今朝のネット配信で、中村とうようの死を知った。
慌てて朝刊をめくると、社会面に小さな囲み記事で「中村とうよう氏、飛び降り自殺か?」とある。
もう、すっかり中村とうようという名前自体も忘れ去っていた。
10代後半から30代前半くらいまで私の生活の中心に音楽があった。
そんな音楽世界への水先案内をしてくれたのが、中村とうようの編集する音楽雑誌「ミュージック・マガジン」だった。
特に新しい音楽を知ったばかりの高校生にとって四国という土地は、あまりにも音楽の辺境。
海を隔てた対岸から流れるFEN(岩国の米軍基地からのラジオ放送)のポップミュージックと
創刊されて間もなかった「ニューミュージック・マガジン」が唯一の拠り所だった。
当時、同じようにアートの世界を志していた同級生たちがいた。
I くんたちは修学旅行をキャンセル(すっぽかして)して、伝説のレッド・ツェッペリン初来日コンサートへ。
そんな懐かしい10代の冒険も思い出す。
京都の画学生になってからは、授業そっちのけでライブハウスやコンサート会場へ生(なま)の音楽を求め通い続けた。
すっかり10代から20代にかけての野放図な時代の回想になってしまった(笑)
中村とうようの死が、懐かしい日々を想い出させてくれる。
ねぇ、ほっほさん、ジョン・レノンが死んだあの日を想い出すよね。
多くの人の中には、音楽は泥臭いものから洗練されたものへ進歩して行くという先入観があるのではないか。ぼくはその考え方に疑問だ。クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルやザ・バンドやローリング・ストーンズの土の香りの豊かな音楽こそ、現段階ではもっとも新しい、もっとも高度の発展段階に達したロックである。大切なのは、つねに南部の、田舎の、貧乏人のフィーリングを追求しつずけるベクトルだ「70年3月号収録」
音楽は、今でも心が飢えたソウルだと思う。
ザ・バンド、ライ・クーダー、ニール・ヤング
ニッティ・グリッティ・バンド、岡林信康(ラブソング)等々今でも好きなミュージシャン全て中村とうようの影響です。
自殺ですか残念です。
私は、どちらかと云うとロック・ミュージックのルーツ音楽へと傾倒して行きました。
ブルーズ、R&B、ソウル・ミュージックと黒人音楽から、
さらにアフリカや第3世界の音楽へ。
そういう意味では「ミュージック・マガジン」は懐の深い音楽雑誌でしたね。
そして、あの時代は、まだ音楽に力があると信じられた時代でした。
ランスケ・ダイアリー「お遍路篇」ありがとうございます。
世界に唯一冊の本を、ほっほさんが創ってくれました。
あの厚み、あの重さは私の旅の重さでしょうか?(笑)