夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

日教組

2016年03月13日 13時44分06秒 | 日記
 実名で書く。

昭和28年、私は鹿児島県川内市川内小学校の6年生だった。そこに『内山何某』とか言う年のころ30歳前後の教師が居た。それが『学年自治会』とかいうものを発案、土曜日の午後、講堂に生徒を集めて『今週中どいつがだれにどんな悪さをしたか』を発表させ、告発された生徒は壇に立たされ、『自己批判せよ』と言われ、罰として歌を歌わされ、最後にその内山から二発殴られた。

後年、同窓会でみなそのことを論って口々に内山を罵った。思うにこれは日教組だったと思う。日教組、この穢らわしい、汚らしい組織! 父も教諭だったが台北第一師範学校卒業の誇りを捨てずこのような風潮になじまなかった。無論日教組にも入っていなかった。私はこの一点で、父を評価している。

夢について

2016年03月13日 10時08分16秒 | 日記
 祖母は二人の息子の弟の方を戦争で亡くした。彼を本当の意味で愛していたかどうかは知らないが普通に母親が息子を気遣う仕方で育て、学校に出していたのだから愛着はあったと思う。彼の思い出をいつもいつも語ったからその愛着は大きかったと思う。『ばあちゃん、叔父さんの夢を偶に見る?』と聞くと不思議な事に『一度も見ない、夢にでも出て来てくれれば・・・』と淋しそうに応えたのが印象的だった。

 私は亡くなった母や祖父母の夢を頻繁に見る。しかしその人々との過去の何事かを見るわけではない、言ってみればどうやら『その人の現状か未来』を見て居る。そしてそれがまた理解に苦しむ。例えば、”祖父がある家の中の、ある処に立っている”、”祖母が同じく生前寝ていたところに同じように寝ている”夢を偶に見る・・・一体それに何の意味があるのだろうか?一方で、亡くなった母に会う夢を見る・・どこか知らない村の小さな家に母が住んでいる、そこを訪ねた夢であったり母の手を取って水たまりを飛び越えさせる夢であったり、亡くなったはずだが何故か家の中に坐っている夢であったりする。

 私には乳飲み子の時に死んだ弟が在った。彼についてその夢を見たと言う話は両親のどちらからも聞かなかった。父には戦死した弟が三人居たがその夢を見たとの話も聞かなかった。

 夜になって就寝するのが何となく苦痛だ。最初の一時間ばかりはどうやら熟睡するようだがそれから小一時間はわけの判らない理解に苦しむ夢を見て目が醒める。時計を見る、真夜中の一時過ぎ・・、それから悶々として眠れないが気が着くとやはり夢と現の境界を彷徨っている。本当の夢であったり現実問題の解決方であったり様々である。苦しいのは例えばある構造体の設計をダメ押しのように繰り返し繰り返し夢と現の狭間でやることだ。それが設計であったり計算であったり或はまさに夢とは何かと言う解説であったり・・。

 一方で若い頃から頻繁に予知夢を見る。百発百中に当たる。その当たり方は、例えば弓の的に矢を射る、矢は決して真ん中に当たらない、周囲に当たる、似たような夢をしきりに・・場合によっては数年も断続的に、見続ける、且つそれが何を意味するか現実の何と照合しても判らない。ところが後になって『そうか!このことだったのか』となる。逆に例えば知り合いの誰かが訪ねて来る夢、どこかで遭遇する夢などは早くて翌日、遅れても数日の内に現実となる。

 長期に亘って繰り返し見る夢は現実となった時には『人生の大きな節目』であった事に気が着く。転職、転居等々。解らないのは息子達の事まで代理人よろしく夢で見ることである。例えば転職、結婚。結婚について不思議な事は二人の息子達のどちらについても数か月前から夢で見て居た。相手の人物像は見えないがしかしどのような人か、どのあたりの人か、婚礼の様子は・・、父親、母親はどのような感じの人か、などと言う事は薄っすらと見えていた。現実になってから上記の矢の的が明確に見えるのである。現実を体験して初めて夢が殆ど的の真ん中を射抜いていたことに気着くのである。

 これらまるっきり得体の知れぬ現象について何らかの筋道の立つ説明をしようとすれば・・・どうやら我々が住んで居る世界のみが『世界』ではなさそうだ。我々はある大きな世界の中に浮かんでいる言って見れば『顕在意識界』或は『現象界』に不普段は居る。しかし睡眠時にはどうやらその境界が曖昧になって『自分の乃至は家族の行く末』に関して強い関心を抱く者は異次元に入り込むのではなかろうか。

 そして、その異次元・・・勝手に『実態界』と呼ばせてもらおう、・・には『時間』がない。

 造船をやっていて解ることだが、その一番最初に建造仕様書なるものがある。そこには船のサイズやエンジン性能その他諸々の要求性能が書き連ねてある。これを元に設計者は図面を描き、その図面に従って工作者が実際の船を造る。どうやら我々人間は船として現象界に浮かんでいるがその個人個人の仕様書が実態界にある。何らかの関心もしくは事情で、『知りたい知りたい』と切望する人はどうやらその仕様書を覗き見る事が出来るのではないか。

 『おかしいな、俺は結婚してもう長いし歳もとった、今更女性と懇ろになることはない筈だが??』と思っていると長男に縁談が降って湧いた。海沿いの街にその女性が居る、との情報に『自分に関係はない筈だが??』と思っていたら次男に結婚話が起った、実情は隠していたのを白状した。

・・・人生はどうやら決まっている。そこに慌てふためいてジタバタ計らい事を介入させてせっかくの船をボロ船にするような愚行をしてはならない。そういう人が多いようだ。


 でもここまで考えてハタと迷う事がある。あの宮崎勤君や宅間守君の人生の仕様書は実際あの通りだったのだろうか???ワカラナイ!?