つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

現地人慰安婦1万6000人説

2023-03-22 | Weblog

丸谷氏のメルマガからです。

ダイレクト出版 政経部門の小川です。

また最近ですが、
韓国が「慰安婦問題」などと言って、
日本にイチャモンをつけてきていましたね。

外務省は徹底的に、
正しい歴史認識を外にも
発信していってほしいと思いますが…

実は、日本兵の慰安婦問題というのは、
韓国だけの話ではないと
知っていましたか?

今日は、東南アジア、
特にパプアニューギニアにおける
慰安婦問題について、

オーストラリアを含む
南洋諸島、中東などで

危機管理コンサルタントとして
活躍されてきた丸谷元人先生に
お話いただきました。

ぜひ、続きをお読みください。

*****

From:丸谷元人

かつての慰安婦問題でも
「殺した女性の頭を釜で煮て食べさせられた」
(鄭玉順)とか、

「時々人肉スープを飲まされた」(朴永心)
とかいう荒唐無稽な話が真面目に提起され、

日本や海外のメディアが
嬉々として飛びついたことがあった。

こんな嘘くさい証言など、
叩けばボロはいくらでも出てくる。

次などは完全に、
一時期はやった「性奴隷」系の話である。

「日本兵の宿舎でセックスの相手をさせられました。
兵隊の階級には関係なく、多くの人の相手をしました。

約10人ぐらいの未婚女性がいましたが、
疲れてできないと拒否して殺された者もいる。

第一キャプテンの名はウエハラ、
第二はワギモトでした。

わたしは幸い宿舎から逃げ出せました。
何カ月かわからないけど、長い間でした」

というのはウルゥプ村のカミ・ドマラさん。

この「性奴隷」系の話に対する反論は、
2011年4月に高知新聞から出版された
『祖父たちの戦争』を読むのが一番よいだろう。

この本は、高知県出身で、
私が以前監修した『ココダの約束』という
本の主人公でもある西村幸吉氏の
人生を追ったものであるが、

高知新聞の気鋭・
社会派ジャーナリストである福田仁氏が、
膨大な取材と現地調査を通じて

丹念かつ丁寧に書き続けた
記事をまとめた一級の秀作である。

発言者は、西村幸吉氏
(歩兵第一四四連隊兵長。戦後、遺骨収容のために
26年間ニューギニアのジャングルで暮らした方)と、

堀江正夫氏(第一八軍の元参謀、少佐)であり、
この方々の発言はすべて、

私自身もドキュメンタリー番組
制作の際の取材で、直接本人から聞いている。

<西村幸吉氏>
「あの話(『週刊朝日』の記事)にゃ、
高知の戦友たちも随分怒ってましたよ。
『何が女じゃ!何日か食わんとおって、
そんなことできるか実際に試してみい』ってね。

戦場では、食糧も武器も尽きたんです。
食いもんの確保と、逃げ道を探すこと、
この二つで頭ん中いっぱいですよ」
(『祖父たちの戦争』、191ページ)

「私、戦後はニューギニア各地を随分回りましたが、
白人との混血はあちこちの村におります。

彼らも、もう60代になっているわね。
だけど日本人との混血児には
一度も出会ったことがない。
うわさすら聞いたことありません」
(同書、192ページ)

<堀江正夫氏>
「ああ、あの記事ね。
誰が信用するかって。反論もばからしくってさ…」
(同書、193ページ)

この堀江正夫先生は、
陸軍士官学校出身でニューギニアに上陸し、
第一八軍司令官・安達二十三中将に付き添い、

悲惨な戦いとなった
アイタペ作戦にも参加、
終戦後にはウェワク沖の
ムシュ島に抑留された方である。

終戦当時の日本兵の極限に近い飢餓地獄を、
実際にご自身で体験されている方だ。

『週刊朝日』の記事には、
日本兵が1万6000人もの
パプアニューギニア人女性を
強制的に慰安婦にした、という話も載っている。

しかし堀江元参謀はこれについても、
以下のように一蹴している。

「1万6千…。あははっ。そんな数字、どこから出てくるか。
想像もつかない。兵隊は転進に転進を重ね、
栄養失調とマラリアで次々と亡くなってるんですよ。

昭和19年8月以降は、
軍事司令官ですら一粒の米も食べてません。
僕は終戦時30歳だけど、性欲を覚えたことは
一度たりともなかった」
(同書、194ページ)

「ニューギニアに関しては、
そんなことできる戦況じゃなかった。
初めから向こうの制空権下にあって、
海上輸送が途絶えたんです。
『慰安婦』なんてもう、夢にもあり得ない」
(同書、193~4ページ)

私自身も、これとまったく同じお話を聞いている。
この、パプアニューギニア人の
慰安婦なるものについては、
他の兵士らも同様の意見である。

「兵隊とパプア女性との間に
性的接触はまったくなかったようだ。
これに類する話を聞いたことがない。

当時のパプア女性は例外なく
熱帯性皮膚病に侵されていた。
そのうえ蚊除けのため特異な臭いの
植物油を体に塗っていた。
これらが、兵士除けにも作用したのだろう」
(『戦場パプアニューギニア』奥村正二、中公文庫、177ページ)

今でも、パプアニューギニアの
セピック地方などに行けばよく判るが、
人は決して多くない。

村から村までの距離は遠く、
昔は交通手段など徒歩以外にはあり得なかった。
そして多部族社会の習慣として、
特に昔は部族間の交流は極めて少なかった。

その中で、特に若い女性だけを
1万6000人も集めることなどは、
物理的に不可能なのだ。

あの灼熱の地で、
毎日、滝のようなスコールが降ったら
マラリア蚊が一気に草むらから
飛び出してくるところだ。

しかも昼間は敵の飛行機が上空を舞い、
見つかれば執拗な機銃掃射や爆撃を受ける。

また、毎日砲撃が加えられ、
オーストラリア軍のコマンド部隊も
あちこちに侵入してきている。

実際、ポートモレスビーで
編成された原住民部族は、
セピック地方の各地に浸透していた。

そんな環境を、人肉食が頻発するような
「極限の飢餓状態」にあるガリガリの兵士が、
あの重い銃と飯盒をぶら下げて、

消えかけているその命をかけて
「若い女」を探しに出るのだ。

もし、「いや、あり得ただろう」と
思う人がいたら、ぜひ自分で
それをやってみればよい。

この記事にある
「パプアニューギニア人慰安婦1万6000人」が
どれだけバカらしいことかは、
簡単な計算をすればすぐに判る。

まず人口から見てみよう。

あの戦争の頃のパプアニューギニアの人口は、
実際には200万から300万人くらいだったろう。

仮に300万だとして、男女比を1対1とすると、
女性の数は単純計算で「150万人」となる。

当時の平均寿命を50歳と仮定すると、
「同学年のニューギニア人」は各年齢に
「3万人」いることになる。

ここで、百歩どころか
「一万歩くらい」譲って、
仮に日本軍が悪魔的な組織だったとしよう。

その「悪魔の日本軍」が、
パプアニューギニアにおいて
「慰安婦」として「強制連行」の対象にした
年齢層を15歳から30歳に設定したと仮定してみる。

なぜその年代かというと、
そもそも向こうの、特に地方にいる
女性などは今日でも、

実際の年齢より
かなり老けて見えるからである。

今でこそ都市部の女性は、
普通に化粧もしているし、
若い女の子であれば、

今風のファッションに身を包んでいて、
なかなかの美人さんもいるが、
昔は決定的に違う。

集落に住んでいる人の場合、
風呂にも入ったことのない人たちなので、
人によっては、かなり「厳しい」。

疑問に思う人は、
一度自分の目で確かめてみればよい。

私自身、あるセピックの村に
何日間も泊まった時の経験だが、
我々のような外国の珍客が
奥地の村にまで入って行ったというので、

村の女たちがキャッキャとはしゃいで、
あの手この手で我々にアプローチしてきたことがあった。

しかしどう見ても彼女らは30歳くらいに見える。
顔に入れ墨をしているし、
ブアイという果実をクチャクチャ噛んでいて、

口は吸血鬼みたいに真っ赤、
歯も「ヤニ」がついていて黒々しているのだ。

それでも一生懸命に
「ウインク」などをしてくるので、
思いきって年を聞いたら、

「17歳」「16歳」という
返事が返ってきて、
腰を抜かしたものだった。

そんな彼女らは、30代前半の私をつかまえて
「同年代」だと思っていたというから、
「こりゃ何もかも違うなあ」と思ったものである。


出典:丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章  ニューギニアの日本兵 pp.159-162

写真は法事の日の料亭の床の間

 

 

 

 

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