人間は生まれながらにして悪人か?
それとも善人か?
幼子のごとく.....。という言葉があるくらいだから、
元は善人なのだろう。
努力して、悪人になるのだ!!
努力するのは、偉くなろうとか、賢くなろうとか、金持ちになろうとか、あるいは成功しようとか何かの目的に向かって、自らを駆り立てていこうとするベクトル(方向性)であろう。その裏には、そうではないところの自分に対する、嫌悪感が存在する。

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言わば、劣等感が存在する。
劣等感が強い人程、努力する人である。これは大体に当てはまる。そして、努力する人は世間から励賛される。と言うことは、翻って観れば、劣等感が励賛されている訳である。努力するためには、劣等感を鼓舞しなければならない。日常的に『俺は、ダメだ。私は、未だ足りないところがある。』と、想い続ける訳であるから、相当に大変な作業であろう。
だから、努力する人には悲壮感が漂っている。『努力する人は、ステキ!』などというのは、ウソである。とてもではないが、幸せそうな雰囲気を醸し出している人は少ない。

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思えば、自分自身の劣等感(嫌悪感)と戦っているのだから、そうなるのは当然で、それが一瞬『ヤッター』と勝利感に酔いしれるときがある。それは劣等感の原因であった、地位や名誉や、優劣の競争から勝ったときである。あるいは貧乏から抜け出した時である。
一瞬、勝利の美酒を味わう。
しかし、長くはそれは続かない。それで終わりではないのである。またも、努力は始まる。心に劣等感がある限り、努力を止めない。
同時に、心の不安は拭えない。地位や名誉は得た先から、陳腐化するし、競争相手は次から次へと現れる。金持ちもピンからキリまである。世界中のカネを手にしても、宇宙中のカネからすれば、取るに足りない。第一、カネと言うものが量られている中は良いが、その尺度には常に不確実性が伴う。よく見ると、がらくたであったと気づくときもある。

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死ぬまで、努力は止むことはないのである。ということは、一生、不幸というパラドックスが生じる。このことに多くの努力人は気づいていない。頑張る人は気づいていないのである。頑張る人に、躁鬱病が多くなる原因がそこにある。
大切なことは、努力することではない。ありのままに生きることである。愉しむことである。好きなことに没頭することは、努力しているのではない。没頭していることを、難しい言葉だが『三昧(ざんまい)』と言う。没頭している人を、他人は努力していると勘違いしているかも知れないが、そんなことはどうでも良いことだ。
三昧の境地にいる人は、何かしら、幸福感が漂っている。戦っていないのだ。愉しんでいるからだ。そして、善人が多い。素直で幼稚である。しかし、物事をありのままに見つめる目を失っていない。騙されるかも知れないが、気にしない。だから、どつぼ(肥溜)に嵌まる事も少ない。つまり、どうしようもない状態には決してならないのである。

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大体、洗脳される人種というのは、努力している人に圧倒的に多くなる。頑張りやさんに多い。今、日本に於いて、指導的立場にある人は、圧倒的に努力家が多いとも思われる。官僚などはその典型であろうし、公務員などは、人生の安定を求めて相当努力してきた人たちであろう。次いで、学者や知識人がそうであろうし、実業界の特にサラリーマン経営陣には特にそうした努力家が多いはずだ。
だから、洗脳される。これも仕方がないか? これからの世の中を変える原動力は、そうした路線からはみ出されたか、最初から、あきらめた人々に依ってしか生まれてこない事になる。その方が、圧倒的多数であるから、それは徐々に始まっていると観て間違いはあるまい。
努力家の諸君は、その事を恐れて、おそらく、夜もおちおち眠られない日々を過ごしているのだろう。それを阻止しようとして、奮励努力している様が、思い描かれる。
こういう話を聞いた覚えがある。
ある成功者が、バカンスに南の島に行った。そこは常夏の島であった。その島の住人は、毎日、遊んで暮らしていた。その成功者は、その住人の一人に言った。『どうして、お前達は毎日遊んで暮らしているのだ。もっと努力というものをしたらどうだ。』
すると島のその住人は言った。『努力して、何になるんだ?』
その成功者は応えた。『俺を観ろ。俺は努力して、成功したから、こうして遠いところから、この島に来て、長いバカンスで悠々と遊ぶことが出来るのだ。』
その住人は言った。『俺たちは、毎日、ここで遊んで暮らしている。』
【転載開始】2010-04-23 19:06:46
努力
の誤解 2010年04月23日(FRI)
テーマ:心
努力することはよいことだと思われているが、確かにそうではあろう。
ただ、努力と三昧とは違う。
三昧には個を成立させ、成熟させるものがあるが、努力には個をゆがめる危険がある。
努力に無理があると、必ずと言っていいほど、そこには復讐心がともなう。
勉強ができる人になぜ復讐心が強いかのそれが本当の理由である。
また悪いことにそういう人があらゆるものをリードする立場に立ってしまっている。
中にはあまり努力しないで勉強ができるとか、勉強が楽しい、、、という流れで自然に勉強ができてしまう、、、という人も結構いる。
そういう人にはやはり何か安心できるやさしさがあったりする。
とにかく人間はあまり無理をすると本来のものをゆがめてしまうことが多くなるわけだ。
霊的に考えると、人間は霊の入れ物という面がある。
物質は霊を求め、霊は物質を求めるという大法則があるためだが、人間は高度の霊を収める入れ物としてできている。
ほっておいたら、自然と善人に行きついてしまう生き物である。
しかし幾多の苦労、努力、苦悩を味わうと、それらと関係の深い霊の入れ物に自分をしてしまう。
誰が悪いというものではなくて、自然にそうなっていく。
そういう場合でも人間本来の形と違うので、間違った霊の入れ物になると、本人も苦しい。
そのため、人間の最大の努力というのは、自分の体を悪霊の入れ物にするために払われる努力が最大の努力とも言える。
悪人になるためには、実はたゆまない努力がいるということなのだ。
これはこれで大変なことなのだ。
たとえば、笑う、、、という行為は免疫力を高め、あらゆる病気を治してしまう可能性があるが、そのためには心底笑う必要がある。
人間、心に何か重いものがあるとなかなか笑えなくなる。
しかしそれでも本当のところでは笑いたい、、という気持ちがある。
しかし何かおかしなことに触れて、つい笑ってしまったら、これまでの自分を捨てなくてはならなくなる、、、本当は捨てちゃえばいいのだが、意地があるので
どうしても捨てられない。
しかしそこをうまくついて、さらにおかしなことを見せつければ、ついに我慢しきれずに笑いだしてしまうことがある。
その時、ついに笑ってしまった人の魂は解放され、楽になる。
そしてもう二度とあの苦しみの自分に戻れなくなる。
官僚の横暴や悪意や陰湿さは努力の苦しさとそのために湧き出した復讐心に担保されている。
誰が冷たい官僚を笑い殺せるか、、、誰が悪人を笑わせることができるか、、、そこに行きつかないと実は世の中は変えられない。
悪人を殺せば良い世が来るどころか、彼らの思うつぼである。
悪はさらに悪であることを力づけられる。
悪は本筋の命にはつながっていないから、横取りしてしかエネルギーを奪えない。
なので、まともで普通で善意の人間がいなければ生きていけないという根本矛盾を抱えている。
なので最終的にはやっと花をつけたら、咲いたまま枯れる運命を持っている。
新たな憎しみをエネルギーにしなければ生きていけない。
そしてその流れの構造を基本的に断絶させ、一瞬にして本の太古の自然な状態に戻すものが笑いである。
私は悪の行動原理に近い神経症を青年期に深くまじめに体験しているのでよくわかるのだが、偶然に大笑いをしてしまったことがあった。
その時、自分を苦しませていた神経症のあらゆる症状がすべて一瞬にして消えてしまったのを知って驚いたことがある。
その時はすべてのメカニズムを本当に理解したわけではなかったので、しがみつくべく神経症の苦しさと症状はすぐに復活してしまったが、この体験は心のメカ
ニズムをそののち理解する大きな助けとなった。
考えてみれば岩戸開きも笑いと歌と踊りであった。
神話は確かによくできている。
悪人にももちろん笑いはある。
それは優越のタカ笑いであり、嘲笑の笑いであり、冷笑である。
腹の底からおかしくて楽しくて本当に大笑いしてしまったら、自分をすべて忘れてその現象のおかしさに大笑いしてしまったら、悪人は存在の基盤を一瞬にして
失ってしまう。
私たちも苦労して怒っているときは、絶対に笑おうとしない。
笑ってしまったら自分が負けたようになってしまう、、、そんな意地が働く。
そして笑うことよりも不幸を選択する。
その権化が悪魔であり、彼らは人一倍努力している。
なので、この世の支配者になっても確かにおかしくない権利は一面ではあるのかもしれない。
なにせ、一番苦しいことを、一番無理なことを、何年も何世代にもわたって努力してきているのだから。
快適さ、解放感、笑い、、、なぜ現代からそうしたものが急速に消えていったのか、、、、テレビを見れば、そこにある笑いは冷笑と嘲笑の笑いである。
15年ほど前まではまだお笑いでももう少し、本当に面白いものがあったが、最近ではやっぱり変わってきている。
腹の底からわらったことが最近ない、、、そういう人が多いと思うが、おそらく何かで苦労されて努力することを求められているのだろう。
そうなれば、きっと何かに復讐したい、、、人間が嫌いだ、、、という気持ちとセットされていると思う。
古き良きアメリカの時代のホームドラマは笑わせるものが多かった。
そんなものでもどんなに大勢のアメリカ人を幸福にしていたことか。
しかし一度苦しみ、つらい努力を重ねる、、そうなったら、どんなに面白いものを見ても知っても笑えなくなる。
笑えるようになるには、その前の心をほぐしたり、自然なものを受け入れるような体験が必要なのだろう。
文化の本当の役割は生きる際に出くわす幾多の苦労を、悪にせずに笑いによって流し、あらゆる努力以前の三昧によって生きる道を作ることにあるのではない
か。
文化の時代が復活する。
この世の危険から身を守る簡単な方法は腹の底から笑うことだ。
それができないときは、それができるように生活を変えていくことだ。
何かが間違っているからだ。
おそらくそれは正しいと思っていた努力にある可能性が高い。
努力しなければならないものより、三昧になれるものを探す。
無理な努力による苦しみから離れる。
その上で周囲を笑わせることができるようになれば、あなたは神から愛される人になる。
時代を変える人になる。
悪とは笑えないということだ。【転載終了】