うえぽんの「たぬき鍋」

日々のつれづれ、野球ネタ、バカ話など、何でもありの闇鍋的世界?

うえぽん版「お葬式」最終話・「この世をばどりゃおいとまに線香の煙とともに灰さようなら…十返舎一九」

2005-03-18 20:53:36 | 雑記
(『うえぽん版「お葬式」第5話・「通夜・ウチってこんなに親類いたっけ?」』の続き)

とうとう、葬儀・告別式の日が来た。電車やバスの接続が良く、予定より1本早く着いたら、我々が一番乗りだった。ボンヤリと会場の席に座って祖父のことをあれこれと思い出す。

祖父の一族は短命の家系で、きょうだいは上も下もみんな早々に逝ってしまった。26年前に妻(祖母)を亡くして以来、ずーっと一人で鶴見の家に住んでいた。炊事洗濯、全てのことを娘二人に頼ることをせず一人でこなし、頑張ってきたのだ。それでも、つらいそぶりは全く見せず、誰に対しても常に明るく優しい人だった。孫として自慢できる祖父だった。
亡くなる二日前、私の妹がお見舞いに行った時に、普段よりもパッチリ目を開けて涙を流していたという。別れが近いことをわかっていたのだろうか。そして「シンちゃんは…?」と私の名前を口にしたのが、はっきりとしゃべった最後の言葉になった。「オレなんかでいいの…?」何だか他の人たちに申し訳ない気持ちである。

タケオおじさんがやってきた。何だかバツの悪そうな苦笑いを浮かべている。聞くと、喪服の背広だけ間違えて着てきてしまったという。よく見ると、生地の色が黒に近い紺色で、ストライプが入っているではないか。「ボクもやらかしちゃった。他人のことを笑えなくなっちゃったよ」とタケオおじさんは頭をかいた。
「ボクも…」とはどういうことかというと、昨日書き忘れたのだが、受付前の廊下に泥みたいな小さな塊が点々と落ちていたのだ。父が斎場の人に掃除を頼み、職員がモップで掃くと「これ、泥じゃないみたいですね…」と首をひねるので、よく見るとゴムだった。実は、祖母の弟・クニトモおじさんの靴の裏が古くなっていて、ゴムがポロポロ剥がれ落ちていたのだ。仕方なく、クニトモおじさんはスリッパを借りて歩き、タケオおじさんは密かに爆笑していた。タケオおじさんの爆笑には伏線があり、6年前の父方の祖母のお葬式で、今回亡くなった祖父が全く同じようなことをやっていたのだ。私の母に「キミの所の親戚はみんなスゴイね」と言って一緒に笑っていたのだが、今日は目立たないようにひっそり動いていた。
「やらかし」はこれでおしまいかと思ったら、今度はヒロコおばさんのヒールの裏のゴムがポロッと落ちた。ここまで来ると偶然とは思えなくなってくる。この一族は靴に呪われているのか?

葬儀・告別式が始まる。昨日はうえぽん兄妹で受付を務めたが、今日は受付をタケオおじさんに任せ、参列する。そりゃ孫だもんね。
隣に座っている妹が、席について祭壇を見た途端に泣き出した。それを見ていたら私も涙が出てきた。まさに、

♪ええいああ ぽろぽろもらい泣き by一青窈

ちなみに、もう二人の孫であるターちゃんとトーゴちゃんは、祖父が亡くなったその日から涙腺緩みっぱなしである。
私は昔は泣き虫だったが、最近あまり泣かなくなった。と言うか、泣けなくなってしまった。泣きたい時にうまく泣けない。涙が出ても、しばらくすると白けるというか何というか、イヤ~な気持ちになるのだ。これがまた、悲しみの遣り場ががなくなって、すごいストレスになる。
泣くことはストレスを解消すると言う。オレってストレス解消がどこまでもヘタな人間なのね。うつになるのも納得がいく。今回は妹からもらい泣きできたが、そうじゃなかったら悲しみがいくら高ぶっても泣けずにいたかも知れない。

読経をしている久保山円覚寺のお坊さんは、織田無道並みにガタイが良い。声も腹の底から出ていて、若いながらも迫力がある。特に、途中で入った
「かあああーつ!!!!!!」(喝)
には、えんえんと泣いていた妹も思わず泣き止んでしまった。

棺の蓋を開け、花を詰める「お別れの儀」の時間になった。祖父はますます顔がおかしなことになり、とうとう両目が白目半開きという悲惨な状況になってしまった。口も昨日より開いている。父の姉・ヒサコおばさんは「能面みたい…」と呆然としていた(ヒサコおばさんは能をやっている)。
今日は忘れずにシュークリームを持ってきたので、一度祖父の口に触れさせてから枕元に置いた。また、昨晩クニトモおじさんが「おじいちゃんは水泳が得意だったから、水着も入れてあげたらいいんじゃないかな」と言っていたのだが、鶴見の家に取りに行くには時間がなかったため、昔伊豆旅行に行った時に撮った「プールに飛び込む瞬間」の写真を代わりに収めた。その上を菊などの花で埋め尽くしていく。みるみるうちに棺は花であふれた。

前にテレビで見たが、スギ花粉症だけではなくキク花粉症なんていうのもあるという。もし、キク花粉症持ちの人が亡くなったら、棺をキクで埋め尽くすのは故人に対する冒涜になるんじゃないの?なんてくだらないことを考えた。というのも、ヒロコおばさんが重度の花粉症で、葬儀の祭壇を決める際にも花の種類や量をすごく気にしていたのだ。

斎場の裏がちょうど市営の火葬場(久保山斎場)で、棺だけ霊柩車に載せて、我々は徒歩での移動である。
父方の祖父が亡くなった時も、式場だった寺の真ん前が桐ヶ谷斎場で、ただ道を横切るだけという間抜けな葬送になった。あれだったら霊柩車なんか使わずに、我々で担いで炉まで持っていったっていいじゃないかと思ったが…さすがにそれはまずいか。途中で落としたりでもしたら大変だし。
久保山斎場は、今でこそ近代的な建物でしゃれているが、昔はすごかったらしい。こちらのHPをご覧いただきたい。まさに「焼くためだけに作られた場所」であり、風情も何もあったもんじゃない。じゃあ今の建物に風情があるのかと言われるとそれも微妙なところではあるが。霊柩車が入口に到着すると、特殊な運搬用の機械に棺を載せて、炉の前まで運ぶ。昔はただのストレッチャーみたいなもので運んでいたのに、最近はすごいなぁ。

祖父の棺が炉の奥へと消えていく。もう、あの元気な姿は帰ってこない。次に見る時にはお骨だ。炉のドアが静かに閉まっていくあの瞬間は、何度か経験しているが、たまらなくつらい。炉の「グォーッ」という音も「ああ、今焼かれてるんだ…」という感じがしてイヤなものである。
約1時間後、火葬終了。祖父のお骨あげが始まった。足、特に大腿骨の太さには驚くばかりだ。祖父は小柄でやせ形だったが丈夫な人であった。80歳を過ぎても電動自転車を軽々と乗り回し…しょっちゅうコケてあざを作ったり、ある時には車に接触したこともあったのだが、ただの1度も骨折しなかった。これだけ太ければ丈夫なはずだ。納得!骨太で量も多く骨壺に入りきるか心配されたが、係員が「すみませんが、少し砕かせていただきます」といい、かなり時間をかけて砕いていった結果、ようやくギリギリで収まった。のど仏(第二頸骨)はきれいに焼け、頭蓋骨も耳の穴や歯のくぼみがはっきりわかった。さすがおじいちゃん、最後はビシッとカッコ良く決めたもんだ。

初七日法要を終えた後の精進落としには、祖父の好物だったうなぎが出てきたので、日本酒と共にお供えした。私が酒をおいしく飲めるようになった頃と、祖父が胃を切除して酒を飲まなくなったのがちょうどぶつかってしまったため、祖父と一緒に一杯やる機会がなかったのが心残りだった。だから、祭壇の日本酒の入ったコップと、私が持っているビールのコップで「乾杯」した。もう、誰にも遠慮しないで好きなだけ飲んでいいんだよ、おじいちゃん。あ、おばあちゃんにもよろしく言っておいてね。

帰りに、母が祖父によく連れて行ってもらったという伊勢佐木町の不二家で、うえぽん一族全員でパフェやケーキを食べた。祖父は酒飲みだったが、甘いものにも目がなかった。「酒飲みに甘党はいない」だなんて誰が言ったんだろう。父方の祖父だって酒飲みだったが、「赤福」が大好物だったんだぞ。

と、いうわけで、嵐のような5日間はあっという間に過ぎていったわけだが、まだ、四十九日法要や納骨、鶴見の家の片づけなど、やることは山のように残っている。残された我々は大変だが、とりあえず祖父には「長い間ありがとう。こっちは心配要らないから、あの世で待っているおばあちゃんや家族みんなと仲良く暮らして下さい」と切に願うばかりである。

戒名・慈雲院徳岳宗榮居士(じうんいんとくがくそうえいこじ)…合掌。
(完)