草むしり作「わらじ猫」前4
㈠裏店のおっかさん④
次の日太助が探してきたのは、ハチという名の犬だった。ハチは人間にすれば七十歳くらいになる老犬だった。ここしばらくは子どもも産んでいなかったのだけど、この秋口に久しぶりに子どもを産んだ。こんな年寄りでも子どもを産むのかと、飼い主は驚いたり呆れたりもした。
しかしながら高齢の出産はやはり無理だったのか、無事に生まれたのは一匹しかいなかった。まあそれはそれでハチの体力からすればちょうど良かったのだろ、何とか無事に子犬が乳離れしてつい先日貰われていったばかりだ。
今ならまだ乳が出るかも知れないと、女将さんは快く太助の頼みを聞いてくれた。仔猫を懐に入れて太助が柳家に向かったのは、昼を少しすぎたころだった。いつもならまだ桶の中に、半分は仕入れた魚が残っていてもおかしくない時分だったが、今日はどうしたわけか持っていく先から買い手がついた。こんな日もあるものだと太助は思いなが柳家の勝手口から中を覗いた。柳家は値段の割に、旨くて気の利いたものを出すと評判の料理屋で、太助は出入りの魚屋だった。
ハチはここに店を出したころに、女将さんが拾ってきた犬だった。子どもの無い夫婦にとってハチは子どものようなものだった。とりわけ女将さんはどこに行くにもハチをお供にしていた。
太助が近づくとハチは横になったまま知らん顔をしていた。これがついこの間まで、子犬をかいがいしく世話をしていた犬だろうかと思えるほど、老け込んで見えた。やはり子どもを早めに乳離れさせたからだろうか。このところハチは昼の間は寝てばかりだが、夜になると起き出してあちらこちら歩き回るようになった。時折帰り道が分からなくなり迷子になってしまうので、柳屋の屋号の入った手ぬぐいを首輪代わりに巻いている。そればかりか飯を食ったのも忘れて、何度も飯の催促をする。その上旦那や板前にまで吠えかかって、女将さんも困り果てていた。
ハチのために良かれと思ってしたことがかえって仇になったようだ。子犬は貰われた先でたいそう可愛がられており、今さら返せとは言えない。もう歳だから仕方ないのかも知れないが、子どもに乳を咥えさせたらまた元に戻るかもしれない。女将さんにはそんな思いがあったのだろう。
「ハチこの子、助けてやっておくれ」
ハチは太助が差した仔猫をチラッと見るなり、また目を瞑って居眠りを始めた。仔猫が鳴いても知らん顔をしていた。
―こいつは脈がないな
太助が半分諦めかけたときだった。仔猫がハチの腹の下に潜りこもうとした。乳を探しているのだろうか。ハチは軽く唸ると、仔猫を鼻先で押しのけた。それでも仔猫はあきらめずに乳を吸おうとハチの腹の下に潜りこんでいった。するとまたハチが鼻先で押し返す。そのたびにハチの唸り声がだんだん強くなっていった。それでも仔猫はあきらめなかった。何度押し返されてもハチの乳房に向かっていった。ついにはハチも折れたのだろうか。じっと横になって仔猫に乳を与え始めた。
「不思議なこともあるものだ。もうとっくに止まったはずの乳が、また出るようになっちまったんだから。まったく、あれには驚いたね。乳をやり終わったとたん、今度はペロペロと仔猫を舐めだして、離さねぇんだよ。だからしばらくは向こうで預かるって」
太助がお松に事の顛末を話しているところに、おなつが手習いから帰ってきた。
「おっかさん大変、どうしよう」
帰ってきたおなつを見て、お松も大声を上げた。
「おやまー、大変だ」
おなつが連れてきたのは仔猫を咥えたハチだった。
ハチは今度もまた子どもを取られるのではないかと思ったのだろう。仔猫を咥えて隠し場所を探していた。そこで手習いから帰る途中のおなつに出会って、そのままついてきたのだ。早速おなつの家の床下に潜り込むと、ハチは仔猫に乳をやり始めた。どうやらここで子育てをするつもりらしい。
「柳家の女将さんに知らせてやらないと。なんせハチのこと子どもみてぃに可愛がっているんだから。きっと今頃青くなってさがしているよ」
太助は大慌てで柳屋に戻っていった。
ハチはおなつの家の床下で仔猫を育て始めた。仔猫はタマと名づけられ、ハチの乳で日に日に大きくなっていった。
やがてタマも乳が離れ、ハチは柳家に戻っていった。タマはおなつに、ことのほか良くなついていた。朝は手習いに出るおなつと一緒に家を出て、柳屋のハチのところに行く。おなつの手習いが終わるまでハチのところで過ごし、その後またおなつと一緒に長屋に帰って来るのが日課になった。
柳屋の女将さんは何度かタマに餌をやってみたのだが、タマは決して食べることはなかった。拾われたときに食べたお粥がよほど美味しかったのだろうか。今ではおっかさんに貰う汁かけ飯しか食わなくっていた。
それにしては大きくなったものだ、丸々と肥えて、毛並みも美しい。汁かけ飯だけであんなに大きくなるものだろうかとも思うのだが。タマが成長するにしたがって、長屋の鼠がずいぶんと少なくなった。どうやらタマの成長と鼠の数は関係が深いようだ。
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