ヒトラーがベルリンを生き抜き、
アルゼンチンの生き延びたことは周知の事実である!
周知でないのは大多数のメディアの隠蔽で、
その動向は諜報関係では幾重にも事実だ・・・!
ナチズムは創られ、
生き延び、
未だに彷徨っている・・・。
何度も囁かれてきたことであるが、
ここに来てその核心に迫った感がある。
ナチズムの亡霊は、未だに彷徨っている・・・。
決して亡霊ではなく、実体としてである。
ウクライナがそうであるし、
夥しい偽旗作戦がまさにそうである。
グラディオ作戦は、
ナチズムの綿々たる流れで『壮大なうそ』で現代に引き継がれている。
9.11がそうであるし、
古くからはパールハーバー、
その昔のルシタニア号撃沈事件もそうである。
第一次世界大戦に米国参戦を誘った偽旗である。
それ以外にも、
トンキン湾事件や枚挙に暇がない。
こうして観ると、
ナチズムというのは、
何もヒトラーの専売特許ではなく、
ヒトラーこそナチズムに咲いた徒花というべきもので、
その一部に過ぎない事が明白になる。
要するに、
世界を戦争に巻き込む役者として投じられた、
クライシスアクターズに一人に過ぎないということが見えてくる。
大物役者である。
それが生かされたというのは、
論功行賞そのもので、
プロデューサーは別物である。
言うまでもなく、
現在のNWOの元締め国際金融資本=イルミナティーということだ。
それが次第に明らかにされているだけだ。
大手メディアの体質は、
このプロデューサーの意向の下にあるということは、
昨今の偽旗作戦の報道姿勢でも明らかだし、
アメリカ大統領選挙などでも露骨に本性が剥き出しとなった。
ヒラリーが、
それと露骨に攣るんでいたことが明白になったが、
未だ逮捕されないのは、
剥き出しの抵抗が続いているからだが、
相当に危うい状況になっていることは間違いない。
ヒラリーがメール問題でやり玉に挙げられているのは、
メールを通じて国家機密が流出したという道義的な問題ではない。
露骨にリビア崩壊に加担し、
挙句の果てにその先棒を担がせた大使の殺害にまで、
関与していた事実にある。
相当数のメールが破棄されたか、
隠蔽されたようで、
未だ安泰だが、
一寸先は分からない。
とにかく、
今の政治は表の仮面に比べて、
裏の闇は深く、おどろおどろしい。
これは日本でも言えることで、
東京都理事選でも随所で見られる。
まさに、
植松聖障害者大量殺人犯のタツー(刺青)のように、
ひょっとこが割れて般若が顔を出し始めた。
一言は万事である。
表の面構えと内面の想念が乖離しているのである。
本日は都知事選、
不正がなければ、
小池百合子だろう・・・。
とりとめのない記事となった・・・。
とにかく、ヒトラーは生き延びた。
そして、ナチズムはヒトラーの専売特許ではなかった。
彼は役者であった。
今もナチズムは生きている。
植松聖にも、ありありと生きていたではないか!
Documentary Films: How Hitler Got Away - Full Story
【転載開始】
ナチスの独裁者アドルフ・ヒトラーが1945年4月にベルリンの防空壕で自殺せず、南米に逃げたと仮定した場合は?ここで、疑問が生ずる。彼の遺体はどこに眠っているのか?
1945年、アドルフ・ヒトラーは、10年間住んでいアルゼンチンに避難を求めた可能性がある。しかし、1955年、フアン・ドミンゴ・ペロン政権 の打倒後、新しい住み家を模索しなければならなくなった。他の多くのナチスと同じように、ヒトラーはパラグアイに渡り、ドイツに出自を持っていた独裁者ア ルフレド・ストロエスネルの後援の下に暮らした。バスティ氏がスプートニクの独占インタビューで語った。
バスティ氏は著書の中で、ヒトラーや他のナチス高官がパラグアイで暮らしていたことを裏付ける諸々の証言を参照している。バスティ氏によると、ヒトラーは1971年2月3日に死亡した。
「長年にわたって彼を助けた裕福な家族は、葬儀の執り行いを引き受けた。ヒトラーはパラグアイ首都アスンシオンの地下壕に埋葬され た。 1973年に地下壕への入り口は密閉され、最後の別れには40人が駆けつけた。その後、出席者の一人、ブラジルの軍人フェルナンド・ノゲイラ・デ・アラ ウージョが、式典について新聞に語っている」
それはソ連軍によってベルリンの地下壕が制圧される数日前に始まった長い旅のフィナーレであったかもしれない。本物のヒトラーは影武者の死体を残し て愛人エヴァ・ブラウンとともに地下通路から空港へ脱出し、スペインに、次にはカナリア諸島へ飛んだ。そこから潜水艦でアルゼンチンのコモドロリバダビア に向ったのだ。
「ヒトラーが逃げ延び、ソ連の手に落ちないということについては、米国との合意があった。それはまた、その後対ソ戦に参加した多くの科学者、軍人、スパイにも関わることだ」と歴史家。
アルゼンチンから逃れた後、1955年にヒトラーはパラグアイのイパカライ湖のほとりにあるホテルに住んでいた。その後、パラグアイ独裁者の最初の妻ストロエスネルに属する家に住んだ。アルゼンチンの歴史家によると、ナチス指導者はまた、ブラジルとコロンビアを訪問した。
いずれにせよナチス・ドイツの独裁者の人生の物語は、まだ謎と曖昧さに満ちている。
先に報じられたところによると英国で「ミス・ヒトラー2016」コンテスト が開催された。これは英国のユダヤ人団体の不満を引き起こさないわけがなかった。
【転載終了】
「障害者に安楽死を」はナチスの優生思想そのもの・障害者団体の代表が社会の風潮に懸念を表明