魔術師、辻原登の熊野を舞台にした壮大な物語「許されざる者」上下の文庫新刊。
贔屓の作家の作品が文庫化されたときの愉しみは、その後書き解説を誰が書くか?
近頃では湯本香樹実の「岸辺の旅」(文春文庫)の解説を平松洋子が書いていた。
あの導入部の白玉から始まるくだりは、物語に対する愛おしさに溢れていた。
そして今回の「許されざる者」は、なんと、いしいしんじである。
それもこれ以上の表現はないと思わせる名文。
だから、私なんかが駄文を重ねること自体が憚れる(笑)
あの作家と作品に対する心からの賛辞を読めば、何も付け加える必要はない。本当はね。
以下読み流してください。
私の本の購入における一番の動機は、掴みともいえる物語の導入部に尽きる。
辻原登はこう始まる。
≫あの日のことは忘れることができない。私たちは港にいた。
明治三十六年(1903)三月の終わり。ひとりの男が意気軒昂と帰って来て、それを迎える私たちも喜びにあふれていた。
その日、半島の南を夜来の雨が濡らした。雨は正午には山間のほうから上がりはじめ、
やがて沖合も晴れたが、なぜか私たちのいる湾だけを置き去りにして二時過ぎまで続いた。
そして空にふたつの虹が現われた。
ひとつは、遠く西の那智の連山から熊野灘へと大きな弧を描いた。
虹の起点について、海のほうは茫漠として定めがたいが、陸はちょうど那智ノ大瀧のあたりだと見当がついた。
弧の内側がピンクがかった赤で、外側にむかって黄、緑、青から紫へとあいまいに移り変わってゆく。
全体がぼんやりと淡く、眠たげに架かっていた。
もうひとつはそのはるか下方に、とても小さく、私たちの湾をまたいで、くっきりと目の覚めるようなあざやかさでアーチを架けていた≪
なんと二連の虹が那智ノ大瀧から熊野灘に架かる大きな風景が、
観る者の心を鷲掴みにして清新な言葉の放つ物語世界のなかへ引きずり込んでゆく目にも鮮やかな導入部。
このような辻原マジックが初めから終わりまで。
辻原自身が云うところの19世紀ロマンのパスティーシュ、絢爛たる物語のうねりに、ひたすら身を委ねることになる。
19世紀ロマンの命脈は「戦争と平和」だと云う。
日本の将来を決定したといわれる日露戦争の前夜から終戦まで、そして同様に社会思潮を決定づけた大逆事件を背景に。
神話の地、熊野を舞台に歴史上実在の人物を散りばめ、
例えば、新宮大逆事件における無私の人であった大石誠之助、阪急電車の創始者、小林一三、
西蔵探検の先駆者、大谷光瑞、日露戦線に参戦した森鴎外に従軍記者だった田山花袋に、「荒野の呼び声」のジャック・ロンドンも。
それらの人物が無理なく、するりと物語のなかに溶けこみ、生き生きと語りかけてくる。
でも、この物語のなかで最も秀逸な存在は、トリックスターである点灯屋とネジ巻屋に尽きる。
この二人を造形したことが、この物語に神話世界への飛躍と現世の枷を外させた。
話がまた長くなるので、物語の骨子から外れよう。
辻原自身が語るように、これはトルストイの「アンナカレーニナ」やチェーホフの「子犬を連れた貴婦人」のように19世紀的手法の姦通小説である。
熊野新宮藩の旧藩主家、殿様の奥方である永野夫人と主人公のドクトル槇の道ならぬ恋が、
これでもかという美しい筆致のなかで展開してゆく。
その極致は那智の火祭り、御灯祭りの夜だろう。
祭りのクライマックス、埋め尽くす群衆の宵闇のなか、求め合う心が彷徨う指となって触れ合った人差し指の描写の、なんと官能的なこと。
ドキドキドキドキ美しすぎて眩暈がしてくる。
この危険な恋と対比するようにドクトル槇の美しい姪、千春の初々しく切ない恋模様も平行して語られる。
まだまだ、書き連ねるときりがありませんね。
以前にも紹介した辻原の「闇の奥」における紀州の人外魔境、果無山脈を愛馬と巡る神話世界。
主人公の甥である勉の終焉の地となり潮岬の台地に広がるユートピア。
人形浄瑠璃の小屋掛けと蓮池の浄土が広がる淡路島。
主人公、ドクトル槇が医学を学んだインド、ボンベイ。
そんな物語の背景となる土地土地の描写。
そしてやはり森宮と記された熊野新宮の街並みと日露戦争の戦場における凄惨な描写が精緻に筆を重ねている。
もうひとつ付け加えておきたいのが、ドクトル槇が実践しようとした「差別なき医師団」や被差別における理想郷の建設。
(それは中上健二が描いてきた「千年の愉楽」に結実された熊野の神話世界とは対極にあるものかもしれないが)
ドクトルのモデルとなった大逆事件の大石誠之助も赤ひげ先生のような無私の人だったらしい。
現在はその冤罪が晴らされ、新宮市内にドクトルを顕彰する碑が建てられているそうだ。
あぁ結局、欲張りすぎて取り留めもない、いつもの紹介文となってしまった(苦笑)
最初に記したように、文庫末尾のいしいしんじによる解説文を読んでください。
この中に、辻原登の魔術的な物語世界の魅力のすべてが収められています。
許されざる者 (上) (集英社文庫) | ||||
辻原 登 | ||||
集英社
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偶然にも、松山美術研究所展に1期生の吉安まり子さんの作品が「熊野灘・夏」という作品です。
謎めいた心象風景です。吉安さんは、自分の作品について、殆んど語らないので何時も謎めいていて読み解けないです。
いつもながら本の紹介は反応が鈍いようです(苦笑)
私が、ここで取り上げる本は一カ月に10冊前後読む本のなかでも、これはと思うお薦めの本ばかり。
機会があれば本屋の店頭で手に取って見てほしいと思っています。
そうですか。
あの屏風絵が「熊野灘、夏」でしたか。
何か印象に残る作風だったのでブログ上でも紹介しました。
私も実は父親の転勤で3年くらい和歌山市で暮らしています。
あの頃がちょうど山に目覚めた頃でした。
中学2年の夏、同級生の故郷だという熊野山中奥深い集落に滞在しました。
あの清冽な川の透明感は未だに鮮烈に記憶に刻まれています。
御指摘の通り、国民的文学「坂の上の雲」で描かれた日露戦争とは随分違います。
たぶんそれは司馬遼太郎の歴史観とは異なった価値観が辻原登の底流に流れているからだと思います。
進歩史観とは別の思潮が。
近代合理主義の行き着いた先が、現在の立ち止まることの許されない文明だということに、やっと気づき始めた私たちです。