■4.国民平等、国民皆教育
花子: 江戸時代にそんなに教育が普及していたとは知りませんでした。その江戸時代の教育水準をベースに、明治政府は「学制」でさらにどんな教育を目指したんですか?
伊勢: その根本の方針が、「一般の人民(華族、士族、農工商、および婦女子)、必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という言葉に凝縮されている。
一つは、国民が華族、士族、農工商、および婦女子の区別なく、平等に教育を受けさせようということだった。江戸時代は武士は藩校で学び、また庶民は寺子屋で、というように、階級によって別れていた。これをまさしく四民平等で、同じ教育を受けさせようということだった。
もう一つは「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」というように、すべての国民が落ちこぼれなく教育を受けるようにしようということだった。これを「国民皆兵」に倣って、「国民皆教育」と呼ぶ人もいる。
近代的国民国家を作るには、階級の区別などなく、すべての国民が平等に初等教育を受けることが必要と考えられたんだ。
■5.江藤新平による「国民皆教育」構想
花子: それはとっても明快な方針ですが、いきなりそんな革命的な国家方針が、よくも打ち出されて、しかも着実に実行されていったものですねえ。これだけ気宇壮大な計画を、一体、明治政府の誰がどのように考えだし、進めていったのでしょうか?
伊勢: 発案者は佐賀藩出身の江藤新平だね。佐賀藩は幕府直轄の長崎に隣接しているから、長崎の御番、つまり警護役を担当していた。だから、日本でも西洋の学問は一番早く入ってきた。
しかも幕末に英邁な第十代藩主・鍋島直正公が登場して、陶磁器・石炭などの殖産興業を行い、また教育改革を指揮した。もともと37万石の大藩ながら、実力は100万石を超えるのでは、とも言われている。
その経済力を駆使して、日本で最初に鉄製大砲の量産に成功し、かつ蒸気船や蒸気機関までも製造している。幕府が長崎に海軍伝習所を作った時も、開設時の伝習生70名のうち、佐賀藩が48名、7割ほどを占めていた。明治政府の富国強兵策を、江戸時代から先んじてやっていたかたちだ。
__________
JOG(1275) 日本赤十字の創設者・佐野常民 ~「右手で文明開化、左手で博愛」(動画+読み物)
前半生は文明開化、後半生は博愛で、幕末・明治の日本を牽引した佐野常民の生き様。
https://note.com/jog_jp/n/nf6b9a082b636
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その鍋島公の懐刀として活躍したのが江藤新平で、明治2(1869)年には藩政刷新に辣腕を振るった。「民生仕組書」という企画書には「村中の子供男女、筆算の稽古は是非致すべく仕組みを立つべし」と、女子も含めた領民全員の義務教育を提言している。これが「学制」の原型だね。
新政府の中心として活躍していた岩倉具視は、頼りにしていた鍋島公を通じて、江藤をブレーンとして迎え、国家制度全般の構想をまとめさせた。江藤がまとめた『建国策』は後に岩倉の名前で太政官会議に提出され、政府の基本方針とされた。そこでは日本を三権分立の君主国とすべき、とまで規定していた。そして、やはり「天下に中小学校を設置して大学に隷属せしむべき事」と定めていた。
明治4(1871)年7月14日の廃藩置県のわずか4日後に、全国の教育行政を担当する文部省が創設され、責任者として江藤自身が乗り出した。文部省の使命は「全国の人民を教育して、その道を得せしむるの責に任ず」と定めて、全国の教育を一元的に統括するという近代公教育の大方針が定められた。
驚くべきことに、江藤の文部省在籍はわずか17日間で、この基本方針のレールを敷いて、次は議会制度の創設の方に移っていった。江藤の基本構想を引き継いで、「学制」として結実させたのが、これまた佐賀藩出身の大木喬任(たかとう)で、その重厚で手堅い行政手腕で、「学制」として発表し、実行していった。[毛利、p129]
ちなみに、「学制」の実施の際は、大蔵省から、内容に異議はないが、財政難で予算が工面できないという横やりが入ったけど、これを、やはり佐賀藩出身の参議・大隈重信が大蔵省に圧力をかけて必要な費用を出させたというエピソードが残っている。[竹中、p166]
花子: 日本の近代教育制度は、佐賀藩の功績が大きいのですね。
■6.「学制」を支えた「五箇条の御誓文」
花子: それにしても、これだけ革命的な案を、明治政府の中で大した異論もなく、一気に進めて行けたのは、なぜなのでしょうか?
伊勢: そう、そこの所が大事だ。まず、この『学制』の大方針が、その4年前に発出された五箇条の御誓文に則ったものであることを指摘しておきたい。
その第三条には、こうある。
__________
一 官武一途(いっと)庶民二至ル迄、各(おのおの)其(その)志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦(うま)ザラシメン事ヲ要ス
(文官や武官はいうまでもなく一般の国民も、それぞれ自分の職責を果たし、各自の志すところを達成できるように、人々に希望を失わせないことが肝要です)[明治神宮ホームページ]
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商人が商売を興し、農民は進んだ農業技術を取り入れる、など、人々がそれぞれの志を追求する。そういう希望に満ちた、活き活きとした生き方を国民にさせよう、というんだ。そのためには、当然、すべての国民の教育が必要となる。
さらにこうした国民一人ひとりの生き方をベースにして、第二条では、こう言っている。
__________
一、上下(しょうか)心を一にして、盛(さかん)に経綸を行うべし
(身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国を治め整えましょう)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
国民一人ひとりが志を持った生き方をし、互いに心を合わせて、国を治め整える。そうなれば、国家は富み栄える。西洋列強から日本の独立を守るには、そうした全国民のエネルギーを結集する必要があった。
明治天皇は御誓文と同日に「国威宣揚の御宸翰(ごしんかん、天皇から国民へのお手紙)」を明らかにされた。そこには「天下億兆、一人もその処を得ざる時は、みな朕が罪なれば(国民が一人でもその処を得られなければ、それは私の罪であるから)」という一節があった。
花子: 「一人ひとりが処を得る」というのは、学制の「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という言葉に繋がっているようですね。
伊勢: いいところに気がついたね。私もそう思う。「学制」のこれほど大胆な計画が大きな反対も受けずに実行されていった背景には、それが明治天皇が神に誓われた「五箇条の御誓文」と、国民に誓われた御宸翰の内容に則ったものだったから、と私は思うんだ。
__________
■7.「学制」の根本にある国民を「大御宝」とする祈り
伊勢: そして、この「国民一人ひとりが処を得る」とは、神武天皇の即位の詔(みことのり)で、国民を「大御宝」として安寧に暮らせるようにしようという建国目的につながっていると、拙著『大御宝』では指摘した。
__________
伊勢雅臣『大御宝 日本史を貫く建国の理念』、扶桑社、R06
民を大切な宝物として考え、その安寧を祈る「大御宝」の思想。
神武天皇即位の詔に示され、歴代天皇の責務とされてきた理念が日本の歴史を支えていた!
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/459409788X/japanontheg01-22/
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国民一人ひとりが大御宝なんだから、誰一人取り残すことなく、それぞれが、個性と能力を発揮して、生き甲斐のある人生をあゆみ、それによって、互いに支えあう「仕合わせ」の国を作る。この理念が「学制」の根本にあるのだね。
花子: 150年も前に、そういう深い考えで作られた小学校に、私も学んでいたなんて、全く知りませんでした。何万という小中学校を作ってくれたご先祖様たちに感謝しなければ、なりませんね。
伊勢: 花子ちゃんが、一生懸命勉強して、自分の才能を開花させ、自分自身の処を得て、そこでの志を追求する。そんなふうに活き活きとした人生を歩むことが、ご先祖様への恩返しだよ。
花子: 分かりました。何か、元気が出てきました。
(文責 伊勢雅臣)
写真は光受寺にて
花子: 江戸時代にそんなに教育が普及していたとは知りませんでした。その江戸時代の教育水準をベースに、明治政府は「学制」でさらにどんな教育を目指したんですか?
伊勢: その根本の方針が、「一般の人民(華族、士族、農工商、および婦女子)、必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という言葉に凝縮されている。
一つは、国民が華族、士族、農工商、および婦女子の区別なく、平等に教育を受けさせようということだった。江戸時代は武士は藩校で学び、また庶民は寺子屋で、というように、階級によって別れていた。これをまさしく四民平等で、同じ教育を受けさせようということだった。
もう一つは「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」というように、すべての国民が落ちこぼれなく教育を受けるようにしようということだった。これを「国民皆兵」に倣って、「国民皆教育」と呼ぶ人もいる。
近代的国民国家を作るには、階級の区別などなく、すべての国民が平等に初等教育を受けることが必要と考えられたんだ。
■5.江藤新平による「国民皆教育」構想
花子: それはとっても明快な方針ですが、いきなりそんな革命的な国家方針が、よくも打ち出されて、しかも着実に実行されていったものですねえ。これだけ気宇壮大な計画を、一体、明治政府の誰がどのように考えだし、進めていったのでしょうか?
伊勢: 発案者は佐賀藩出身の江藤新平だね。佐賀藩は幕府直轄の長崎に隣接しているから、長崎の御番、つまり警護役を担当していた。だから、日本でも西洋の学問は一番早く入ってきた。
しかも幕末に英邁な第十代藩主・鍋島直正公が登場して、陶磁器・石炭などの殖産興業を行い、また教育改革を指揮した。もともと37万石の大藩ながら、実力は100万石を超えるのでは、とも言われている。
その経済力を駆使して、日本で最初に鉄製大砲の量産に成功し、かつ蒸気船や蒸気機関までも製造している。幕府が長崎に海軍伝習所を作った時も、開設時の伝習生70名のうち、佐賀藩が48名、7割ほどを占めていた。明治政府の富国強兵策を、江戸時代から先んじてやっていたかたちだ。
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JOG(1275) 日本赤十字の創設者・佐野常民 ~「右手で文明開化、左手で博愛」(動画+読み物)
前半生は文明開化、後半生は博愛で、幕末・明治の日本を牽引した佐野常民の生き様。
https://note.com/jog_jp/n/nf6b9a082b636
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その鍋島公の懐刀として活躍したのが江藤新平で、明治2(1869)年には藩政刷新に辣腕を振るった。「民生仕組書」という企画書には「村中の子供男女、筆算の稽古は是非致すべく仕組みを立つべし」と、女子も含めた領民全員の義務教育を提言している。これが「学制」の原型だね。
新政府の中心として活躍していた岩倉具視は、頼りにしていた鍋島公を通じて、江藤をブレーンとして迎え、国家制度全般の構想をまとめさせた。江藤がまとめた『建国策』は後に岩倉の名前で太政官会議に提出され、政府の基本方針とされた。そこでは日本を三権分立の君主国とすべき、とまで規定していた。そして、やはり「天下に中小学校を設置して大学に隷属せしむべき事」と定めていた。
明治4(1871)年7月14日の廃藩置県のわずか4日後に、全国の教育行政を担当する文部省が創設され、責任者として江藤自身が乗り出した。文部省の使命は「全国の人民を教育して、その道を得せしむるの責に任ず」と定めて、全国の教育を一元的に統括するという近代公教育の大方針が定められた。
驚くべきことに、江藤の文部省在籍はわずか17日間で、この基本方針のレールを敷いて、次は議会制度の創設の方に移っていった。江藤の基本構想を引き継いで、「学制」として結実させたのが、これまた佐賀藩出身の大木喬任(たかとう)で、その重厚で手堅い行政手腕で、「学制」として発表し、実行していった。[毛利、p129]
ちなみに、「学制」の実施の際は、大蔵省から、内容に異議はないが、財政難で予算が工面できないという横やりが入ったけど、これを、やはり佐賀藩出身の参議・大隈重信が大蔵省に圧力をかけて必要な費用を出させたというエピソードが残っている。[竹中、p166]
花子: 日本の近代教育制度は、佐賀藩の功績が大きいのですね。
■6.「学制」を支えた「五箇条の御誓文」
花子: それにしても、これだけ革命的な案を、明治政府の中で大した異論もなく、一気に進めて行けたのは、なぜなのでしょうか?
伊勢: そう、そこの所が大事だ。まず、この『学制』の大方針が、その4年前に発出された五箇条の御誓文に則ったものであることを指摘しておきたい。
その第三条には、こうある。
__________
一 官武一途(いっと)庶民二至ル迄、各(おのおの)其(その)志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦(うま)ザラシメン事ヲ要ス
(文官や武官はいうまでもなく一般の国民も、それぞれ自分の職責を果たし、各自の志すところを達成できるように、人々に希望を失わせないことが肝要です)[明治神宮ホームページ]
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商人が商売を興し、農民は進んだ農業技術を取り入れる、など、人々がそれぞれの志を追求する。そういう希望に満ちた、活き活きとした生き方を国民にさせよう、というんだ。そのためには、当然、すべての国民の教育が必要となる。
さらにこうした国民一人ひとりの生き方をベースにして、第二条では、こう言っている。
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一、上下(しょうか)心を一にして、盛(さかん)に経綸を行うべし
(身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国を治め整えましょう)
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国民一人ひとりが志を持った生き方をし、互いに心を合わせて、国を治め整える。そうなれば、国家は富み栄える。西洋列強から日本の独立を守るには、そうした全国民のエネルギーを結集する必要があった。
明治天皇は御誓文と同日に「国威宣揚の御宸翰(ごしんかん、天皇から国民へのお手紙)」を明らかにされた。そこには「天下億兆、一人もその処を得ざる時は、みな朕が罪なれば(国民が一人でもその処を得られなければ、それは私の罪であるから)」という一節があった。
花子: 「一人ひとりが処を得る」というのは、学制の「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という言葉に繋がっているようですね。
伊勢: いいところに気がついたね。私もそう思う。「学制」のこれほど大胆な計画が大きな反対も受けずに実行されていった背景には、それが明治天皇が神に誓われた「五箇条の御誓文」と、国民に誓われた御宸翰の内容に則ったものだったから、と私は思うんだ。
__________
■7.「学制」の根本にある国民を「大御宝」とする祈り
伊勢: そして、この「国民一人ひとりが処を得る」とは、神武天皇の即位の詔(みことのり)で、国民を「大御宝」として安寧に暮らせるようにしようという建国目的につながっていると、拙著『大御宝』では指摘した。
__________
伊勢雅臣『大御宝 日本史を貫く建国の理念』、扶桑社、R06
民を大切な宝物として考え、その安寧を祈る「大御宝」の思想。
神武天皇即位の詔に示され、歴代天皇の責務とされてきた理念が日本の歴史を支えていた!
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/459409788X/japanontheg01-22/
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国民一人ひとりが大御宝なんだから、誰一人取り残すことなく、それぞれが、個性と能力を発揮して、生き甲斐のある人生をあゆみ、それによって、互いに支えあう「仕合わせ」の国を作る。この理念が「学制」の根本にあるのだね。
花子: 150年も前に、そういう深い考えで作られた小学校に、私も学んでいたなんて、全く知りませんでした。何万という小中学校を作ってくれたご先祖様たちに感謝しなければ、なりませんね。
伊勢: 花子ちゃんが、一生懸命勉強して、自分の才能を開花させ、自分自身の処を得て、そこでの志を追求する。そんなふうに活き活きとした人生を歩むことが、ご先祖様への恩返しだよ。
花子: 分かりました。何か、元気が出てきました。
(文責 伊勢雅臣)
写真は光受寺にて

ドイツからのコメントありがとうございます。
時々訪問していますが、その後失礼しております。
確かに江藤新平はそういえる偉人ですね。
40歳で亡くなるまで、あれだけのことができるのは
天才と言えますね。
惜しい人を裁いたものと残念です。もっと生きれば
あの天才ですから、偉業をなしとげられたかもしれないのに。
あの時代はどうして多くの天才が出たものかと、
日本の凄さを改めて思います。
裁かれたことを批判する偉人もありましたね。
日本最後の晒し首の江藤新平ですね。