みおさんのブログの『大好き。でも、今は読めません。---『コマのおかあさん』鷺沢 萠』という記事に触発されて、鷺沢萠のエッセイを図書館でたくさん借りたは良かったが、その直後に祖父が亡くなってしまい、ゆっくり読むどころじゃなくなってしまった。それでも何とか時間を見つけては読み続け、今日の名古屋出張でやっと読み終わった。主に、出先の行き帰りの電車やバスで読んでいたのだが、あまりのおかしさに笑いをこらえるのが大変だった。それでも思わず読みながらニヤニヤしてしまい、ハッと我に返って辺りを見回すこと度々。
やべぇ、面白すぎるこの人(と、その周りの人々)。なんでそんなに早く逝っちゃったのさ。もっともっと、面白いことたくさん書いて欲しかった!今さらながら憤りを覚える私である。
たくさん借りた中でも特にツボを突いたのが「酒とサイコロの日々」。彼女の大好きな酒とギャンブル(特に麻雀)に関する抱腹絶倒のエッセイを集めた一冊である。私は「これは絶対面白い!」と中身を読む前から確信し、わざと一番最後にとっておいたのだ(私は、目玉焼きの目玉は一番最後に食べる人間です)。そしてその確信はまんまと的中し、名古屋市営地下鉄桜通線の車内で私は思わず「クーッ!」と吹き出して、周りから白い目で見られてしまったのだった。
思えば私も、サルのように麻雀に明け暮れた日々があったのだ。時は高校時代に遡る。
休み時間や放課後に、教室で見慣れないカードを持って遊んでいるグループがいた。すごく楽しそうだったので、ギャラリーになって覗いていたら、カード麻雀だ。「うえぽん、麻雀のルール知らねーの?何なら教えてあげよっか?」と甘くささやき、私を「悪の道」に引きずり込んだヤツは一体誰だったか、未だに思い出せない。それはともかく、これが麻雀との運命の出会いであった。
「やりながら覚えていった方が早い」なんて事を言われて「卓」に放り込まれ、一枚カードを引いて来るたびに後ろのギャラリーに「これってどれ切ったらいいの?」とか「これって役あるの?」とか訊きながらノロノロやっていく内に、自然と手作りの仕方や役を覚えていった。でも、未だに点数計算はできない。あれだけはどうしても覚えられなかった。
レートは他愛のないもので、役一つにつき10円。しかし、一役10円ったって「塵も積もれば山となる」で、毎日サルのようにやってて負ければ、貧乏高校生にとっては結構シャレにならなかった。休み時間はもちろん、放課後もえんえんと。ヘタすりゃ授業中にもこっそりとやっている一団もいた。私のいた学校は定時制もあったため、我々全日制の生徒は午後5時という早い下校時間であったが、その分集中して密度の濃い闘いが繰り広げられていたのである。
しばらくすると学校だけでは飽きたらず、友人の家で卓を囲むことが増えてきた。やはりカード麻雀と本物の牌でやる麻雀は別物だ。当然、本物でやった方がいいに決まっている。毎週土曜日の放課後、桜新町に住んでいる友人ダティの家で卓を囲むことが雀仲間の恒例になった。学校のある下高井戸から世田谷線で世田谷まで乗り、そこからはみんなでバス通りをゾロゾロ歩いてダティの家まで行く(ダティは自転車で一足早く帰り、準備をして待っている)。みんな「今日は勝ってやるぜ!」と目は輝き、心は弾み、足取りも軽い。でも、数時間後には一部の人間を除き、死んだ魚の目をして足取り重く「今日はやめときゃ良かった…」と呟きながら家路につくのがオチだった。
当時、土曜日の私は行きたくもないのに親から半強制的に○々木ゼミナールに通わされていた。最初の方は一応マジメに通っていたが途中からはアホらしくなり、よくサボってはダティの家に行くようになった。それが2~3回ほど続いた時、何とチューターから自宅に「最近出席していないようだけど、どうしたの?」という電話がかかってきて非常に焦ったことがある。ちゃんと出席チェックしてたのね。そこで私は非常に面倒くさい対策をとらねばならなかった。下校後に下高井戸から京王線で新宿に出て、そこから歩いて○ゼミまで行き、出席チェッカーにカードを通してから渋谷に出て、そこから電車かバスを使ってダティの家に行っていたのだ。
本当にバカである。わざわざ学費を出してくれた親に申し訳ない。そんなにしてまで麻雀がしたかったのかキサマ!この親不孝者!!と、当時の自分を小一時間問いつめたい。おかげで大学行くのに1年遠回りしたし。でも、バカやってて充実した楽しい時代を過ごせたのもまた事実だし、今にだって生かされている面も少なくはない。実際、こうやってブログのネタにもなってるし(そりゃちょっと違うか?)。
どこぞのお菓子の広告ではないが「若さとは、バカさだ!」というのは本当のことだと、三十路を目前にした私は痛切に思う。むしろ、若い内にバカやった方がいいのかも知れない。そういう経験がないと人生寂しいと思うし、若い頃の経験がなかったばっかりに、世間で許される境界線を踏み越えるような大バカやって道を踏み外すヤツだっているのだ。
話を麻雀に戻そう。今考えたら脂っこいメンツばっかりだったなぁ。ダティは理論派でダマテン主義の不気味な男だったし、シゲは派手な役が大好きで、ツボにハマった時の破壊力が半端じゃなかったし、ハマーは地味だったけど地力があって結構強かった。それに、忘れちゃいけないのはサントーだ!コイツは本物のギャンブラーでまさに「鬼」だった。「オレはヤツの金庫か…?」と思うぐらいに負けまくったものだ。サントーの友人たちの強さもシャレにならなかった。卓が立つ度に私とGALLEON氏は、当時で言うところのベイスターズとタイガースのごとく、常にドベ争いをしていたのである。
散々痛めつけられておいて、よくイヤにならなかったものだと今さらにして思う。とにかく勝とうが負けようが牌を握ってみんなとやりあうのが面白くてたまらなかった。あんなにまで一つのことに打ち込んだ期間というのは他に記憶がない。あんなに負けたのに楽しかった。高校時代の思い出の半分以上は麻雀だ。それもまたよし。友情や教訓など、麻雀に教えられたことは数多い(「授業料」は非常に高かったが)。私に麻雀を教えてくれた諸氏に感謝したいと思う。でも、サントーとは現在連絡を取っていない。
おまけ
私が麻雀を覚えたと聞いた父は「まぁ、ほどほどにしとけヨ」と言ってニヤリと笑った。父はパチンコ競輪競馬競艇など、ギャンブルは一切やらないマジメな男なのだが、あの笑いが妙に気になって、当時存命中だった祖母に「うちのオヤジって、昔っから賭け事しなかったの?」と訊いてみた。すると祖母は「とんでもない!あの子はね、大学時代は麻雀で生計立ててたんだから。雀荘から年賀状が来るほどだったのよ。亡くなったお父さん(私の祖父)が『マジメに勉強しろ!』っていつも怒ってたんだから」だと。母にも訊いたら結婚してからもしばらくは毎日のようにやっていて、終電帰宅は日常茶飯事だったという。
そういえば、昔父に何気なく「大学で何かサークルとかやってたの?」と聞いたら
「中国古典文化研究会」
と答えたので「オヤジ、確かコテコテの理系(東京電機大学卒)だったはず…?」と不思議に思っていたのだが、そういうことだったのか!お父さん、私は間違いなくアナタの子です。
やべぇ、面白すぎるこの人(と、その周りの人々)。なんでそんなに早く逝っちゃったのさ。もっともっと、面白いことたくさん書いて欲しかった!今さらながら憤りを覚える私である。
たくさん借りた中でも特にツボを突いたのが「酒とサイコロの日々」。彼女の大好きな酒とギャンブル(特に麻雀)に関する抱腹絶倒のエッセイを集めた一冊である。私は「これは絶対面白い!」と中身を読む前から確信し、わざと一番最後にとっておいたのだ(私は、目玉焼きの目玉は一番最後に食べる人間です)。そしてその確信はまんまと的中し、名古屋市営地下鉄桜通線の車内で私は思わず「クーッ!」と吹き出して、周りから白い目で見られてしまったのだった。
思えば私も、サルのように麻雀に明け暮れた日々があったのだ。時は高校時代に遡る。
休み時間や放課後に、教室で見慣れないカードを持って遊んでいるグループがいた。すごく楽しそうだったので、ギャラリーになって覗いていたら、カード麻雀だ。「うえぽん、麻雀のルール知らねーの?何なら教えてあげよっか?」と甘くささやき、私を「悪の道」に引きずり込んだヤツは一体誰だったか、未だに思い出せない。それはともかく、これが麻雀との運命の出会いであった。
「やりながら覚えていった方が早い」なんて事を言われて「卓」に放り込まれ、一枚カードを引いて来るたびに後ろのギャラリーに「これってどれ切ったらいいの?」とか「これって役あるの?」とか訊きながらノロノロやっていく内に、自然と手作りの仕方や役を覚えていった。でも、未だに点数計算はできない。あれだけはどうしても覚えられなかった。
レートは他愛のないもので、役一つにつき10円。しかし、一役10円ったって「塵も積もれば山となる」で、毎日サルのようにやってて負ければ、貧乏高校生にとっては結構シャレにならなかった。休み時間はもちろん、放課後もえんえんと。ヘタすりゃ授業中にもこっそりとやっている一団もいた。私のいた学校は定時制もあったため、我々全日制の生徒は午後5時という早い下校時間であったが、その分集中して密度の濃い闘いが繰り広げられていたのである。
しばらくすると学校だけでは飽きたらず、友人の家で卓を囲むことが増えてきた。やはりカード麻雀と本物の牌でやる麻雀は別物だ。当然、本物でやった方がいいに決まっている。毎週土曜日の放課後、桜新町に住んでいる友人ダティの家で卓を囲むことが雀仲間の恒例になった。学校のある下高井戸から世田谷線で世田谷まで乗り、そこからはみんなでバス通りをゾロゾロ歩いてダティの家まで行く(ダティは自転車で一足早く帰り、準備をして待っている)。みんな「今日は勝ってやるぜ!」と目は輝き、心は弾み、足取りも軽い。でも、数時間後には一部の人間を除き、死んだ魚の目をして足取り重く「今日はやめときゃ良かった…」と呟きながら家路につくのがオチだった。
当時、土曜日の私は行きたくもないのに親から半強制的に○々木ゼミナールに通わされていた。最初の方は一応マジメに通っていたが途中からはアホらしくなり、よくサボってはダティの家に行くようになった。それが2~3回ほど続いた時、何とチューターから自宅に「最近出席していないようだけど、どうしたの?」という電話がかかってきて非常に焦ったことがある。ちゃんと出席チェックしてたのね。そこで私は非常に面倒くさい対策をとらねばならなかった。下校後に下高井戸から京王線で新宿に出て、そこから歩いて○ゼミまで行き、出席チェッカーにカードを通してから渋谷に出て、そこから電車かバスを使ってダティの家に行っていたのだ。
本当にバカである。わざわざ学費を出してくれた親に申し訳ない。そんなにしてまで麻雀がしたかったのかキサマ!この親不孝者!!と、当時の自分を小一時間問いつめたい。おかげで大学行くのに1年遠回りしたし。でも、バカやってて充実した楽しい時代を過ごせたのもまた事実だし、今にだって生かされている面も少なくはない。実際、こうやってブログのネタにもなってるし(そりゃちょっと違うか?)。
どこぞのお菓子の広告ではないが「若さとは、バカさだ!」というのは本当のことだと、三十路を目前にした私は痛切に思う。むしろ、若い内にバカやった方がいいのかも知れない。そういう経験がないと人生寂しいと思うし、若い頃の経験がなかったばっかりに、世間で許される境界線を踏み越えるような大バカやって道を踏み外すヤツだっているのだ。
話を麻雀に戻そう。今考えたら脂っこいメンツばっかりだったなぁ。ダティは理論派でダマテン主義の不気味な男だったし、シゲは派手な役が大好きで、ツボにハマった時の破壊力が半端じゃなかったし、ハマーは地味だったけど地力があって結構強かった。それに、忘れちゃいけないのはサントーだ!コイツは本物のギャンブラーでまさに「鬼」だった。「オレはヤツの金庫か…?」と思うぐらいに負けまくったものだ。サントーの友人たちの強さもシャレにならなかった。卓が立つ度に私とGALLEON氏は、当時で言うところのベイスターズとタイガースのごとく、常にドベ争いをしていたのである。
散々痛めつけられておいて、よくイヤにならなかったものだと今さらにして思う。とにかく勝とうが負けようが牌を握ってみんなとやりあうのが面白くてたまらなかった。あんなにまで一つのことに打ち込んだ期間というのは他に記憶がない。あんなに負けたのに楽しかった。高校時代の思い出の半分以上は麻雀だ。それもまたよし。友情や教訓など、麻雀に教えられたことは数多い(「授業料」は非常に高かったが)。私に麻雀を教えてくれた諸氏に感謝したいと思う。でも、サントーとは現在連絡を取っていない。
おまけ
私が麻雀を覚えたと聞いた父は「まぁ、ほどほどにしとけヨ」と言ってニヤリと笑った。父はパチンコ競輪競馬競艇など、ギャンブルは一切やらないマジメな男なのだが、あの笑いが妙に気になって、当時存命中だった祖母に「うちのオヤジって、昔っから賭け事しなかったの?」と訊いてみた。すると祖母は「とんでもない!あの子はね、大学時代は麻雀で生計立ててたんだから。雀荘から年賀状が来るほどだったのよ。亡くなったお父さん(私の祖父)が『マジメに勉強しろ!』っていつも怒ってたんだから」だと。母にも訊いたら結婚してからもしばらくは毎日のようにやっていて、終電帰宅は日常茶飯事だったという。
そういえば、昔父に何気なく「大学で何かサークルとかやってたの?」と聞いたら
「中国古典文化研究会」
と答えたので「オヤジ、確かコテコテの理系(東京電機大学卒)だったはず…?」と不思議に思っていたのだが、そういうことだったのか!お父さん、私は間違いなくアナタの子です。