夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

いよいよシナリオ通りになり始めたかな?

2012年08月22日 08時12分28秒 | 日記
 今朝の新聞を見ていたら中国が領土問題についてロシアに連携を持ちかけた由、つまりロシアと共同で日本に圧力をかけようとのコンタンだろう。
 かくしてそう遠くない未来、非常に近未来に、中国、韓国、ロシアが共同して時を同じくして南、西、北から日本を脅しに軍を動かす・・・横断歩道、みんなで渡れば怖くないの論理・・・ことがあるかもしれない。
 エゼキエル書には彼らは”イスラエルの山々に仆れる”と書いてあるが、そういえば北方領土も竹島も尖閣も島だが島全体が山みたいだな。
 これは多分世界中が固唾を飲んで見守る中で行われ、世界中が日本の人為的な対抗措置、・・・まあ、本土の波打際で撃退の準備くらいだろうか、・・・ではない”天の仕業としか思えない形”で全滅し、その国民もまた大混乱に陥るだろう。
 エゼキエル書を読んでいると、そのような事が連想され、合わせて大本神諭、日月神示が心に上る。これを契機として北の王はその存在意義を失い、倒れる。世界は混沌とし始め、この苦境を打開するには、上記、マゴグのゴグの全滅の様子を注視していた世界から、”それは日本人しか居ない”と言うことになろう。

拈華微笑

2012年08月20日 22時52分36秒 | 日記
”禅語に親しむ”と言うウェブサイトから無断拝借:-
 拈華微笑《ねんげみしょう》  (無門関)
 世尊、昔、霊山会上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟(ただ)迦葉尊者のみ、破顔微笑す。世尊云く、「吾に正法眼蔵 涅槃妙心 実相無相  微妙法門あり。 不立文字 教外別伝 摩訶迦葉に付嘱す」と。

 宇宙には中心がある。この中心とは渦巻きの中心のようなものではなく”思念”がある、との意味である。が、不立文字、つまり文字や言葉では説明できない、と釈尊は仰った。
 説明できないがそれを認識している事を昔のシュメール人の都、ウルに住んでいたある人はその生き方で体現していた。その人は次第に宇宙の中心たる思念に導かれるようになった。人はある事を考え続けると次第に”閃く”ようになる。ひらめきが人に新しい視界を齎しひらめきが人生の節目の決定を導く。その人の元の名はアブラム、選ばれて後アブラハム。
 探せば見つけることができる、つまり考え続ければ次第に宇宙の中心からの閃が降りる。このようにして”探しもしない、関心もない、右も左も弁えぬ有象無象の人間ども”に、その前に、宇宙の中心たる思念の実在と力を体現して、見せるべく選ばれたのがアブラハムの孫であるヤコブ、改名してイスラエルとその子孫。
 しかしその子孫は”地の塩”たるの己の使命を忘却放棄した。それ故に散らされた。聖書的に表現すれば”神の御名”を彰かにしなかった、が故に宇宙の法則、宇宙の原理の働きを享受できなくなって”人間の法則・・・つまり物理的力学、権謀術策、弱肉強食、等の法則に飲み込まれた。
 エゼキエル書はそのような者共のDNAを励起し、且つ、古代と同じように周辺民族にこれを攻めさせ、それを破滅に到らせることによって宇宙の中心がその実在と力を全人類に示す、と書いてある。
 この宇宙が存在する限り、その中心思念はそのことを成さずには置かないのだろう。憑き物に突き動かされているようなデモや閣僚による不法占拠地除幕式参列などと言う度を失った行為はこの森閑とした日々の裏側でとんでもないことが進行しつつあるような気配が漂う。

マゴグのゴグ、竹島、尖閣、北方領土、国際司法裁判所

2012年08月19日 09時12分10秒 | 日記
 竹島問題を国際司法裁判に提訴すると言う。それによって日本の領土に関する不法行為が存在することを広く世界に知らしめる意図もあるようだ。また尖閣諸島には議員団が出向いて洋上慰霊祭を行なうと言う。これもまた同様の意味があろう。
 この報道を聴いてまたしてもエゼキエル書がひらめいた。38章13節に言う、”シバ、デダン、タルシシの商人及びそのもろもろの小獅子汝に言わん、汝ものを奪わんとて来たれるや汝ものを掠めんために軍隊を集めしや金銀を持ち去り群れと財宝を取り多くのものを奪わんとするや”・・・聖書の中で獅子は”神の裁きの道具”を表象している。(列王第一13章、ダニエル書6章)。つまり世界中がこの事に関心を持ち、かつ”裁き”に関わるものがこの件を論うと予告している。予告通りに事態は動きつつあるように見える。
 今や韓国でも中国でも反日デモ真っ盛りだそうな。それについてエゼキエル書は38章18節で、”・・・その日即ちゴグがイスラエルの地に攻め来たらん日に我が怒り面にあらわるべし、我ねたみと燃え立つ怒りをもて言う、その日には必ずイスラエルの地に大いなる震動あらん・・・”、39章2節、”・・・北の果てよりのぼりてイスラエルの山々に到らしめ・・・”、続いて4節、”汝と汝のすべての軍勢及び汝とともなる民はイスラエルの山々に仆れん・・・”とある。
 ここで言葉を文字通りに解釈するとわけがわからなくなる。聖書で”山”とは神の居る場所を言っている。攻めるとは実際に行動して攻め込む場合もあれば言葉で攻めることもあろう。私の解釈ではイスラエルの山々、即ち無数に神を祀る神社が存在する日本を槍玉に上げて言葉で攻撃する、その時、震動とは実際の地震のような場合もあろうが驚天動地の心理的な何かもあろう。
 38章21章には、”我剣を我が全ての山に呼び来たりて彼を攻めしめん人々の剣その兄弟を撃つべし、22節、我疫病と血をもて彼の罪をたださん・・・”だから彼らは多分何かに取り憑かれたように度を失い、狂気に走って、人間の目には恐ろしい自滅を被るのではあるまいか。
 では神は何故、それを行うか??・・・人類史上初めて、全人類の前に、人類が看過してきて、いまなお看過している、全宇宙に漲っていはするが感知されていない意思と実力の存在を認知させるためであろう。エゼキエル書には繰り返しその事が書かれてある、”おまえたちの為ではない、私の、つまり全宇宙の主である神ご自身の名のために、それを行なう”と。

 北方領土はどうだろうか?22節は続いて述べる、”我みなぎる雨と雹と火と硫黄を彼とその軍勢及び彼とともなる”民”の上に降らすべし”

 憲法によって交戦権を停止している国日本を”石垣も閂もなく平和に豊かに暮らしている人々”と、その繁栄を嫉み、且は侮り、これに押し入って強盗を働こうとする輩を衆人監視の中で裁くことによって人類の不義を正そうとする神の意図、マゴグのゴグなる見えない存在とその手先として利用される彼に憑依された人々や組織、その末路が透けて見えるようだ。
 日本人よ、先祖伝来祭り畏れて来た産土の神を侮るなかれ。今日は町内夏祭りだ。昨日設営を手伝った。真ん中にちゃんと祭壇が設けられて今日は榊がたてられる。山の”中腹”に居られる神霊に下って戴いて祭りをやる。記憶に辿れない昔から日本全国同じ形で行われていることだ。

暑中お見舞いを盗み見しました

2012年08月16日 11時13分25秒 | 日記
 私はあなたの暑中見舞い葉書を盗み見しました。既にご両親は亡く、あなたも40歳で未婚、未婚のお兄さんと住んで居られる、そして・・・一日一度は発作が起きる、とか。
 無責任な同情や励ましはむしろ無礼ではありますが、わずかばかり自ら納得していることを述べさせてください。
 『人が生きることの意義。或いはこの世に生を享けた』ことの値打ちは『状況がどのようなものであれ懸命に生きる』、その一点に集中します。幸、不幸、栄達、出世、安穏、貧窮、四苦八苦、一切を十把一絡げにして論う価値なし、ただ『置かれた状況を甘受して日々を懸命に生きる』これが人生で成すべき全てであります。
 なぜなら、人は自分の意思や希望でこの世に在るのではないからです。人はこの壮大な全宇宙そのもの、遍満する気の、強いて言えば経験の為に励起された揺らぎのようなものだからです。故に、人生を味わい尽くすことこそ肝要であります。その結果野垂れ死にするならそれも良し、あなたが閻魔大王の前に立つ時”いい経験を持ち帰ってくれてありがとう、ご苦労さん”と労いの言葉があるでしょう。

やはりマゴグのゴグじゃないかな

2012年08月16日 10時40分06秒 | 日記
ある人の意見:- 
 尖閣諸島の件は、日本に対してやったというよりは、自国民に対するスタンドプレーだろう。韓国中国にとって日本はそういう対象なんさ。でも、韓国大統領は長い目で見れば大きな汚点を作ったとも言える。日韓関係が悪化して困るのは韓国だろうから。
 とはいえ日本だって、『憲法に認知された軍隊と交戦権を持っていれば』**1、ここまでちょっかい出されないだろう。
 ところで、今のメディアも、情報操作してないかい?沖縄には多分、基地に依存している人々も多数いるだろうに、どうして、基地反対の声しか取材しないのだろう?

私の答え:- 
 目に入る、耳に入る、総ての情報が騙しである。と僕は考えている。自分の目、耳、五感で確認したこと、自分で調べて考えた結論しか僕は信用しない。この世界は自分への刑執行を遅れさせよう、あわよくばうやむやにしよう、と必死になっているものが居る。人間世界のシナリオを書き換えようと有らん限りの手を使っている見えない存在が居る。
 君はそこをいつも念頭に置かなければいけない。メディアや常識に騙されないようにね。自分の識別力判断力に信を置きたまえ。

ある方へのメール:-
 おはようございます。先回のご説明、”産土の神は神名がわからない、と言うよりは『神』なる存在を祀った”に私は納得同意します。
 すると突然脳裏に閃くことがあります。聖書の黙示録3章に”汝すこしの力ありて我が名を否まざりき・・・”と言う記述について、ですが、『名』にこだわって神道の真の崇拝としての形に一抹の不安を抱いていました。聖書を読んでいた私はその記述にあるエホバにこだわっていたのです。しかしそれは仮の呼び名であって実際のヘブライ語記述では記号にしか過ぎません、まさに”神名がわからない・・・”となります。
 歴史の時間軸上、世界の全ての地域に置いて、”名についての論議を差し置いて『神』とされる存在に首尾一貫して実質的な信頼の形を守り通しているのは日本の神道と日本人のみ”・・・即ち”我が名を否まざりき・・・”であろうかと考えます。
 ここに、日本人の中に古代のイスラエルのDNAが隠されているとの意見の妥当性を見ます。また、伊勢神宮が日本国の産土の神である、ならばそれはまさしく古代のエルサレムの神殿に祀られていた神でしょう。であれば、黒住忠宗が”一切を天照大神”に委ねよ、と諭したのもまっとうなことではあります。

 さらにそこから考えることがあります。北方領土を盗むもの、日本海や南海の島を盗もうと窺うものどもがあるようです。エゼキエル書38章10節にはつぎのように書かれています・・・”その日に汝の心に思い起こり悪しき謀計をくわだてて言わん、我平原の町々にのぼり穏やかにして安らかに住める者共に到らん、これ皆石垣無くして居り関も門もあらざる者なり・・・”これは上記**1に相当するでしょう。つまり交戦権のない日本は関も門も石垣もないに等しい状況でしょう。まさに今、エゼキエルの予告は現実化しつつあるように考えます。
 この様な事態について古代イスラエルの顰に習い、或いは古い日本人の慣習に倣い、”正しい裁き”を伊勢神宮に祈願することは正しいことでしょうか?