軍というのはこのような小さな橋頭保を得た時にそれを排除しようとする敵との戦いに非常に強いというか、橋頭保を守り抜くのが得意なのですね。この場合も結局橋頭保を守り通して大部隊を渡河させることとなりました。

 こうなるともはやドイツ軍にはソビエト軍の攻撃を守りとうすことが不可能になりました。以降ドイツ軍は後退するのが精一杯な状態となっていったのでした。




大学生の就職活動は超売り手市場

2019-07-12 13:39:52 | 日記
 今年の大学生の就職活動も長売り手市場で内定率も高いとのこと。しかし就職しても入社3年目までに30%が退職してしまうとか。まだ20代だと他の企業に就職できるチャンスはあるので、自分に合わないと思ったら早めに退職して新しい企業を狙うのもひとつの方法のように思います。それに昔のように終身雇用が保証されているわけでもなくなってきているから、中高年になってリストラにあったりするよりも早めに見切りをつけるのも良いかもしれません。

 超売り手市場といっても大手の有名企業に入社するのは狭き門なのでなかなか厳しいものがあると思います。そこを突破して入社できたとしても、これは運というものもあると思うのですが、配属された部門が切り売りされて他社に売却されたり、事業が縮小して慣れない部門に異動せざるをえなくなったり、子会社に出向したりと入社した会社で最後まで全うできる人はごくわずかにすぎないのが現実だろうと思います。ですから、自社で通用するだけでなく他社に行っても通用するスキルを身に着けておくことが必要だと感じています。

 さて、私が就職活動をしたのは30年以上も昔のことで文系でした。当時はインターネットもありくせんでしたので、もっぱら紙ベースでした。大学の4年生になるとどこで調べたのかはわかりませんが、就職情報会社から会社の案内が載った分厚い本が送られてきまして、いろいろな会社の情報を知ることができました。ハガキを企業に郵送すると会社案内などが送られてきました。

 当時就職活動の解禁は10月1日でしたが5月の連休が明けるとそろそろ就職活動が始まりました。興味がある会社の人事部門に電話をかけて会社説明会に出席したい旨連絡し日時がきまっていたら予約をしました。そしてたいがい会社説明会が終わると一回目の面接があります。顔合わせ程度のものから本格的な第一回面接の場合もあります。そして面接の結果二次面接の連絡が会社から電話がきたり来なかったりって感じで就職活動が進みました。そして最終的に内定をいただいた会社に就職することとなりました。

 今では大学3年の時からインターンとかもあるようですし、エントリーシートというものもあるようなので私の頃の就職活動より負担が大きいというか、当該の業界の研究とか会社の研究、自己分析などかなり徹底して行わないといけないようですね。これは十分に時間をかけて準備する必要がありそうです。

 ついでに、私は会社に入社して配属されたのが工場の人事部門でした。採用される側から採用する側の手伝いをするようになりました。工場なので理系の学生が工場見学に来たりするのでその手伝いをしたりしていました。当時の理系の学生の就職は完全に学校からの推薦で、学生がフリーに就職活動するということはありませんでした。そして工場見学に来た学生が学校推薦で入社するというパターンになっていました。

 採用する側としては大学4年生の採用活動はほぼ終わっているのでしょうけれども、休む間もなく次の採用活動がスタートするって状況だろうと思います。採用される側も大変ですが、採用する側も大変だよなって感じがしてしまいます。