Landscape diary ランスケ・ ダイアリー

ランドスケープ ・ダイアリー。
山の風景、野の風景、街の風景そして心象風景…
視線の先にあるの風景の記憶を綴ります。

祝福について

2015-04-09 | Walk on

 

雨上がりの晴天。

ひんやり肌寒い朝だった。

桜の頃の寒気を花冷えというが、もう桜は何処も散ってしまっていた。

標高の高い処ならと目星をつけていた池畔の桜もダメだった。

池周りを周回して畦道を辿ると、その桜と出会った。

まだ辛うじて落花の間際で踏み止まった名残の花が。

一面の花片を敷きつめて…

傾いた西陽の中で最期の想いを伝えていた。

 

憂鬱な出来事が続く日々の中で、一斉に花開く桜の華やかな空間に想いを託すところがあった。

それも雨続きで、何やら消化不良のまま桜の季節も幕引きの様子。

一昨日、就寝前の習慣で本を読んでいると、

眠気眼(ねむけまなこ)が覚醒するような一節と出会った。

ちょっと引用したい。

 

ホロコーストの哲学者、レヴィナスの説話を解釈するという内容。

旧約聖書の有名な一節、

「神を愛し、隣人を愛す」そして「隣人を、あなた自身のように愛しなさい」

それは、あなた自身を愛するという自己愛への問いかけから始まる。

 

自己チューの時代、自己愛の時代と喧伝されるが、はたしてそうだろうか?

「私は私を愛している」という感情を人間関係の原点に据えるほど、

私たちは、この感情を熟知しているのだろうか?

自己嫌悪なら馴染みやすい。

生活や野心のために、やりたくないことを自らに強いる人は、たくさんいる。

自分が実際にしたことや言った言葉にリアリティを感じることのできない解離性の心的障害を病んでいる人も多い。

そのような人々にとって、「自分自身を愛する」ということは本能的で自然な行為といえるだろうか?

世の中には、自分自身をうまく愛することのできない人が無数に存在する。

現代において「隣人愛」が死語になったのではなくて、

自分自身の愛し方を忘れてしまったので、自ずと隣人への愛し方も判らなくなったのが正解ではないか?

 

それはボタンの掛け違いから始まっている。

「本当の自分」という幻想(セルフイメージ)を頭の中枢に想定して、

それに他のすべてが隷属している状態として自我を形成する。

 

私たちは誰も、自分の中に弱さや醜さや邪悪さを抱えている。

誰も憎まず、誰も羨まず、誰にも欲望を抱かない人間などこの世に存在しない。

自分の中に確かに存在する、そういった邪念を受け容れるところからしか、

「自分自身を愛する」ということは始まらない。

自分の中に混在している多様な人格要素をゆるやかに包括し、共生する。

自分の弱さと共生する。

「共生」することが「愛する」ことの原基的な形態である。

自分自身を愛するということは、自分自身の中に存在するさまざまな、

「不快な人格的要素」と、なんとか折り合って暮らしてゆくことである。

隣人を愛するというのも、それといっしょである。

己の内なる他者と共生することのできる能力、

おそらくそれが隣人を愛する能力、神を愛する能力に真っ直ぐ繋がっている。

 

う~ん深すぎる。

祝福に関する説話は、まだ続く。

また次回に。

つづく(笑)

 


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8 コメント

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自己 (鬼城)
2015-04-10 07:22:04
自分を愛することと自己中心と間違えている人も居ます。
どこが違うのか?他の人を考えながらという頭が抜けている生では無いかと思います。
最近、考えることより、動くことが増え(泣)、ゆとりがなくなっています。
桜の花筵の写真を見ながら、反省・・・
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愛について (ランスケ)
2015-04-10 10:52:23
また今日も雨ですね。
桜雨と呟けば風情もあるけど、やっぱり、こう続くとね。

ここに紹介したレヴィナスの説話は、そのまんま、現代の社会を覆う病理でもあります。
特に厄介なのが、「本当の自分」という在りもしない幻想への執着ですね。
誇大した自我ほど厄介な代物はありません。

仏教でも「諸法無我」において自我の幻想と、私たちは縁起によって生かされている存在、
そして他者との慈悲の関係性を説きます。

このお話が、より心を動かされるのは、共生への愛の形を具体的に語られていることです。
雨上がりの晴天の画像と共に、お話の続きを書きたいです(笑)

遅まきながらセカチュー(世界の中心で愛を叫ぶ)観ました。

https://www.youtube.com/watch?v=j5dPM2crKoU

この映像、凄いですね。
雨の中、走る映像が駆ける足のアップとなり、
駆け続ける足の回転が堤防への疾走に繋がるカット。
ぱーっと風景が広がって夏の海へ。

この映画のカメラマンは篠田昇でした。
岩井俊二の映画を撮り続けたカメラマンです。
セカチューが最後の撮影だったそうです。

映画はカメラマンで決まると云っていたのは誰でしたけ?
私も、この意見に賛成です。
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汝の隣人を愛せよ (misa)
2015-04-10 21:37:15
旧約聖書を片手に讃美歌を・・・・・遠い昔のことになりました

生活や野心のために、やりたくないことを自らに強いる人は、たくさんいる・・・・・皆そうでしょう
多かれ少なかれ100%人生謳歌している人なんて居ないと思うのです。欲深い人間という生き物は上を上を見続けます。自分が劣るのは周りのせいだとも思います。
本当はこんなんじゃなかったよともう一人の自分が呟きます。でも、歩いていかないと駄目なんです、生きてるから・・・・・

「あったかいんだから~」ってこんなに良いCMも有るのにね

なんかmisa変
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共生のための作法 (ランスケ)
2015-04-10 23:35:37
この話の続きは、また明日以降と考えていましたが、
少し前倒ししましょう。

misaさん、もう少し周りを見渡してほしい。
そんなに自分を追い詰めなければならないほど生活環境は劣悪なのでしょうか?
日本という国は世界の中で、まだ充分に豊かな資源と住環境に恵まれています。
この国は乾燥した砂漠でも凍りついた寒冷地でもない。
いざとなったら自給のための作物も育つし水も豊富です。

問題は、どんどん、この国が貧しくなって行くという現実を受け入れることです。
若い人たちは、確実に現実を受けて入れています。
何もこれ以上無い物ねだりをしてもしようがない。
あるものでやってゆくしかないのです。
住居も車もあるものをシェアすれば好い。

近代化とは、共同体を分断する過程でした。
それぞれが融通し合い充足する共同体では、物やお金が流通しません。
欲望を喚起し続け、家族という単位さえも分断して個人という最小単位(一家に車複数台とか)の消費を煽り続けます。
もう、そういう時代ではありませんよ。

今現在、必要なことは信頼できる共同体を回復することです。
行政は自己責任へと益々、私たちのセイフティネットを切り崩して行くでしょう。
もう私たちは自分たちで自己防衛してゆくしかないのです。
「汝の隣人を愛せよ」とは、そのための共生の作法です。
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おはようございます (misa)
2015-04-11 08:25:49
若い人たちは、確実に現実を受けて入れています。
本当にそうであれば問題はありません。犯罪も自殺も戦争も起こらない平和な日本なのです。
誇りを被った聖書・・・・・何年振りかで教会へ向かいます。
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生き辛い時代に (ランスケ)
2015-04-11 16:49:31
misaさん、再度の書き込みありがとうございます。

残念なのは、私の意図する方向とは真逆の方向にmisaさんが向いていることです。
それは、また次回のレヴィナスの話の続きで具体的に。

今回の記事は、今は何を書いても悲観的な話しかできないので、
少しでも前向きな、生き辛い時代への対処法という想いで書いています。
楽観的と云われれば、それまでですが、
もう開き直るしかないでしょう(笑)
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生き方は難しい (karina)
2015-04-13 07:57:23
世の中の全ての人と触れ合って心楽しく生きたいものを・・・
いつも心の中でつぶやいているフレーズですがこれがなかなか難しい。
どうしても好きな人と嫌いな人、気が合う人と合わない人が出来てしまう。
そういったことは自然のなりゆきだからそのまま受け入れるしかないと思っていてもなかなか受け入れることが出来ない。

在職していた職場を訪ねても在職中は話し声や笑い声で溢れて暖かい雰囲気だった。今はみんなパソコンと向き合って話し声一つしない冷たい空気が流れているように感じて帰ってきた。

野山へカメラを持って出かけるのも楽しい自分を見つけたいのかもしれません。

>誰も憎まず、誰も羨まず、誰にも欲望を抱かない人間などこの世に存在しない。

>自分の中に確かに存在する、そういった邪念を受け容れるところからしか、
返信する
やっとアップしました (ランスケ)
2015-04-13 19:08:14
karinaさん、返信遅くなりました。

前回のmisaさんへの返信にも書いたように、このお話には続きがあります。
それを、きっちり書いてからコメントへの返信とさせてもらいました。

ちょっとアップさせるまで時間が掛かってしまいました。
次の記事は、山間の旧い木造校舎に咲く桜が主人公。
この桜の撮影のために雨上がりの晴天の日を待ちわびていました。
やっと巡り来た晴天の予報も、残念ながら高曇り。

それでも、あれから4年の歳月が流れているので、あの木造校舎は残っているだろうか?
桜の花は咲き残っているだろうか?
不安いっぱいの探訪でした。

「待っていてくれたんだねぇ」とrieさんが言ってくれました。
本当にねぇ。
こんな郷愁の風景は、もう見られないかと諦めていました。
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