生まれながらに両手両足がない先天性四肢切断という
重い障碍を持って生まれた、乙武洋匡(おとたけひろただ)氏(39)。
積極的な生き方で障碍を乗り越え、
「障碍者であることは不便だが、不幸ではない」
という強いメッセージを、
500万部を超すベストセラーとなった
『五体不満足』などの著作で発信してきた。
仁美夫人(37)との間に
長男(8)、次男(5)、長女(1)の3人の子宝を授かった乙武氏は、
自民党から夏の選挙に出馬予定と見られていた。
しかし、『週刊新潮』がスクープで報じた
「五股不倫」が明るみになり、これまで築き上げてきた
「爽やかでクリーン」というイメージが崩壊。
立候補前から政治生命が絶たれるのではないかと見られている。
虚偽の個人イメージ崩壊としては、
「全聾の天才作曲家」の佐村河内守氏や
「高学歴ハーフタレント」のショーンKこと
川上伸一郎氏のケースに類似している。
だが、乙武氏の虚像崩壊は、もっと深刻だ。
「両親や周りの大人が愛情をもって育ててくれたので、
明確な自己肯定感を持てた」
「人生、だいじょうぶ」という壮大な救いの物語が、
彼の口から語られていたのだが、
実は乙武氏は自己肯定感を持っていなかったし、
大丈夫でもなかったのである。
乙武氏は、
自己の障碍を持つ体に対するコンプレックスを補うため、
女性遍歴を重ねたフシがある。
よく自身の一物の大きさや絶倫機能を自慢していたというが、
そんなものは黙っていればよい話だ。
それなりに役に立てば、それでよいのである。
大きさや機能を殊更に言い募るのは、
自分が本当にありのまま認められたという
肯定感の欠如以外、考えられない。
生まれつき四肢を欠く彼は、
下の世話も食事も常に誰かに頼まなければならない存在だ。
実際には、健常者に想像もつかない欠落感があるのだろう。
そんな彼を、世間は好奇の目で観察しつつも、
「自分は障碍者差別をしていない」として彼を持ち上げ、
「差別主義者ではない」アリバイ作りに利用する。
乙武氏も、「自己肯定感」という
世間受けするフィクションをふくらませることで、
そんな偽善者から成る世間を逆利用してきた。
一種の「障碍者ビジネス」である。
乙武氏と関係を持った女性たちも、
「欠損フェチ」やアリバイ作りの動機があったのかもしれない。
結合性双生児で有名な19世紀中葉の
『チャン&エン=ブンカー兄弟』は
それぞれ姉妹の白人女性2人と結婚し、
多くの子供をもうけたが、
兄弟2人が結合していたため(性器は別々にあった)、
それぞれの妻とどのような「グループセックス」を行っていたか、
世間は好奇心を持った。
障碍者である乙武氏の性生活に対する世間の関心は、
それと変わらないレベルだ。
世間と彼の関係性から、
偽善的な「障碍の相互利用」を除くことは難しい。
では、乙武氏がそんな歪んだ世の中で
自己肯定感を持てる可能性はあるか。
彼と社会の関係でひとつ、
偽善が入り込む余地のない、真実なものがある。
それは、3人の子供との関係だ。
子供たちにとって、乙武氏はかけがえのないお父さんだ。
歪んだ同情心でも、欠損フェチでも、
自民党が目論んだ障碍の政治的利用でもなく、
子供にとっては唯一の父親なのである。
その意味で、父親としての乙武氏は欠けがなく、
四肢がなくても唯一無二の完全な存在だ。
その親子の関係にこそ、
彼の欠落感の根本的解決と救いのカギがあるのではないだろうか。
体の不全感は消えなくても、
子に頼られる親としての存在は本物であり、
それが真実の自己肯定感の源になる。
乙武氏が4月に40歳を迎える今からでも遅くはない。
国政出馬などという浮ついた話は絶ち、
これから成長する子供と地道な関係を築き、
虚像ではない満足や自己肯定感を味わってほしいものだ。
岩田太郎(在米ジャーナリスト)
-Japan In-depth 3月25日(金)19時10分配信 -
乙武氏の不倫の是非には触れず
自己の障碍を持つ体に対するコンプレックスに対する
自分と自分以外の心理分析がなされている。
今回はこの記事の内容自体に対し
感想を述べたい。
あながち間違いとは言えない指摘であるのかもしれないが、
読んでいて悲しくなった。
人はそこまで意地の悪さを秘めた生き物なのだろうか?
底意地の悪い興味からしか彼を見る事ができないのか?
乙武氏本人の拭い難いコンプレックスの存在と
その背景の指摘はもしかして
的を得ていたのかもしれないが、
彼と彼を取り巻く人間の心理を分析した結果としては
あまりに悲しい。
乙武氏とその周囲の自分以外の他人との関係が、
指摘された通り、偽善と興味本位だけだったとしたら、
あまりにも傷ましい。
私は「そんなことは無い」と信じたい。
(こんな私の考えも偽善?欺瞞?)
結婚して3人の子供をもうけた仁美夫人は
どんな気持ちで彼と結婚したのだろう?
単なる偽善と売名行為が動機となり
結婚を承諾したとは信じたくない。
仮に、あくまで仮の話だが、
彼女の心の片隅にそんな打算があったとしても、
それだけで結婚までこぎ着け、
子供を作ったりはしないだろう。
結婚の主たる動機は相手に対する
愛情と尊敬と人柄であると私は信じたい。
世間の彼の生き方に対する賛同も
同じく興味本位と偽善に基づくものだけではないと
私は思っている。
彼の著書と、テレビなどのメデイアを通して伝わる
彼の考え方やその前向きな人柄に共感し、
惹かれたからではないのか。
彼の持つ障碍は、確かに社会の好奇な目に晒された。
『そんな彼を、世間は好奇の目で観察しつつも、
「自分は障碍者差別をしていない」として彼を持ち上げ、
「差別主義者ではない」アリバイ作りに利用する。』
そんな人が彼の周囲に本当にいたとしても、
それはごく一部だろう。
いや、そんな人の存在も信じたくはない。
乙武氏の
『「自己肯定感」という
世間受けするフィクションをふくらませることで、
そんな偽善者から成る世間を逆利用してきた。
一種の「障碍者ビジネス」である。』
と云う分析も、少し偏り過ぎてはいないか?
ここまで私の感想を述べてきたが
何度も浮気を繰り返してきた彼を
擁護するつもりはない。
その行為に対する社会からの制裁を受けるのも当然である。
ただし、その背景に対する分析結果には
承服できないということだ。
浮気報道が為されてからの世間の非難と
彼の行為に対する感想をネットで見る限り、
欺瞞とは無縁であると感じているのは
私だけであろうか?
彼の努力と苦しみ、悲しみを
彼の生き方から疑似体験しているからこその
意見であり感想であり、
彼に対する忠告だと私は思っている。
だから彼に対する唯一の
『偽善が入り込む余地のない、真実なもの』
として子供の存在を取り上げているが、
そんなことはない、
一生懸命に生きていれば、
社会はちゃんと応援してくれる健全さを
この国は持っているはずだと
私は声をあげて彼に伝えたい。
肝心なのは自分の意志と努力であることを
改めて認識し直し、再出発を図ってほしい。
何より彼自身と家族のために。
あまり一生懸命努力してきたと自負できなかったが
いつも周囲の人たちに助けられてきたオヤジが一句。
本当は 心の中が 不満足
お粗末。
重い障碍を持って生まれた、乙武洋匡(おとたけひろただ)氏(39)。
積極的な生き方で障碍を乗り越え、
「障碍者であることは不便だが、不幸ではない」
という強いメッセージを、
500万部を超すベストセラーとなった
『五体不満足』などの著作で発信してきた。
仁美夫人(37)との間に
長男(8)、次男(5)、長女(1)の3人の子宝を授かった乙武氏は、
自民党から夏の選挙に出馬予定と見られていた。
しかし、『週刊新潮』がスクープで報じた
「五股不倫」が明るみになり、これまで築き上げてきた
「爽やかでクリーン」というイメージが崩壊。
立候補前から政治生命が絶たれるのではないかと見られている。
虚偽の個人イメージ崩壊としては、
「全聾の天才作曲家」の佐村河内守氏や
「高学歴ハーフタレント」のショーンKこと
川上伸一郎氏のケースに類似している。
だが、乙武氏の虚像崩壊は、もっと深刻だ。
「両親や周りの大人が愛情をもって育ててくれたので、
明確な自己肯定感を持てた」
「人生、だいじょうぶ」という壮大な救いの物語が、
彼の口から語られていたのだが、
実は乙武氏は自己肯定感を持っていなかったし、
大丈夫でもなかったのである。
乙武氏は、
自己の障碍を持つ体に対するコンプレックスを補うため、
女性遍歴を重ねたフシがある。
よく自身の一物の大きさや絶倫機能を自慢していたというが、
そんなものは黙っていればよい話だ。
それなりに役に立てば、それでよいのである。
大きさや機能を殊更に言い募るのは、
自分が本当にありのまま認められたという
肯定感の欠如以外、考えられない。
生まれつき四肢を欠く彼は、
下の世話も食事も常に誰かに頼まなければならない存在だ。
実際には、健常者に想像もつかない欠落感があるのだろう。
そんな彼を、世間は好奇の目で観察しつつも、
「自分は障碍者差別をしていない」として彼を持ち上げ、
「差別主義者ではない」アリバイ作りに利用する。
乙武氏も、「自己肯定感」という
世間受けするフィクションをふくらませることで、
そんな偽善者から成る世間を逆利用してきた。
一種の「障碍者ビジネス」である。
乙武氏と関係を持った女性たちも、
「欠損フェチ」やアリバイ作りの動機があったのかもしれない。
結合性双生児で有名な19世紀中葉の
『チャン&エン=ブンカー兄弟』は
それぞれ姉妹の白人女性2人と結婚し、
多くの子供をもうけたが、
兄弟2人が結合していたため(性器は別々にあった)、
それぞれの妻とどのような「グループセックス」を行っていたか、
世間は好奇心を持った。
障碍者である乙武氏の性生活に対する世間の関心は、
それと変わらないレベルだ。
世間と彼の関係性から、
偽善的な「障碍の相互利用」を除くことは難しい。
では、乙武氏がそんな歪んだ世の中で
自己肯定感を持てる可能性はあるか。
彼と社会の関係でひとつ、
偽善が入り込む余地のない、真実なものがある。
それは、3人の子供との関係だ。
子供たちにとって、乙武氏はかけがえのないお父さんだ。
歪んだ同情心でも、欠損フェチでも、
自民党が目論んだ障碍の政治的利用でもなく、
子供にとっては唯一の父親なのである。
その意味で、父親としての乙武氏は欠けがなく、
四肢がなくても唯一無二の完全な存在だ。
その親子の関係にこそ、
彼の欠落感の根本的解決と救いのカギがあるのではないだろうか。
体の不全感は消えなくても、
子に頼られる親としての存在は本物であり、
それが真実の自己肯定感の源になる。
乙武氏が4月に40歳を迎える今からでも遅くはない。
国政出馬などという浮ついた話は絶ち、
これから成長する子供と地道な関係を築き、
虚像ではない満足や自己肯定感を味わってほしいものだ。
岩田太郎(在米ジャーナリスト)
-Japan In-depth 3月25日(金)19時10分配信 -
乙武氏の不倫の是非には触れず
自己の障碍を持つ体に対するコンプレックスに対する
自分と自分以外の心理分析がなされている。
今回はこの記事の内容自体に対し
感想を述べたい。
あながち間違いとは言えない指摘であるのかもしれないが、
読んでいて悲しくなった。
人はそこまで意地の悪さを秘めた生き物なのだろうか?
底意地の悪い興味からしか彼を見る事ができないのか?
乙武氏本人の拭い難いコンプレックスの存在と
その背景の指摘はもしかして
的を得ていたのかもしれないが、
彼と彼を取り巻く人間の心理を分析した結果としては
あまりに悲しい。
乙武氏とその周囲の自分以外の他人との関係が、
指摘された通り、偽善と興味本位だけだったとしたら、
あまりにも傷ましい。
私は「そんなことは無い」と信じたい。
(こんな私の考えも偽善?欺瞞?)
結婚して3人の子供をもうけた仁美夫人は
どんな気持ちで彼と結婚したのだろう?
単なる偽善と売名行為が動機となり
結婚を承諾したとは信じたくない。
仮に、あくまで仮の話だが、
彼女の心の片隅にそんな打算があったとしても、
それだけで結婚までこぎ着け、
子供を作ったりはしないだろう。
結婚の主たる動機は相手に対する
愛情と尊敬と人柄であると私は信じたい。
世間の彼の生き方に対する賛同も
同じく興味本位と偽善に基づくものだけではないと
私は思っている。
彼の著書と、テレビなどのメデイアを通して伝わる
彼の考え方やその前向きな人柄に共感し、
惹かれたからではないのか。
彼の持つ障碍は、確かに社会の好奇な目に晒された。
『そんな彼を、世間は好奇の目で観察しつつも、
「自分は障碍者差別をしていない」として彼を持ち上げ、
「差別主義者ではない」アリバイ作りに利用する。』
そんな人が彼の周囲に本当にいたとしても、
それはごく一部だろう。
いや、そんな人の存在も信じたくはない。
乙武氏の
『「自己肯定感」という
世間受けするフィクションをふくらませることで、
そんな偽善者から成る世間を逆利用してきた。
一種の「障碍者ビジネス」である。』
と云う分析も、少し偏り過ぎてはいないか?
ここまで私の感想を述べてきたが
何度も浮気を繰り返してきた彼を
擁護するつもりはない。
その行為に対する社会からの制裁を受けるのも当然である。
ただし、その背景に対する分析結果には
承服できないということだ。
浮気報道が為されてからの世間の非難と
彼の行為に対する感想をネットで見る限り、
欺瞞とは無縁であると感じているのは
私だけであろうか?
彼の努力と苦しみ、悲しみを
彼の生き方から疑似体験しているからこその
意見であり感想であり、
彼に対する忠告だと私は思っている。
だから彼に対する唯一の
『偽善が入り込む余地のない、真実なもの』
として子供の存在を取り上げているが、
そんなことはない、
一生懸命に生きていれば、
社会はちゃんと応援してくれる健全さを
この国は持っているはずだと
私は声をあげて彼に伝えたい。
肝心なのは自分の意志と努力であることを
改めて認識し直し、再出発を図ってほしい。
何より彼自身と家族のために。
あまり一生懸命努力してきたと自負できなかったが
いつも周囲の人たちに助けられてきたオヤジが一句。
本当は 心の中が 不満足
お粗末。