夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

台湾・・・奇妙な植民地統治

2019年09月21日 08時18分32秒 | 日記
父方も母方も祖父母の代から台湾に住んでいた。両方の祖父がいずれも役人として派遣されていたからだ。

父や母の話には小学校の同級だったらしい、遊び仲間で中国名の少年少女がよく出て来た。その中には分限者の子弟も居たようでよく【お呼ばれ】に与っていたらしい。何しろ日本人の役人は薄給で貧乏だったから。

父は師範学校を出て公学校・・・日本人と台湾人が一緒に学ぶ小学校・・・の訓導になった。『台湾人の子って、弁当は飯だけでオカズは袋に南京豆を入れてくるんだ、あれでよく飯が食えると思っていたが試してみたら美味いんだよこれが・・・』と言っていた。試してみたまえ、炒った落花生に醤油をつけて食べる、美味いから。流石、食の天才。

叔父達は子供の頃、御用聞きかなにかで出入りしていた台湾人の兄ちゃんとよく遊んでもらったと言う。向うには【人車鉄道】というものがあって・・・要はトロッコ・・・それで随分遠くまで連れて行ってもらったらしい。非常に自由でいい加減、アバウトな時代だったらしくどこやらのお寺に上がり込んで、そこで修行者に混じって2,3日逗留もしたと言っていた。『朝飯の粥が美味いんだ、何か黒いどろどろしたものを垂らして食うんだがこれが美味かった!』なんて。

祖父たちは停年退職後は台湾人経営の店か何かで事務職に雇ってもらっていたらしい。父は学校をクビになった後、台湾人経営の豆腐屋に配達員として雇ってもらったが自転車をこぎながら『トーフー!』と言えない、そこで店主が笛を用意してくれたが何しろ慣れない、ある朝ひっくり返って豆腐をぶちまけてしまった。責任取って退職、間もなく引き揚げ船で想い出多い家を後にした。

統治していた国の人々が統治されていた人々より貧乏だったり面倒みてもらったと言うのも奇妙なことだと思う。

父方祖父は酒が好きだった。中国の強い酒を飲んで晩年は酒が切れると手が震えた。『日本人の酒盛りはバカ騒ぎになる。一方シナ人の場合は品がいい、酒が一巡りして宴たけなわになる頃、隣室から胡弓の音が始まり、それはいい風情だったよ』と懐かしそうに話した。