日本列島をすっぽり底冷えする寒気が覆った朝だった。
里山の谷地をさらに奥へと分け入った山間の灌漑池へ向かった。
ここなら放射冷却による朝霧と霜化粧が見られると踏んだ。
算段し脳内変換を膨らませた妄想の絵柄は、その足元から力なく萎み失望の対価を払わされることになる。
霜や朝霧の発生する気象条件、放射冷却には、気温以外にも風や湿度も影響してくるようだ。
脳内妄想の成就は、また別の機会に…
それでも日の出前の深い群青の底に沈む山間の池は、魂を鎮めるような静寂を湛えていた。
撮れなかった絵柄とは別に、近くに正八幡宮という以前から気になる場所があることに思い至った。
石清水正八幡宮から分祠した氏神様で、楠の大木や玉石など曰くあり気な聖地の予感?
原初的な信仰の形「霊性」へのフィールドワーク(聖地巡礼)へ。
人間が生きてゆく上で、なくてはならないものが、祈りや癒しであると云われています。
それは何かに対する皮膚感覚としての畏れであり、痛みや不安に慄く魂を鎮める鎮静作用なのでしょう。
これは世界中、どんな民族にも共通する記憶の古層に刻みつけらたような原初的な身体感覚だろう。
無宗教、無信仰の時代だと云われる現代日本人にも、それは地下水脈のように脈々と意識下で受け継がれている。
外国人が日本を紹介するYoutube動画は、ほとんどテクノロジーとスピりチュアル(霊性)の混在したジャパニズム映像ばかりだ。
そういう近未来的異国趣味とは別に、宗教学や社会学などの学究的な視点からも、
現代日本人は、スピリチュアルな領域に対する依存度が高そうだ。
よく指摘されるのが、これほど占い好きの民族はいないと云われる。
朝からTVやラジオや新聞や雑誌と「占い」の載らない媒体はないと云ってもいい。
さらに広く深く浸透した血液型性格診断という都市伝説的信仰の形(笑)
何かに頼り、信じなければ人は生きてゆけないようだ。
信仰の形には教義化された教団信仰(キリスト教や仏教など)と民間信仰がある。
教団信仰が広く多くの大衆を対象としているのに対して民間信仰は個人を対象とする。
面白い例として挙げられたのが、精神科の医師やカウンセラーなど精神医療の専門家から
日常生活を維持できない重篤な心の病を指摘された患者が、市井の拝み屋さんによって奇跡的に快癒した事例を上げる。
拝み屋さんはその職業的経験則から、ピンポイントで個人の痛みを探り当て、その痛みを取り除くことができるようだ。
終末期医療などでお馴染みの、その痛みだけを取り除くペインクリニックと同様の手法といっていいかもしれない。
(スピリチュアル・ペインという医療分野がWHO(世界保健機関)でも認知されています)
病の本質ではなく「痛み」だけを取り除く対処療法でしかないとしても、
苦しみに耐えきれない人にとって、今緊急を要する救済法なのでしょう。
人類の歴史を振り返ると、シャーマンと呼ばれる祈りと癒しを司る祈祷師(呪術師)が、
共同体にとって不可欠な存在だったことからも窺えます。
特に我々、日本人にとって「天皇」という祈りと癒しを司るシャーマンの一族を国の象徴(精神的支柱としてのイコン)としてきた歴史があります。
どう転んだって、日本人は無信仰とは云えない。
森羅万象に宿る霊性と無意識下で深く通底しているスピリチュアルな民族なのでしょう?
不寛容な時代だからこそ尚更、そう信じたい…「草木国土悉皆成仏」生命の多様性を精神風土とする国だから…
野町和嘉は、高知出身の世界的写真家です。
世界で初めて(外国人として)メッカの撮影を許可され、バチカン撮影も異教徒として初めてだった
と聞いています。
その他、世界中の聖地巡礼の旅による祈りの風景は圧倒的です。
先ず、見ず知らずの異教徒(外国人)が足を踏み入れられる領域ではないでしょうからね。
映し出されるのは、その土地の気候風土に息づく信仰の風景です。
その前では息を呑み、唯、圧倒されるばかりです。
土地の神々が息づく風景は、鬼城さん御指摘通り、私の残りの時間をかけたテーマとなりそうです。
そしてまた、自分の生まれ育った四国という巡礼の島の祈りの風景を撮ることになりそうですね(笑)
kyoichさんのように2度目のお遍路旅かな?
間違いなく、ランスケさんが言われるように一目瞭然です。
数々の写真があり、全て見ているとは言えませんが、ダライラマの世界観、自然の中の祈りが凄い!
写真は訴えるものがなければいけないことがよく分かります。
ランスケさんの日常の中で信仰とは何かを映しだしてください。
写真の訴える力を感じました。
私が拙い言葉を重ねるよりも、これを見れば一目瞭然です。
最も尊敬する写真家の圧倒的な写真の力を見てください。
http://www.nomachi.com/a-nomachi.php
再読ですが、改めて読み返すと、その面白さに惹き込まれてしまいました。
この本には先行してもう一冊、「日本霊性論」という東日本大震災後の夥しい死者を鎮魂する
日本人の宗教観(死生観)を語った本があります。
もちろん有名な鈴木大拙の「日本霊性論」がベースにあります。
あの震災の映像は、私たちの寄って立つ平穏な暮らしの足元が土台から揺らぐような衝撃がありました。
人が生きてゆく上で本当に必要なものは何か?
あれから本当に色々考えさせられました。
ポスト真実、自分の信じたいものしか見ない不寛容な時代だと云われています。
それを裏付けるようなニュースばかり最近は見せられます。
鬼城さんの仰るように近代化以前の日本人は、寛容な民族だったのだと思います。
近代化を急ぐあまり、日本人の精神風土の基調を成すものを非文明的な遅れた因習として破壊してしまったようです。
明治の神仏分離、廃仏毀釈、神社合祀ですね。
伝来の文化を受け入れ大らかに風土の中に融け込んできたのが習合という日本独自の文化だと思います。
一神教のキリスト教を真似て国家神道という虚構を創り上げたのが間違いの元でした。
どう考えても不寛容な宗教観ですもの。
あれから日本人は変わってしまったのだと思います。
もう一度、私たちの信仰心の歴史を遡って再考してみる時期に来ているのだと思います。
宗教思想史を専門とする釈徹宗の柔軟な思考と内田樹のインスピレーション豊かな発想が絡み合うと、
本当に面白い宗教観が広がってゆきます。
また少しづつ面白いトピックを拾ってブログで紹介してゆきたいと思っています。
この表現、が根底に流れていると思います。
それとランスケさんが書かれている個人の宗教・・・
これもまさにその通りですね。
古代よりシャーマンによって統率されてきた民族に神宿り、仏が入ってくる。
日本の宗教史と言って良い。
それが現代になってくると薄れているとは言っても、霊域と言われる場所に行くと身が引きしまる不思議な感覚が起こる。
ランスケさんの写真に引き込まれるのもその所為かもしれない。