Landscape diary ランスケ・ ダイアリー

ランドスケープ ・ダイアリー。
山の風景、野の風景、街の風景そして心象風景…
視線の先にあるの風景の記憶を綴ります。

9条どうでしょう / 内田樹、小田嶋隆、平川克美、町田智浩

2013-03-22 | 

 

憲法9条…正直あんまり触れたくない話題だった。

改憲を声高に言い募る人たちの論調には、いつも胡散臭さがつきまとう。

だからと言って護憲という立ち位置にも偏狭さを覚える。

リアルポリティクスのど真ん中は、どちらに転んでも面倒な話題となってしまう。

またネット右翼の執拗な攻撃に曝されるのも神経を消耗させられるしね(苦笑)

 

でもそうも云っていられない厭ぁ~な 雰囲気が、

ジワジワ世論の趨勢を占めるようになってきた。

ふっと気が付くと周囲の空気が一変しているような怖さが現実感を伴って。

それはイラク戦争に日本が参戦したときに感じた怖さと非常に似ている。

安倍晋三第2次内閣は円安の追い風に乗って祖父以来の悲願達成のために、

そして震災後のネガティブな話題ばかりが続いたジリ貧のメディアにとっても、

尖閣や竹島に端を発する中国や韓国に対する国民の中に溜まった鬱積を利用して、

異論を許さないような熱狂が、また頭をもたげてきそう…

それでは、これほど改憲論者を熱くする憲法9条って一体何?

世界で唯一の非戦を誓う平和憲法は、

いまや「チキン野郎」と中指を立てられる日本人の自意識に立ちはだかる異物扱い。

 

この本の原本は2006年の第一次安倍内閣の頃、書かれている。

例の「美しい国日本」というキャッチコピーを掲げていたあの頃。

そして文庫化は震災後の2012年の10月だから、まだ第2次安倍内閣は誕生していない。

 

さて論壇を賑わす内田樹以下4氏の基本的スタンスは護憲派ではないが、

改憲論者の標榜する憲法改正には否定的という立ち位置。

あえて「虎の尾を踏むことを辞さない姿勢」アフォード・ダンスを自認する4氏の

憲法9条発言は如何に?

 

第9条。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、

国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力による行使は、

国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。

国の交戦権は、これを認めない。

 

まず4氏に共通な認識は、日米安保の庇護の下にあるとはいえ、

戦後60年間の平和と繁栄という実績と、その間、外国のどの土地でも、

日本の軍隊が外国人を殺さなかったという実績を世界に示したことは、

初発の動機がどれほど利己的で卑屈なものであったにせよ、

その実績は「60年間問題を先送りしてきた成果」として世界に誇っていい。

 

そして憲法9条が廃絶されたその後、日本の軍隊の置かれた状況を

改憲論者は想像しているのだろうか?

日本の軍隊の軍事行動は依然として一から十まで米軍の許諾を得てしか行われない。

アメリカは日本の主体的軍事行動を決して許さない。

アメリカは9条の改憲を黙認するだろうが、その引き換えに

日本の国防予算の増額と、その大半をアメリカ製の高額な兵器の

定期的かつ大量の購入に充当することを要求するだろう。

これまでのような後方支援の代わりに、

アメリカが始めた戦争の前線に駆り出して「戦死する権利」も確保してくれるかもしれない。

それが「憲法9条さえなくなれば、日本は誇り高い自主防衛の国になれる」

という60年間つき続けてきた嘘に対する

改憲の後、日本人が直面するはずの現実である。

 

それは政権が交代すれば沖縄の負担が軽減されるという幻想に

民主党が直面した普天間における現実であり、

TPPへの参加をのまざるを得ない安倍内閣の現実でもあった。

そして世界は、日本の国連における常任理事国入りを

アメリカの意志がもうひとつ追加されるだけとしか見ていない。

 

改憲論者が何度も口にする9条を廃止して「普通の国になる」ということは、

「普通の国」になったそのときに、

アメリカの「従属国」であるという否定しがたい事実に直面するだけの

心理的成熟を日本人は果たしているのだろうか?

 

その他、憲法という国の根幹となる国家と国民との契約は、

現実に即さないからといって、その都度変えるものではない。

憲法とは時代によって変わる現実を語るものではなく

理想を掲げ、それに近づくためにあるものだ。

ドイツや諸外国が憲法を手直ししているのは、枝葉としての条文であって

その根幹である主文に手を加えることは、ほとんどないという。

 

最後に平川克美のこの言葉を添えておきます。

80年代初頭のイラン・イラク戦争で、アメリカがもし10年後の湾岸戦争という

「現実」を知っていたなら、彼らはサダム・フセインを支援しただろうか?

 9・11という「現実」を予期していたなら、90年代のアメリカは

タリバンに武器供与をしただろうか?

中略

いずれの問題もその時代の人間たちが「現実」の問題を解決するというかたちで、

もうひとつの「現実」を作り出したことに変わりないのである。

歴史の教訓が教えているのは、「現実」はいつも陰謀と闘争の歴史であったということではない。

戦争そのものを否定するという迂遠な「理想」を軽蔑するものは、

軽蔑されるような「現実」しか作り出すことしかできないとういことである。

 

9条どうでしょう (ちくま文庫)
内田 樹,平川 克美,町山 智浩,小田嶋 隆
筑摩書房

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« やっと退院 | トップ | 春彼岸 »

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事