今年最後の桜は、この場所で撮りたいと願っていた。
山間を縫う旧い街道筋の外れに、ひっそりと建つ木造校舎。
その校庭には、きっともう桜の花が咲いているだろう。
はらはらと舞い散る桜の樹の下に佇んだなら、
遠いあの日に還れるかもしれない…
一年一組、らんすけくん。
「はい」
そして耳を澄ませば、風にのって懐かしいピアノの旋律が聴こえてくる。
音楽室から、いつも流れていた、あのメロディ。
桜舞い散る春は、遠い日の記憶を鮮やかに呼び覚ましてくれます。
うららかな春の夢の続きは、Gift(贈与)の交換を巡る祝福についてのお話を。
前回、ユダヤ教の聖典(旧約聖書)、レビ記の中の一節、
「神を愛し、隣人を愛す」そして「隣人をあなた自身のように愛しなさい」
をめぐるナチス強制収容所からの生還者、レヴィナスの説話を紹介しました。
ホロコーストの虐殺から生き残ったレヴィナスの哲学は、とても難解です。
私には、とても歯が立たないので、
このお話は、日本における善き翻訳者である内田樹の著作からの抜粋です。
先ず、キリスト教における「汝の隣人を愛しなさい」とユダヤ教のそれは、かなり意味合いが違っているようです。
広く知られている博愛主義的意味合いよりも苦難の民であるヘブライ人(ユダヤ人)の
共同体としての絆を強めるための共生の哲学と解釈した方が近そうです。
だからこそ、今現在の生き辛い時代の処世術として心に響くものがあるのです。
私たちは、自己責任、自己決定の依存しない生き方を「自立した人間」として当たり前のように受け容れようとしています。
本当にそうだろうか?
近代化以前の世界は、どうだっただろう?
隣近所が助け合う相互扶助が、長い間、共同体存続の基盤だったはず。
一人でできることでも二人でやる。
効率化を最優先する現代では、とんでもない話です(笑)
レヴィナスは繰り返し、pour L’autre (他者のために / 他者の身代わりとして)と説きます。
「交換」それが共生のための原基的形態であり、人としての自然な姿だと。
分かりやすい例えとして、ここではキャッチボールを挙げます。
ひとりが投げる。
ひとりがそれを受け取り、投げ返す。
この遊びが「交換」の原型だろう。
キャッチボールは一人ではできない。
繰り返すボールの交換の内に、相手の存在を自然に受け入れてゆく。
「あなたなしには、私はこのゲームを続けることができない」
キャッチボールをしている二人は、際限なくそのメッセージのやりとりをしている。
この時、ボールと共に行き来しているのは、
I cannot live without you
という言葉なのである。
これが根源的な意味での「贈与」である。
ひとりでできることを二人がかりでやる。
それによって「あなたなしでは、私はこのことを完遂できない」
というメッセージを相互に贈り合うこと。
それがもっとも純粋な交換のかたちであり、
私たちが発することのできる、もっとも純度の高い愛の言葉である。
I cannot live without you (あなたがいなければ生きてゆけない)
そして、このyouの数をどれだけ増やすことができるか?
それが共同体で生きる人間の社会的成熟の指標である。
幼児にとってこのyouは、とりあえず母親ひとりである。
子供がだんだん成熟するに従がって、youの数は増えてゆく。
「誰にも頼らなくても、ひとりで生きてゆける」という能力を開発する方が
生き延びる確率を高めるのではないか、と経済合理性を信じる人なら考えるでしょう。
でも、それは短見である。と(笑)
「あなたがいなければ生きてゆけない」という言葉は、
私の無能や欠乏についての事実認知的言明ではない。
「だからこそ、あなたにはこれからもずっと、元気で生きて欲しい」という
あなたの健康と幸福を願う予祝の言葉なのである。
自分の周りにその健康と幸福を願わずにはいられない多くの人を有している人は、
そうでない人よりも健康と幸福に恵まれる可能性が高い。
それは祝福とは、本質的に相互的なものだからである。
自分の懐で安らいでいる赤ちゃんの訴えるような眼差しのうちに、
「あなたがいなければ、私は生きてゆけない」というメッセージを読み取る母親は、
必ずそれに、「私もまた、あなたなしでは、生きてゆくことができない」というメッセージで応じることになる。
というのは、あるメッセージを正しく受信したことを相手に伝える最良の方法は、
同じメッセージを相手に送り返すことだからである。
下3枚の画像は、帰路の途上、三坂峠、旧遍路道の満開の山桜。
そして峠の九十九折を下った萌黄の風景。
過ぎゆく春を見送り、巡りくる光溢れる季節を言祝ぐ。
私が昭和43年着任した学校が、こんな風景でした。今はもうありません。懐かしく当時の思い出に浸っています。
キャッチボールの話もすーっと頭に入り込んできました。
人とのつながりも大事ですね。
三坂越えをして満足し、帰途につくランスケさん、体調も戻ったようですね。
私も小学校入学当時は木造校舎でした。
今は、もうない道後小学校です。
道後温泉の裏山、小高い丘の上にありました。
この木造校舎が残る場所は、久万高原の旧い遍路道沿いにあります。
今では、お遍路さんも、ほとんど通らなくなった道です。
私が歩いたのは4年前の春で、遍路の予行演習の途上でした。
あれから年月も経っているので、まだ残っているか不安でした。
そして桜の花もね。
集落の手前には水の澄んだ小川が流れ、山間に拓けた田園風景は、まさに春の小川。
そして絵に描いたような懐かしい木造校舎が。
なんだか春の夢の中を彷徨っているような幸福な時間でした。
撮影していると、集落に一軒だけ残ったお年寄りが声をかけてくれました。
そして鍵のかかった校舎の中を撮影させてくれたのです。
長い廊下、階段を上がって、右の音楽室。
部屋の隅にはオルガンが残っていました。
午後の教室に射しこむ光の中に佇んでいると、
「トロイメライ」の旋律が聴こえてくるようでした。
大林宣彦の名作「転校生」のエンディングに流れた、あの音楽です。
夢心地のままの帰路、三坂峠の山桜も殊の外、美しかったです(笑)
キャチボール絡みで、近頃出色のCM動画を。
トヨタGsの「街は草野球」、痛快です。
https://www.youtube.com/watch?v=OpWUEj5RoGc
良い響きです
数年ぶりに訪れた礼拝堂は変わりなき静けさと優しさで私を迎えてくれました
性急に結論を出してほしくなかったのです(笑)
I cannot live without you
この言葉を繰り返しつぶやいていると、不思議に元気になります。
祈りは簡潔な言葉のリフレインです。
般若心経をオマジナイだといったのは詩人の伊藤比呂美でした。
Gift (贈り物)はあげた方が幸せだと云います。
祝福は贈与の交換。
misaさんにもオマジナイの言葉を贈ります。
I cannot live without you
以前の書き込みに、そのことに触れた文章があったので、またここに再掲載します。
≫贈与(ギフト)について (ランスケ)
2013-08-31 13:04:33
映画や音楽に対して感じる幸福感は、現在ではパッケージされた商品ではあるが、
昔から芸能は神の憑代であり、神様からの贈り物だった。
贈与(ギフト)は、人が境界を越えて交流するときの経済活動の原点でもある。
「贈与って聞くと、多く持っている者が少なく持つ者に分け与えるというような
偉そうなイメージを持たれるかもしれませんが、違います。
贈与は〝自分は何もしていないのに先行者から贈り物をもらっちゃった〟
というところから始まるんです。
もらったままだと負債感を覚えるので、次にパスしたくなる。
これが基本的な流れです。
何を贈与されたものと感じるかは人それぞれ。
自分の身体髪膚(しんたいはっぷ)、何千年もかけて体系づけられた日本語、文学、音楽……。
身の回りのすべてが贈与されたものに思える人は幸福なんですよ」
「自分はこんなにもらったんだから、他の誰かにもあげたいなって、自然に感じられるということですよね」
「そう。被贈与感って、自分が誰かに承認されて愛されていることの説明にもなりますよね。
何しろもらえるわけですから。大きなものをもらえばもらうほど、人にもあげたいという〝反対給付〟の義務が発生する。
これが人間の本質です。
もらいっぱなしで平気な人は、本当は人間じゃない(笑)。
あげたいという心の動きを持つことで、人間は初めて経済活動をスタートさせ、共同体を形成できます。
風でたまたま飛んできたゴミかもしれないけど、宛先を自分だと思ってそれに感謝し、代わりの何かを置く。
商品であれば自分がエンドユーザーになることは可能ですが、贈与されたものはそもそも商品ではないので、パッサー(パスを出す人)にしかなれないんです」
えっと、これもレヴィナスの研究者、内田樹の著作からの引用です(笑)
南側と北川に東西に2階建ての木造校舎があり渡り廊下で結ばれていました。
中庭には池がありフナやコイが泳いでいました。
今はそれらの池もなくなって4階建ての校舎になっています。
家の前の道路に面したところに小さなロックガーデンを作って季節の花を絶やさないようにしています。
道行く人が歩みを止めて観ているのを見ると私も幸せな気持ちになります。
わが庭の蝋梅の花咲きそろい
歩みをとめる散歩の人あり・・・・karina
苧環の咲きたる庭や笑みこぼれ・・・karina
お昼過ぎから郊外を散歩してきます。
karinaさんも木造校舎で過ごしましたか。
前回と今回の記事は、私が内田樹経由でレヴィナスから受け取った贈り物を、
この記事を見てくれた皆さんへパスした祝福のメッセージです。
少しでも温かな気持ちになられたのなら、
次の人へパスしてください。
頂いた贈り物は、自分のところで留まって私物化したり退蔵してはいけません。
幸せな気持ちは、拡散してゆきましょう(笑)
あっ、SNSの繋がりと共有感の拡散って、これと一緒ですね。
他人を誹謗中傷する呪詛の言葉ではなく、祝福の言葉が広がってゆけば、
もっと住みやすい社会になるのですが…