夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

鶏知と母の衣装

2012年07月28日 08時40分36秒 | 日記
 引き揚げて本家に世話になったがいつまでもそれでは済まず、とりあえず、の気持ちで父は対馬の鶏知にあった旧陸軍病院の事務に就職した。止むに止まれぬ決断であったろう。昭和21年の春から秋まで約半年そこに住んだ。
 食べるものがなかった。父は大嫌いなワカメの水煮を弁当に持って行くしかなかった。それでも子供たちだけは、・・と言うわけで母は台北から大事に持ち帰った着物を少しずつ町に持って出ては裸麦に換えてもらたりして来た。こうして母は、その姉、つまり私にとっては伯母のお下がりであった成人式の衣装だけを残して全ての楽しかった台北での思い出のよすがを失った。
 その衣装は母が亡くなった時、希望によって伯母のもとに戻った。この衣装については不思議な記憶がある。
 後年、まだ小学校の頃、鹿児島県薩摩郡の田舎に住んでいたが、ある日浜のほうからブリを売りに来る、というので母はそれを買い求めに出かけた。ところが夜の9時になっても戻って来ない。10時近くになってやっと魚を抱えて戻って来たのだが、待つ間私はぼんやりと柱にかかっているその衣装を見ていた。すると、その右の背中、肩甲骨の下付近を思わせる辺りから赤銅色の血がドクドクと流れている幻を見た。間もなく帰宅して包みを開けた母は父と魚をあらためて”ああ、肺が病気になっている、これはダメね”と言った。ブリに肺などないのだが、私には”肺が腐っている”と言うその声が確かに記憶に残っている。幻聴だったのかもしれないが。
 母は肺がんで亡くなった。右肺の気管支近くに病巣があった。血痰が出た、それは赤銅色をしていた。火葬の時、長い年月の忘却を破ってあの日のあの幻が忽然と立ち上がった。
 鶏知では近所に新宮さんと仰る家族が住んでおられた。また、よく一緒に遊んだ同じ歳の少年が家族と共に居た。もう遠い昔になってしまってみんなどうなったことだろうか。近所のおばあさんが桃を持って来てくださったり、誰かがイモを下さったこともある。スルメを持ってきてくれた男の人も居た。父と魚市場を見に行ったことがあった。カナズチ鮫が沢山ならべられていて海は気味の悪いところだ、との印象を持った。近くにクルブシまでほどの清流があって、釣れるはずもない釣り糸を垂らしたこともあった。遠くの山道をあえぎながら登っていた貨物自動車、夕影に鳴いていたヒグラシ、それらの断片的な記憶が夕日の中におぼろに浮かぶ。
 ある朝、まだ暗いうちに父と母がごそごそしていた。二人でヌカの団子を作っていた。それを持って船に乗った。秋の玄海灘は時化て船は大揺れに揺れ、酷く船酔いした。夕刻、博多に着いた。場末のバラックで食べたうどんが・・・後年食べたどのうどんよりも美味かった。
 このままでは冬は越せない、と両親は危惧して半年住んだだけで再び、今度は母方祖父母の郷里である薩摩国川内に帰った。霧深い朝、荷車を引いて駅まで祖父が迎えに来ていた。

 両親は子供たちのために渾身の力で生きた。しかし無論人間には欠点もある、いや、欠点と言うものは元々ない、あるのは個性だけである。それが都合よく発揮された時は長所と評価され都合にそぐわなく発揮された時に人は欠点の烙印を押す。
 私は今にして思えば仕様のないわがままであった。長所を見ず欠点を論い、両親に何も返さなかった。だから息子たちに、代わりに返そうと思う。

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