メタセコイアが最後の輝きを放つ。
この樹の和名は曙杉(アケボノスギ)。
落葉松や銀杏のように生命の輝き最後のピークは、黄金色ではなく赤茶。
個人的な嗜好を云わせてもらうと、ピーク手前の黄金色に光り輝く祝福の樹の立ち姿が好きです。
今日は雲ひとつない透き通るような高い空が視界いっぱいに広がる。
こんな日に部屋に閉じ籠っている(本当は読み続けている本の世界に身を置きたい)、それだけで天に唾するような酷く不健全な想いに苛まれる。
雲ひとつない青空というシチュエーションは、風景写真を撮る立場だと面白くない。
例のピーカンという気象条件です。
生きてゆくという事は、最低限の身体運用の活動が必須なのです。
健やかな身体にしか健やかな心の平穏は訪れない…と云うのが真理なのでしょう。
可能な限り、外に向かう窓を開けておきたい。
成熟とは何か?…幾ら年齢を重ねても逡巡の日々です。
まさに黄金色から茶色に変わる時の流れです。
それと白鷺?の群れの様子を絡めての写真、なにか幻想を見ているような気がします。
先日放映されたNHKのヒストリア「日本人と山 私たちは、なぜ登るのか」は山岳信仰や境界争いで非常に興味が持てました。
自然には霊威が宿る、最近よく考えることです。
里山では霜化粧が見られるかもしれません?
散歩写真もネタ切れで、今回も偶然の白鷺の飛来でした(笑)
メタセコイアの遠景を望遠レンズで狙っているところに白鷺の群れが次々と横切るという幸運に。
(慌てたのでピントが甘いですね)
これも風景の中に何を発見するか?の好例だと思います。
歴史ヒストリアの山特集は、私も観ました。
加賀藩の黒部奥山見回り組は、あの当時の装備で鹿島槍に登ってしまう凄さ。
アーネスト・サトウの奥日光の山々散策は懐かしい風景です。
末尾に貼り付けた「困難な成熟」は、数値化された分かりやすさに傾きがちな価値観の標準化に一石を投じる提言ですね。
再読ですが「日本の身体」や「現代霊性論」を読み返しています。
伝統芸能(能や茶道、雅楽など)における失われた身体所作や呼吸法、
宗教として教義化される前のこの国の風土が培った様々な霊性との関わりは、興味深い内容です。
自分の立ち位置をもう一度確認するためにも。