つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

中国が激怒した日本の外交文書

2025-02-03 | Weblog
NEW HISTORY メルマガより

「日出処の天子、
書を日没する処の天子に致す」

きっと、あなたも歴史の授業などで
一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?

これは飛鳥時代、聖徳太子が
隋の皇帝・煬帝(ようだい)に宛てた
親書の冒頭に書かれていた一文で

「日が昇る国の天子が、
日が沈む国の天子に宛てて書簡を送る」

という意味です。

これを読んだ煬帝は
激怒したとされます。

その理由は諸説ありますが…

多くは、 日本が中国と対等の関係にあるように
表現したからだといわれ、

大国である中国が小国の日本を
従えていたという歴史観のもとで
考えられることが一般的です。

日本史の教科書でも、
中国の先進的な文化を
日本がさかんに取り入れようとした
ことが通説となっています。

しかし、実はこの通説は、
考古学的な発見により
見直されてきています。

その一例を挙げると...

「稲作は約2500年前(弥生時代前期)
に中国から伝来した」

という定説がありますが、

1999年に岡山市内の朝寝鼻貝塚で
日本最古(6400年前、縄文時代前期に相当)の
イネのプラント・オパール(細胞の化石)が発見されたのです。

その後、岡山県総社市南溝手にある
縄文時代の遺跡から出土した土器の胎土(土器を作る際の粘土)
からも同様の化石が発見されています。

また、岡山県以外にも、西日本を中心に
30を超える同様の化石が
検出されています。

これは、中国から稲作が伝来する以前から
イネが日本で栽培されていた可能性が高い
ということを示しているのです。

従来の歴史観では、
日本は中国の影響を強く受けてきた
とされていますが、

はたしてそれは本当なのでしょうか …?

古代日本の実態はどのようなものだったのでしょうか?

写真は昨日の節分の恵方巻。2025年の方角は西南西でした。



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