東北の旅に持っていった二冊の本のうちの一冊。
まだ旅の最中、この本の語り口が、すんなり入ってこなかった。
むしろ帰宅して、うだるような陽射しの午後、扇風機のぬるい風に吹かれながら読み始めたら、
惹きこまれ、そのまま部屋が夕暮れの闇に落ちるまで読み耽った。
ある意味、これは目から鱗の拾い物だった。
養老孟司は、唯脳論以来だから、ずいぶん遠去かっていた。
「バカの壁」の奇妙な売れ方も引っかかっていたかもしれない。
バカの壁の売れ行きの余勢をかって日頃思っていたことを言いたい放題
口述筆記したのが、この本だということだ。
なるほど養老孟司らしい歯に衣を着せね啖呵が威勢良い(笑)
さて環境問題の前提として取り上げられるのが、人間対環境という図式だ。
まずここで足元をすくわれる。
人間そのものは人工物ではない。
身体は生態系に属する、その体内には一億以上の微生物が棲みついている。
そして人間の身体は70%以上の水で構成され、その水は絶えず入れ替わっている。
人の身体は流れる川そのものと云える。
それでは環境と対立する人工物とは何だ?
それは人間の意識が創り出したものをいう。都市はその典型である。
都会には人間がつくらなかったものは置かれていない。樹木すら都会では人間が考えて植える。
草が勝手に生えると、それを雑草という。
なるほど立て板に水だ。さすがに長年となえてきた唯脳論に磨きがかかっている。
さらに環境問題を考えると必ず言及されるのが経済との対立だ。
それは、そのまま原発をめぐるエネルギー問題にも置き換えられる。
よく云われるのは「経済という実体の前では環境は実体の乏しい虚である」という論理。
でも、よく考えてみたら、この論理は巧妙なすり替えにすぎない。
経済というのは金のやりとりの約束事であって何ら実体を持っていない。
一度その約束の前提を失うとユーロのように大暴落をする。
それに引き替え環境は、目の前にある自然であり資源である。そのものが実体だ。
養老孟司は「花見酒の経済」を例えに、この矛盾を解き明かす。
樽酒を担いで八つぁんと熊さんが花見に繰り出す。
八つぁんは手持ちの十文を渡して熊さんに酒を一杯飲ませろという。
次に熊さんが八つぁんにもらった十文で、おれにも一杯飲ませろという。
これを続けていると、いずれ樽酒はなくなる。
しかし経済統計は収入と支出のつり合いが取れているので、つじつまがあっている。
つまり経済とは十文のやりとりを指し、酒の減少は資源である。
極端に単純化するとグローバル化した経済とは、地球規模の花見酒である。
これは、そのまんまだよ。笑えない。
それでは「環境問題」とは何なのか?
それは何かに手を入れたことに対するツケである。
農薬や遺伝子組み換え作物の問題が、その典型。
多摩動物園の昆虫館に勤める人が、スーパーで小松菜を買ってきて、
飼育しているバッタに食べさせたら皆死んでしまった。
見た目の綺麗な野菜だがその残留農薬は、昆虫には致命的だった。
人の欲望はきりがない。
虫に食われていない綺麗な野菜。日持ちのいいもの。すぐ食べられる調理済みの食品。
おかげで農薬漬け、保存料や人工着色料のふんだんに添付された加工食品が出回る。
便利さを追い求めた先に、とんでもないツケを支払わされる。
CO2の排出にしても肺がんの最大の原因は喫煙によるものではなく、
増え続ける車による大気汚染である。
しかし現代において、便利さを最大限に享受する車を規制することは、ほとんど不可能だといえる。
環境問題の、もうひとつ大きな柱である生物多様性とな何か?
トキやメダカがいなくなったからといって何が困るんだ。
消えてゆく生物種は進化の過程で淘汰された種だ。という論理。
実は、これは一部しか見ていない。
自然は大きなシステムと考えるべき存在で、それぞれが依存しあっている。
その連鎖の環がどこかで断ち切れると、今現在はみえなくても、
どこかでその影響が現れてくる。
例えば人間は科学の発達と共に自然をコントロールできると勘違いしてきた。
「ああすれば、こうなる」という結果を常に求めるようになってきた。
でも生物というシステムのなかでは目の前の悪い因子を取り除いたからといって
結果として良くなるとは限らないのだ。
遺伝子操作の危うさは、そんなところにも現れている。
それでは環境問題の解決法とは何か?
養老孟司は日本の里山に改めて注目する。
この辺りは、さすが虫ヤとしての本領発揮だ(笑)
大陸の文明は都市の発達と共に周辺の森林を刈り払い資源を枯渇していった。
ヨーロッパではアルプスより南の森林はローマ帝国時代までに、ほとんど切られ、
アルプスより北の森林は中世以降までに切られて行き、19世紀にはポーランドに達し、
ヨーロッパの森林は、ここにきて消滅したと云われる。
島国であるイギリスも同様で、中世までには森林のほとんどが消えていたと云われる。
その後、産業革命による石炭の消費でロンドンは大気汚染に覆われる。
そういう意味ではイギリスは環境問題の先進国である。
一見、ヨーロッパの自然は、のどかな田園風景が広がり豊かにみえるが、
その昆虫の生態などは悲惨なものらしい。
それでは日本の国土は、どう変化していったのだろう?
現在の日本は相当な勢いで環境破壊が進んでいるが、まだ大陸に比べたら環境に優しい国だった。
それは森林被覆率をみればわかるように、豊かで精彩に富んだ自然を背景に
日本人は自然と戦うのでなく「手入れ」という独自の思想で自然とつきあってきた。
その代表が里山における雑木林の活用だ。
それは根こそぎ伐採した大陸とは違い、薪や炭の活用や落ち葉の堆肥、
草刈で森を手入れしてきた。
ただし関西以西では雑木林を放置しておくと、そのまま照葉樹林になってしまう。
照葉樹の森は陽射しを遮り、下草が育たないので生物を生育できない。
定期的に人の手を入れる必要がある。
自然は、そのまま放置することが、必ずしもベストではない。
特に、現在の人によって完全に生態系が寸断された現状では。
環境原理主義と呼ばれる一方の大きな潮流にも警告を発する。
原理主義は、こうだと決めつけることで思考停止している。
考えないことは、実はとても楽なのだ。
私自身も振り返って気を付けましょう(苦笑)
いちばん大事なこと ―養老教授の環境論 (集英社新書) | |
養老 孟司 | |
集英社 |
養老孟司が何を言いたいかと云えば、
知識として都会に住む人は環境問題を理解しているが、ほとんど自然が持つ多様な側面を分かっていない。
そのために、もっと田舎で直に自然に触れてみるべきだと主張している。
もうひとつ面白いのは、同じ環境問題を扱った武田邦彦の「環境問題のウソ」が、よく理解できるという側面だ。
非常に解釈が曖昧な部分をついて武田先生特有の、それまでの常識を覆すレトリックを駆使しているのがよく判る(笑)
普段から自然と接していれば、その論旨のいかがわしさが見えてくるのだが、都市生活者は、コロリと騙されるようだ。
養老孟司は、それを意図したわけではないだろうが、さすがに虫ヤ、武田先生とは180度違う環境論を展開する。
読んでいて気持ちが好い。
もっと遺伝子や細胞、そしてカオスによって解き明かされる生物のシステムとしての不可解さまで書き進めたかったが、
私自身に、それも上手く咀嚼する下地が足りず、上手く伝えられなかった。残念。
最後にこの本、2003年の発行ながら、すでに21回も版を重ねている。
日本人の共生とは、死んだ家族とか、自然も含む。
人間の潜在能力の豊かさ
(身体の豊かさ)
あなたの周囲に目を向けて下さい。自然の中には、未知の宝が無尽蔵にあることに、気づくでしょう。
空には、数え切れないほどの星が満ちています。望遠鏡の性能が向上するたびに、天文学者はそれまで見えなかった、新しい星の世界を発見してきました。
地上には、数限りない小川や大河が流れています。
大海には、あらゆる種類の生き物が棲みついています。
海辺で、砂粒を数えきることができるのでしょうか。まる一日かかっても、コップ一杯分の砂粒も数えられないでしょう。
丘や山を数え尽くすこともできません。
水は、すべて海に注ぎますが、海が溢れるということはありません。
有志以来、大地から掘り出された鉱産物も、海の底に今なお眠っている資源の豊かさに比べれば、ほんの一握りにすぎません。
この文章はアメリカ人が作った自己啓発の本「成功への心構え」から引用してます。
成功とは、一つ間違えると、自然破壊や富を搾取する為の心構え(モチベーション・動機づけ)になりかねません。
この世界は、地球からの恩恵で発明や発見(進歩・後退?)がされ。全ての生き物が生活しています。
人間は、暇つぶし以上に何をしているのでしょうか?
実は、この本のメッセージの大事な部分が抜けていました。
日本人は自然を相手に暮らすなかで「努力、辛抱、根性」という処世を学びました。
予測不能な自然と共に暮らすには、ひたすら辛抱して地道に努力して「手入れ」をしてゆくことの積み重ねだったと推測します。
都会に暮らす若者たちは「努力、辛抱、根性」が嫌いです。
身の回りに自然があるわけではないので、そんな自然とつきあうための知恵など必要ありません。
都会では、頭の回転が速く、気が利いて、上手に言葉が扱えることの方が重要だと日々体験しているからです。
こういうシュミレーション能力、「ああすれば、こうなる」という物事を単純化して常に答えを求める傾向が強まっています。
こういった物事をコントロールできるという思い込みと対処法としてのマニュアル化によって私たちは都市という安住の地で便利と快適を享受してきた。
でも自然をコントロールすることもマニュアル化することも人間には出来ない。
自然という大きなシステムにおいては、「ああすれば、こうなる」などという単純化された答えなどないからです。
それを私たちは、震災と原発事故で厭というほど実感しました。
この先の世界を考えるときに、この本はいくつかのヒントを与えてくれているように思えます。