つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

大黒屋光太夫の戦い 2

2023-03-10 | Weblog

伊勢雅臣氏のメルマガのつづきです。

4.光太夫たちは罪人扱いされたのか?

 ここから、光太夫はロシア人支援者の助けを得てシベリアを横断して、帝都ペテルブルグまで行き、宮中で女帝エカテリーナ2世に直訴して、帰国の許しを得る、という冒険譚が展開されます。壮麗な宮殿で数百人の貴族たちが見守る中でも、臆せずに女帝と直接、ロシア語でやりとりする一幕は、光太夫の堂々たる人柄を感じさせます。

 女帝は光太夫を憐れみ、帰国の許可を与えますが、それは憐れみだけではではありません。わざわざ船を仕立てて、光太夫たちを日本に送り届けると共に、それで貸しを作って、日本との友好協約を結ぶことを申し入れようというのです。

 こうして9年半の苦闘の後に、ようやく帰国への道が開かれました。当初の乗組員17人中、異国の土となった者12名、母国の禁令を破ってロシア正教に帰依し帰国を諦めた者2名。再び母国の土を踏めたのは光太夫と磯吉、小市の3人に過ぎませんでした。その小市も上陸直後に病死してしまいます。

 しかし、当時の日本は、鎖国政策をとっており、たとえ海難事故であろうとも、異国に行った者は国法を犯した罪人として扱っていました。光太夫は、果たして幕府が自分たちを受け入れてくれるのか、不安を戴いていました。

 この点で、昭和40年代に書かれた井上靖の『おろしや国酔夢譚』を平成4(1992)年に映画化した作品では、上陸地の蝦夷(北海道)から縄で縛られ、囚人用の籠で護送されたと描かれています。この当時はまだ、光太夫の帰国後のことが詳しくは分かっていなかったようです。

 平成15(2003)年に刊行された『大黒屋光太夫』では、著書・吉村昭が持ち前の徹底的な調査ぶりで、帰国後の姿も詳しく描かれています。


■5.ロシアの接近に備えて、光太夫を重視した幕府

 光太夫と磯吉は駕籠(かご)に乗せられ、幕吏や松前藩士、医師、足軽11名が同行して、江戸に向かいます。光太夫は、自分たちへの扱いがきわめて丁重なのに驚きます。3度の食事は二の膳つきで、しかも毎食、同行の役人がすべての食物を毒味して、あたかも貴人の扱いでした。

 幕府は、光太夫と磯吉を貴重な存在と考えていたのです。ロシアの国情はほとんど知られていません。難破した何隻かの船がロシア領に漂着したことは把握していたものの、誰も日本に戻ってこないのですから。

 15年前の安永7(1778)年に、ロシア船が蝦夷の根室に来航し、応接した松前藩に交易を求めたことがありました。そのロシア船には、日本語学校の教師となった漂流民から日本語を学んだロシア人通訳が乗っていました。その翌年もまたロシア船が来ました。松前藩はいずれも交易を拒絶して、帰帆させました。

 報告を受けた幕府は、いずれロシアが接近してくることは確実と判断していました。それが的中して、光太夫と磯吉を送還するという名目で、ロシア船がやってきたのです。今回は、交易の交渉は長崎の地で行うとして、長崎入港の許可を与えて退去させました。

 こうした経緯から幕府は、ロシアの接近が今後の重要課題となると考え、ロシア事情に通じ、ロシア語も身につけている光太夫と磯吉を、それに備えるための重要人物と考えていたのでした。幕府を、海外情勢のことなどまったく目もくれず、異国船は打ち払い、帰国者は罪人扱い、という暗愚な存在と考えるのは、史実に悖(もと)ります。


■6.幕府の思わぬ温情

 幕府がロシアの接近を重視している現れとして、江戸では将軍の御前で、幕府の高官から様々な質問を受けました。質問の中には「赤人(ロシア人)の国では、わが国についての知識はどの程度持っているか」というものもありました。光太夫はこう答えます。

__________
 なにごとによらず、日本のことは驚くほどよく知っておりました。日本の書物はもとより、地図、武鑑(大名や幕府役人の人名録)すらも眼にいたしました。学問のことも熟知しており、日本には桂川甫周(かつらがわ・ほしゅう)様、中川淳庵(じゅんなん)様という学問に通じた方がおられる、ということもききました。[吉村・下、p185]
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 光太夫の答えに、一座の間にどよめきが広がり、驚いたように顔を見合わせる者もいました。中川淳庵は7年前に死去していますが、桂川甫周は蘭学者の侍医で、一座の中に座っていました。ロシアにまで自分の名前が知れ渡っていることに、甫周は面映(おもは)ゆそうに顔を赤らめていました。

 同時に列座の者たちは、ロシアの日本に対する知識が想像を絶した詳しいものであるのを知り、恐れも感じたようでした。

 この後、桂川甫周はしばしば光太夫の許を訪れて、詳細な質問を続け、それが膨大な「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」に纏(まと)められました。

 しばらくの後、光太夫と磯吉は、南町奉行所に呼び出され、今後の処置について、申し渡しをされました。

「光太夫四十四歳、磯吉二十九歳は、オロシアに漂着し、長年にわたって幾多の苦難に遭いながら、それに堪えて帰国したことは、奇特なる志」と評価し、「その苦労に対して、光太夫に金三十枚、磯吉に金二十枚を下賜する」と告げられました。光太夫と磯吉は、思わぬ温情に手をついて深く頭をさげました。

 そして、二人は江戸に住居を与えられ、月々の生活費金3両、磯吉に2両を支給する、思いのままに妻帯し安楽に暮らすがよい、と申し渡されました。現在の価値にして毎月数十万円もの生活費が支給されたのです。そのうえで二人を江戸に留めたのは、幕府が近い将来、ロシアの接近を予想していたからでした。

 二人に報奨金を与えた以上、日本に辿り着いてから病死した小市にも同等の扱いをすべき、という意見が強く、故郷の亀山藩(三重県)で、10年近くも夫の留守を守って農耕にはげんでいた妻・けんは「誠に奇特なる志」として、銀10枚が下賜されました。


■7.仲間の霊とともに故郷へ

 その後、光太夫のもとに、ロシア語を学ぼうという者たちが集まるようになりました。幕府の命令で来た者もいました。その後、ロシア艦による高田屋嘉兵衛の拉致など、日露の対立や交渉が断続的に続き[JOG(1102)]、その中で光太夫が育てたロシア語通詞が活躍します。

 享和2(1802)年、光太夫は一時帰郷の願いを出し、幕府はすぐに許可してくれました。光太夫は郷里の伊勢国若松村(三重県白子近辺)でゆっくりする前に、まず伊勢の神宮に向かいます。社前ではロシアの土になった水主(かこ、船乗り)たちの顔がつぎつぎと浮かび、かれらの霊を護って欲しい、と祈願しました。

 10年近くも帰国を諦めずに苦闘してきたのは、船頭として水主たちを全員無事に戻さなければ、という責任感からでした。しかし、一人、二人と異国で命を失うと、その者たちの霊も抱いて国に戻らなければ、と決意したのです。その責任感と決意が、光太夫を支えてきました。

 神宮からの帰りには、20年ほど前に船出した白子浦を通りました。ロシアの雪と氷の世界で何度も夢見た白砂青松の海岸が、初夏の陽光に輝いています。帆をあげて白子浦をはなれた時の水主たちの明るい表情がよみがえり、それらのほとんどが死者になっている悲しみが突き上げてきました。

 光太夫は、水主たちの霊が自分の背中に重なり合ってしがみついているのを感じました。彼らも今、白子浦の光景を見つめている。光太夫は道端で、肩をふるわせて泣き崩れました。
                                        (文責 伊勢雅臣)

写真は頂き物の干菓子

コメント (4)
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