この本のことは何度か書こうと思っていた。
尖閣や竹島の領土問題が浮上してきたときは、ちょうどタイムリーな内容だと思った。
梨木香歩が、この本で主題として扱っているのは「境界」について。
例えば、こういう記述。
≫主義も思想も価値観も違う相手に、文字通り水際でどう対応するか。
当事者には当事者のいかんともしがたい歴史と事情がある。
それはそれでそれぞれの物語だ。
利害がぶつかる。まったく理不尽に思える攻撃が加えられる。
それでも、結局はこちらに相手の、また相手にこちらの、物語を、
胸を開いて分かろうとする姿勢のあるなしが交渉の重要な鍵を握る。
本当の駆け引きは、そこから始まる。
相手にも歩み寄ってもらわねばならない。そういうふうに流れを持ってゆく。
自分の土俵に相手を引きずり込む、のとは似て非なるやりかたで。
まったく共感が持てないように思えた相手側の思考回路にも、変容してもらわねばならない。
それは相手側の物語の中で自然に発生してゆく変化でなくてはならない。
強者が力ずくで、という形は何としてでも避けたい。
そうでなくては「恨み」が残る。≪
メディアで飛び交う威勢のいい言動は、物事を単純化して判りやすいし受けもいい。
でも、そこからは何も生まれない。
私が今、この本を取り上げるのは、日本人のナショナリズムを刺激し続ける領土問題からではない。
コミュニケーションの手段を、ほとんど欠いたような状況のなかでも、相手に伝える何か?
例えば、九州の山間の旧い街で、ドーバー海峡を望むセブンシスターズの断崖で、トルコの辺境の高地で、
その境界の向こうへと踏み出し心を通わせた瞬間を、言葉を尽くして再現しようと著者は試みている。
≫自分の言いたいことの気配を伝える。
きっとそれがコミュニケーションの最上の部分のひとつなのだろう。
私は言葉というものを、とても大事には思っているが、ときどき人が言葉を持ち始めたと同時に、
滅亡への道を加速させてきたのではないかという気がすることがある。けれども、今更言葉を手放すことは出来ない。
中略
確かに言葉は扱いに困る、厄介な代物だ。
けれど私は言葉という素材を使って、光の照射角度や見る位置によって様々な模様や色が浮かび上がる、
物語という一枚の布を織り上げることが、自分の仕事だと思っている。
ただ作品だけを出してゆく、そういう職人でありたいと思ってきた。
そのためには、このどうにも当てにならない言葉というものを信じてやってゆくしかない。≪
そしてまた、
≫もっと深く、ひたひたと考えたい。
生きていて出会う、様々なことを、一つ一つ丁寧に味わいたい。
味わいながら、考えの蔓を伸ばしてゆきたい。
例えば、共感する、ことが、言葉に拠らない多様性に開かれてゆく方法について。
最終的にはどうしても言葉で総括しなければならないのでけれど。
何というアンヴィヴァレンツ。でも止められない。
なぜなら、全てを承知の上で、それでも私たちは、お互いを分かりたい、と欲してやまないものなのだから。≪
ジプシーにおけるノスタルジーや土地における地霊、言霊を急速に失ってゆく「内なる自然」に言及しながら、
最終章で梨木香歩は、かつてあった風景を、白い露草の咲く風景を、
その土地に新たに棲みついた若い世代へ伝えるように、こう語り始める…
≫あなた方の住んでいる土地は、灌木の茂みと、栗の木と、立派な櫟(くぬぎ)の木の生えていた野原だったのだと。
その土地はかつて、ススキの穂並みがそよぎ、甘い栗の花が匂い、白い露草が咲いていた土地だったのだと。
風が樹々の葉をささやかせ、雨が草木を恍惚とさせた。
山から吹き下ろす風や、盆地から抜けてゆく風、土地の傾く方角、様々な条件が、白い露草にその場所を選ばせた。
そして何代も何代も繰り返し、そこに根を張ってきた。
あなたがたが毎晩眠り、夢を見て、そして笑い合い愛し合っている場所は、そういう毎日を育んできた土地なのだ、
どうか誇りに思ってください。≪
そして、こう締め括る。
≫物語を語りたい。
そこに人が存在する、その大地の由来を。≪
これと同様の美しい記述をもう一冊、最近読んだ本の中にも見出した。
≫ある夏の終わり、楢(なら)の倒木の横を通り過ぎたとき、目の隅に何かがとまった。
音を立てないようゆっくりと向きをかえた。
朽ちかけた木の襞に、ルリボシカミキリが、すっとのっていた。
嘘だと思えた。しかしその青は息がとまるほど美しかった。
しかも見る角度によって青は、さざ波のように淡く濃く変化する。
それは福岡ハカセがハカセになるまえの、まぎれもないセンス・オブ・ワンダーの瞬間だった。
こんな青さが、なぜこの世界に存在しているのだろう。
福岡ハカセがハカセになったあと、ずっと続けてきたことも基本的には同じ問いかけなのだと思う。
こんな鮮やかさが、なぜこの世界に必要なのか。
いや、おそらく私がすべきなのは、問いに答えることではなく、
それを言祝ぐ(ことほぐ)ことなのかもしれない。≪
(福岡伸一「ルリボシカミキリの青」文春文庫)
結局、この本の主題である「境界」というキーワードからは、遠く離れたかもしれない。
それでも私は、目前に広がる風景を伝えるために、絵画や写真以上に言葉の力を信じている。
そのことにもう一度、思い至った。
お遍路の旅や東北の山旅では、拙いながら言葉を尽くして風景を語り続けた。
どうも近頃、おざなりになりがちな言葉による風景の描写を再現したい。
写真と言葉による風景の記述が、私のスタイルなのだから。
ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで (文春文庫) | |
福岡 伸一 | |
文藝春秋 |
《新約聖書「ヨハネにより福音書」第委1章から
創生は神の言葉からはじまった。言葉ははすなわち神であり、この世界の根源として神が存在するという意》
縦の糸と横の糸で、紡ぎ織りなす独り独りの人生模様
紡ぐ糸と織りなし方で、心と人生の豊かさは変わりますね。
それは、男と女・男と男・女と女でもおなじですね。
最近、たて続けに昔の知人に会い。
その人、その人、の人生の物語。
そして、昔の交わりの中で感じた事などを話して。
まったく、思ってもみなかった言葉の襞が私の琴線に響きました。
中島みゆき「糸」唄Bank Bandoが心に沁み込みます。
すみません、勝手に貼り付けました。
http://www.youtube.com/watch?v=b98nkIvNB40&feature=related
領土、境界は勝手に人間が決めた事ですね。
石鎚山にも境界はありますが、愛媛の物でも高知の物でもなく石鎚山は石鎚山ですね。
中国や韓国やロシア、そして石原都知事の政治的パフォーマンスでややこしくなりました。
中国・韓国・ロシアは、国内の問題を領土問題にすり替えてますね。少し、報道を控えたらどうでしょうか。
SIGHT・VOL53号の内田氏と高橋氏の対談のなかで
タブー視されている天皇陛下の戦争責任を追及できなかったことが原爆投下したアメリカの戦争責任も問えない。と言う指摘、天皇は日本国の象徴という言葉がすり込まれいるから、こうゆう発想はなかったですね。
話、またまた変わります、古谷実の世界は凄いですね。
閉鎖状態にしていたコメント欄をとりあえず解放しました。
この本の紹介は、領土問題というよりも私自身の基本に戻る宣言です(苦笑)
高橋源一郎がニュースステーションで発言したように私も民族意識を煽るような領土問題なんてどうでもいいのです。
だから、あえて冒頭で梨木香歩の文章を引用しました。
それぞれの民族や共同体の物語のなかで語られる境界は理解不能です。
それを越える、例えば汎アジア(また汎地球)のような大きな物語を創造しないと、いつまでも平行線を辿りそうな予感がします。
でも汎地球的なグローバリゼーションの波が格差を生み出し、より狭義な民族意識を煽るという現象は皮肉ですね。
何時果てぬ紛争の火種を抱えた末に編み出されたEUという共同体もグローバリゼーションの波に呑まれ失速したように。