思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

ポルノ談義

2006年01月24日 | Weblog
昨日は夜の居酒屋でポルノ談義がありました。
一般的には男は幾つになってもポルノ大好き、女性はあまり興味を示しません。
女性は見栄を張って興味ない振りをしているのかというと、そうでもなくて人がやってるのには余り興味は無いというのが本当のところのように感じます。

一昔前、嫁ぐ娘に母親が春画を密かに忍ばせたなんていう話も、娘の性生活を案じる故の行為で、春画そのものが好きということではないようです。

インターネットはポルノの流布に大きく貢献しました。
ポルノ見たさにパソコンの操作を必死で勉強したおっさんは多いと思います。

そしてその居酒屋のママさんの体験談。
グループで温泉旅行したときに、映画に誘われて一緒に行ったら、ポルノ映画だったそうで、見ているうちに気分が悪くなり本当に吐きそうになって途中で帰ったといってました。
一体どんな映画を見たのか、何と女性の死体とセックスする映像だったそうです。
そらあ、気分悪くなるわ。
あまりにも異常なものを見すぎた、私だって気分悪くなりそう。

セックスは本来明るく楽しくて気持ちいいもんでしょう。
度を越えた異常なセックスはごめん蒙りたい。

「あんた!、見るだけかい。私とやらんかい!」
と思ってる世の奥様方が結構多いとか。

女は金で買える?

2006年01月24日 | Weblog
ヒューザーの小嶋社長、ライブドアのホリエモン、拝金主義の長者達はそう信じている。
女を金で買っている。
勿論、金で身を売る女のことではなく見も心も売ってしまう女のことである。
それはある程度の真実を含んでいる。
そうでない女もいるだろうが、そう考える女は多いと思う。

そんなに愛している訳ではないが、この男と結婚すれば経済的苦労することはなさそうだ。多少の欠点は辛抱しても経済的に安定した人生を選択しよう、と考える女は多いだろう。
男友達を持つにしてもそうだ。
一緒に過ごすのに貧乏タレよりは金持ちのほうが良いに決まっている。
豪華なお食事、豪華な旅行、豪華なプレゼント、そうこうしているうちに身も心も買われていく。

金で買えないものは無いと錯覚している人は多い。
私自身も金があれば出来るだろうと思うことは山ほどある。
女の歓心も買えそうな気がする。

女は未だに社会的に経済的に弱者だ。
金持ちの男とつるんでいた方が世の中楽しいと卑屈に考える。
真の意味での男女平等社会への道のりはまだまだ遠いな。

いかがでしょうか。

嫌な夢

2006年01月23日 | Weblog
同じようなタイプの後味の悪い夢を何度も見る。
自分の生き方を象徴している気がして気に入らない。

そのひとつ。
飛行機を乗り継ぐ夢。
乗り継ぐ時に乗り継ぎ時間を甘く見て、飛行機に乗れないでしまう夢だ。
乗り継ぐのに何と列車を利用する必要があることを知らないでいて、慌てて乗り継ぎ列車の切符を買う。
何とか乗り継ぎ空港に着いたが、搭乗口は長蛇の列が続いている。
係員に事情を説明して乗せてもらうように頼むが、「並んでいれば大丈夫」と言われる。
しかし結局乗り継ぎ機は出てしまう。
係員はいつの間にか消えている。

もうひとつ。
大学の卒業に絡む悪夢。
卒業に必要な論文の提出が出来ていない。
講義をサボってばかりだったので、論文を書こうにもあまりにも資料不足、何を書いたらいいのかさえ頭に浮かばない。
そしてなぜか博物館を彷徨っている。
ああ、卒業できないと思っていると目が覚める。

この夢判断、してみてください。

定年後の生き方

2006年01月23日 | Weblog
本屋で立ち読みをするのは楽しい。
ここ数年、「定年後の生き方」みたいなハウツー本があると必ず手にとってみる。
そして何冊かは買った。
しかし、殆どは何の役にも立ってない。
人それぞれ生きたきた道が違う。経験したことも違う。考え方も違う。
感動の仕方も違う。価値観も違う。
従って、どれひとつとしてピンと来るものが無い。
著者が粋がって自分の生き方を自慢しているに過ぎない。

老後の資金計画なんてのはまったくナンセンス。
同じ資金事情の人がおるはずが無い。
好きなようにやれ、と思うだけである。

それにもかかわらず同じようなタイプの本が出るとまた手に取る。
いかに生きるか、は年齢に関わらずやはり最大の関心事だ。
死ぬまでいかに生きるかと思い悩み死んで行くのだろう、大したこともせずに。

やまと

2006年01月23日 | Weblog
先日、英会話サークルでカナダ人講師が「やまと」の意味がよく分からないと皆に説明を求めた。
賢い生徒の一人が「日本」という国名の古い言い方だと説明していた。
改めて問われると「はて?」と思ってしまう。

「やまと」を漢字変換するといろいろ出てくる。
大和、倭、等が旧国名に該当する。
日本もやまとと読む。日本武尊(やまとたけのみこと)

大和撫子、大和魂などの使い方がある。

それにしても、先日の大相撲は大和力士、栃東の優勝。
国技といわれながら番付上位に名を連ねる外国人力士が多い中で久々に日本人力士が力を発揮した。
何となく気分スッキリ。
優勝を決めた一番も投げ技の切れが小気味よかった。

体と心

2006年01月22日 | Weblog
体が弱ってくると心も弱ってくる。
逆もまた真実。

少しずつ体調がよくなってくると心も蘇ってくる。
案外単純なもんだ。
ということは、いつも体調を整えておけば心も意欲的になる。

歳を忘れて無理を続ければ体調を崩す。
限度を知る歳になっているのに、早く己を知らないといけない。

それでも歳には抵抗したい。
若いやつにはまだ負けん、ということは年取っている事だね。

憂鬱の塊

2006年01月17日 | Weblog
憂鬱の塊と化している。
それも老人性の憂鬱。
下顎が腫れて来た。鈍痛が続く。
歯医者へ行ったら、久しぶりにレントゲン写真を撮って歯周病の進行具合、歯を支える骨の侵食され具合を説明してくれた。
進行具合を説明してどうするんだ。
何のために俺は通院してるんだ。

風邪ひきに歯痛が重なったら最悪の状態になる。
というか、体力が弱った時に歯茎が腫れるケースが多い。
歯が次第に抜け落ちていく儚さは、若い人には理解できないだろう。
死に向かって一歩ずつ前進していくことが実感できる。
そろそろ部分入れ歯のお世話になり、やがて全部が入れ歯になる。
200万円掛けてインプラントで歯を埋め込むか。
それなら今の歯医者じゃ頼りない。

そんなことを思いながらも鈍痛が続く。
痛み止めもあまり効かないな。
ちくしょう。
歯周病のばい菌が脳に回って死んだ人もいるらしい。
甘く見てはいけない。
腫れの症状の時は体を温めてはイカンらしい。
風呂は止めて下さいと言いやがる。
風呂に入らない人生なんてあり得ない。
風呂に入っても体を温めなけりゃいい訳だ。
ぬるま湯にはいろ。

それにしても、明日の劇団の新年会、私ら夫婦はダンスを披露することになっている。最悪のコンディションなのに。
女房は、欠席するつもりがないんならダンスの練習をしようとリビングのテーブルを片付けてしばしの間練習、いやな汗をかいた。
女房はなんでいつも元気なんだろう。
いつも絶対にへこまないヤツだ。
俺の人生、女房に喰われているような気がする。

失意の時

2006年01月15日 | Weblog
他人の目で客観的に見た場合、何でそんな些細なことで落ち込んでいるんだろうと思われることでも、本人にとってはいろんなことが複雑に重なり合って、生きる意欲さえ失ってしまうほどの失意に落ち込むことがある。

そんな失意に対して
「お前、贅沢言ってんじゃねえよ!、それがどうしたい!」
と言ってくれる人がいて
「はっ!」
と我に返ることがある。
何と我儘な失意に暮れていたことか、と恥じ入る。
その友人は我が女房であったりする。

私自身のことではなくて一般論を言っているのですが、自分自身を客観的に見据える目は女房は私よりも数段優れていると思うことが多い。
苦労した数だけ人間は客観的に強くなれるような気がします。
女房を見ていると。
苦労をも苦労とは感じさせない前向きな態度は尊敬に値する。

しようもないことで夫婦喧嘩をした後の反省であります。
なんか意味不明。何となく分かってくれ、この素直な反省。


風邪をひく

2006年01月12日 | Weblog
昨日から風邪気味なのに、夜は2時間ほどダンスレッスンに行って汗をかいてしまった。
例年、あるダンスサークルが1月から始める無料レッスンだ。
そして一定期間後にそのサークルへ勧誘され有料レッスンに変わるんだそうだ。
女房がそう言っている。
その風邪が悪化してきた。
くしゃみ鼻水鼻づまりに多少の頭痛、それに筋肉痛とでも言おうか、全体にだるい。
我が女房は亭主が風邪を引いても、一切面倒は見ない。
自分の体のことは自分で判断して自分で適切に対処しなさいと言う態度。
至極ごもっともではある。
今日も女房は自分のサークルの新年会にトットと出かけた。

今回の鼻水は恐るべき量だ。
体の水分がかなり抜けてしまうのではと思う。多少は塩分も減っていってるだろう。
鼻水の正体は何かな。
鼻水を出すことに何か意味があるんだろうか。この世に意味の無いことなんか無いとすれば、鼻水も体の防御に繋がる何かの現象かもしれない。

そして窓からは活発に行きかう人が見える。
風邪なんかひいてない。
何で俺だけ風邪なんかひいて部屋でくすんでるのか、ちくしょうと思う。
それを不条理と感じる我儘じいさんでありました。

やらないことが偉い事?

2006年01月10日 | Weblog
欝的な正当化というのがあるらしいです。
今すぐ行動を起こすべきなのに、そんことをやってもどうせ旨くいかない、そんことはやっても意味がないと、一生懸命に、今やらないことを正当化しようとしてその理由を並べ挙げる。
そして、やらないことが偉いことであるかのように心の中で述べ立てる。

そんな風に欝的に人生を送る人、私もその一人かもしれない。
そのくせに、そういう人はやらなかったことに拘り続けると言う。
こういう事情がなければやれたのに、その事情があったためにやれなかった。
なんて私は不幸なんだろうと。

事情があって99%不可能と判断したら、ハナから諦める。
しかし、逆の人もいる。
人生に対して能動的な人は、残り1%の可能性にかけて、出来うる限りの努力をしてみる。
どうしたらよいのか分からないままに、とにかく出来ることから行動を起こしてみる。
そして100%不可能と理解するまで手を尽くす。
そして潔く諦めて後悔しない。
運がよければ1%の可能性を実現させる。

年末に古書店で買った心理学の本にそんなことが書いてありました。
定価1100円の本が105円でした。
得をしたような気分です。