今、読みたかったのは、こういう物語。
くたびれ果て、かさついた咽喉を潤すのは、ひと肌に温められた白湯であったりする。
小川洋子の文庫新刊、「人質の朗読会」は、
自分たちが受け入れられないものを声高に排斥したり、
ひとを悪意に満ちた中傷で貶めることに暗い悦びを見い出すような、
不寛容な声が支配的な今だから、
読みたかった物語。
物語は、旅行会社によって企画された南米旅行中に、山岳ゲリラによって拉致された七人の人質たちの、
(もう一人、拉致されていた人たちの様子を無線で傍受していた救助隊員も最後に加わる)
極限状況の中で、朗読会として慎み深く語られる、
それぞれのささやかだけど、かけがえのない「善き時間」の記憶。
現在、もっとも良質の物語を紡ぎ続ける作家である小川洋子は、
あらかじめ損なわれた人たちを、その主人公として、
趣味のいい静物画ような寓意に満ちた物語を綴ってきた。
それは奇妙に日常を逸脱したような光景ではあるが、
「善き人」と過ごした掌の温もりを反芻するような大切な時間。
紡ぎだされる言葉の、ひとつひとつが、
とても洗練されている。
例えば、「コンソメスープ名人」より。
≫いよいよ牛肉の登場です。
彼女の痩せた指につかまれると、いっそうその活力が際立ちます。
彼女はそれをまな板の真ん中の載せ、
一度表面を撫でたあと、
ゆっくり包丁を当てて脂肪をそぎ落してゆきます。
すると不思議なことに、たちまち肉の塊は、すっと力を抜き、
息を静め、そのか細い指たちに身を任せます。
指たちは繊維の奥に隠れたどんなわずかな脂肪も見逃しません。
肉は少しずつ深い昏睡に陥りはじめます。
その一番底まで落ちた時、
塊は端から順に、ミンチ状に切り刻まれてゆきます。≪
う~ん、そのうっとりするような手際と黄金色のスープの馥郁たる香り。
でも、その味覚による欲望の成就を語らない慎み深さ(笑)
語られる八つの物語、どれも愛おしい慈しみに満ちている。
最後に無線を傍受していた救助隊員によって語られる、この物語を通じて象徴的な
エピソード(末尾の解説にも引用された)を紹介しましょう。
≫彼らの朗読は、閉ざされた廃屋での、
その場限りの単なる時間潰しではない。
彼らの想像を超えた遠いどこかにいる、
言葉さえ通じない誰かのもとに声を運ぶ、
祈りにも似た行為であった。
その祈りを確かに受け取った証として、
私は私の物語を語ろう≪
人質の朗読会 (中公文庫) | |
小川 洋子 | |
中央公論新社 |
歯医者の帰りに、つい買い物前の暇つぶしに立ち寄ったのが運のつき…
小川洋子の本をまとめ買いしてしまった(汗)
「人質の朗読会」を読んでから、
小川洋子の書下ろし長編小説である「ことり」のことが気になって仕様がない。
ページを開いて最初の数行を目で追うと、もうダメである…
脳科学者、岡ノ谷一夫との対談から、言葉誕生の起源、
「さえずり言語起源論」に端を発したのが本書だと云われている。
それに合わせるように、岡ノ谷氏との対談「言葉の誕生を科学する」と未読の文庫を3冊。
文庫末尾の解説を読んでいると、川上弘美が、こんなことを…
新刊が出たら必ず買う、という作家が何人かいる。
小川洋子という作家も、私にとってはそのうちの一人だ。
信頼できる作家と言えばいいだろうか。
追いかけている作家と、言っていいかもしれない。
ゆっくり気侭に追う作家が何人かいて、
その作家たちの本を読みつくしていない時、私は幸せである。
これは本当に「本読み」の、気持ちを代弁している。
私の好きな作家は、この川上弘美や小川洋子を始めとしてある共通点がある。
どの作家もプロの物書きである前に、子供のころから本の世界に耽溺してきた根っからの「本読み」であること。
村上春樹も池澤夏樹も梨木香歩も、みんなそうだ。
同じような世界を観てきたというか、
共通分母を持つ安心感や信頼感を抱いてしまうのだろう。
内田樹に云わせると、こういう気持ち(幻想)を読者に抱かせることが、
世界文学であるための必須要素らしいのだが(笑)
(小川洋子は欧米、特にフランスでの評価が高いようだ)
「人質の朗読会」は、かさついた心の奥深く仕舞われていた「善きものたちの記憶」を
日溜まりの柔らかい光の中に浮かび上がらせるような、その内容から、
3・11以降に書かれたような錯覚を覚えるが、
震災以前、2011年2月に出版された本である。