日記
ロスト・イン・トランスレーション(米・03)
スタッフ
監督・脚本:ソフィア・コッポラ
音楽プロデューサー:ブライアン・リエトゼル
衣装デザイナー:ナンシー・スタイナー
プロダクション・デザイナー:アン・ロス、K・K・バレット
編集:サラ・フラック
撮影:ランス・アコード
ライン・プロデューサー:カラム・グリーン
アソシエイト・プロデューサー:ミッチ・グレイザー
エグゼクティブ・プロデューサー:フランシス・フォード・コッポラ、フレッド・ロス
プロデューサー:ロス・カッツ、ソフィア・コッポラ
フォーカス・フィーチャーズ提供
アメリカン・ゾエトロープ、エレメンタル・フィルムズ製作
キャスト
ビル・マーレイ
スカーレット・ヨハンソン
ジョバンニ・リビシ
アンナ・ファリス
文浩
品が良く、終わってからすがすがしさが残る。
清涼飲料水のような映画。
しかし各シーンは細やかでシャープな感覚で切り、仕上げられている。
映画館に行っても良かったのではないかと思われる一作品。
会話の身でみせる映画ではなく、二人の表情が見もの。
心情の揺れ動き、二人をとりまく、異空間である日本。
二品の時間的流れは、二人の周りを、二人を置き去りにしてまわり流れる。
それは無意識の意識下における走馬灯のようなカメラアングルで、私個人としては好きな散る方であった。
外国から日本は首を傾げる面白さと、かなり納得し感心する二面性を兼ね備えていた。
哲学的、観念的な、どのようにでもとれる映画で、興味深い。
湾曲された「日本」を見るのは、私にとっては新たな世界の中の日本の発見。
ただ、この映画はセンスと品が良く、海外映画における『藤山芸者』といった低次元な表現法は、一切ない。
むしろ普段私たちが首を傾げたくなる日本人の行動などを、鋭い裁きできっている。そしてこのことに対し、感心させられる方が多かったのも事実である。
日本の表現としてテレビや若者、日本の遊び人など面白いと思った。
中でも、女が小指の痛みを見てもらうために、総合病院にいったときのこと。
待合室で有名な映画俳優であるビルとシャーロットは前列に座っていた。
すぐ横には、神経内科にかかっておられる風の男性と臨席していた。
男は杖を持った患者にひじで合図をして、話始める。
杖の患者は、彼を有名人とはまったく思っていない。
二人はコミュニケーションをとろうとはするものの、英語を知らない患者と日本語を知らない男。
まったく会話にならない。
患者は神経内科の病気のために言葉のイントネーションははおかしいものの、患者の彼なりに一生懸命だ。
その一部始終を耳を澄まして聞きながら、二人のどぎつい化粧をした中途半端な金持ち中年女の見舞い人二人は、域を潜めながらも、露骨にクスクス笑う。
このシーンを観て、字本の福祉的観念の低さを恥じるべきであると、私は恥ずかしい思いをしながら観ていた。
外国からは、日本の弱者に対する対策や民間人の感覚は、このようにとらえられている点は、各自が大きく反省すべきである。
話が通じないのは患者と男に限らず、同時通訳の不親切や病院の受付、果てはコールガールにいたるまで同様で、日本人が一方的に、スローテンポとはいえ、日本語を話す。
ゆっくり話しても、相手には通じていないことをわかりながら、半ば強引に。
ところが患者はどうだろう・・・
知らない英語を次々と身振り手振れで通じさせようと努力し、果てには男の方が、
「 おぉ~ミュージック♪」
といって、患者の言葉をハミングにしてしまう。
素晴らしい。
コッポラ監督の女性的な感性が生きている。
しかしながら・・・
二人の中年女は、厚化粧な日々が入らんばかりに、笑い続ける・・・・
日本に滞在中の二人のアメリカ人、ビルとシャーロットの現実的夫婦問題と孤独を描いた作品。
少しなを潜めた、ハリウッド・スターのビルは、CM撮影のために来日中。
撮影現場でのやりとり―使えない通訳、意味の通じない英語。
脳もなさそうな、偉そうなカメラマン。
そんな中で身の置き場に困るビル―だったり、ホテルの自室でぼんやりとテレビを見たりしている姿には、どこにもスターらしくはなく、普通の一個の人間であり、男であった。
ただ、日本に来てもそうだが、家庭に帰っても同様。
妻はアメリカから時差も考えずに明け方の四時頃に、平然と電話をかけてきたり、儒ータンの入りはどれにするかなど、小包まで送って来る。
まるで夫は日本に遊びに言ったような錯覚を持っているように、自分勝手な二十五年の夫婦生活なのだ。
哀愁漂う中年男之居場所のない、居心地の悪さが前面ににじみでている。
一方、新妻のシャーロットはカメラマンの夫ジョンの来日についてきた。
夫は仕事が忙しく、満足にかまってもらえない。
一人で出歩くにも言葉が通じないため、シアンばかりで行動が取れない。
シャーロットは華道教室にふと入り、意味もわからず花を生ける。
京都で偶然見かけた結婚式の様子は、外国人らしい見方。
構図や色のコントラストやシャーロットが見せる表情は洒落ていて、息を飲むほどの美しさがあった。
私が一番印象深かったのは、ラスト。
男はこれからホテルを出るという。
理由をつけて女之部屋に電話。
女はロビーに降りて来た。
日本の仕事の関係者が集まる中、二人は互いに駆け寄るが、思うように話すこともままならない。
一致奇の逢瀬を阻まれ、男は関係者の元に戻るが、悲しみをこらえて出て行く彼女の方ばかりを見つめている。
本当の別れだ・・・
男はタクシーに後、空港へと向かう。
途中で信号待つち。
ふと見ると小道の雑踏に毛行く彼女を発見。
彼はタクシーに、
「少し、ここで待っていてくれ。」
という言葉を残し、彼女を追いかける。
不利澪た彼女の目のまわりは真っ赤で、深い悲しみに襲われていたことが読み取れる。
彼は道の真ん中で、誰にはばかる頃もなく彼女を抱きしめ、キスをする。
「今度こそ、お別れだ。」
彼女の思いは満たされ、目には光が差していた。
END
8 BSフジ にて
ロスト・イン・トランスレーション(米・03)
スタッフ
監督・脚本:ソフィア・コッポラ
音楽プロデューサー:ブライアン・リエトゼル
衣装デザイナー:ナンシー・スタイナー
プロダクション・デザイナー:アン・ロス、K・K・バレット
編集:サラ・フラック
撮影:ランス・アコード
ライン・プロデューサー:カラム・グリーン
アソシエイト・プロデューサー:ミッチ・グレイザー
エグゼクティブ・プロデューサー:フランシス・フォード・コッポラ、フレッド・ロス
プロデューサー:ロス・カッツ、ソフィア・コッポラ
フォーカス・フィーチャーズ提供
アメリカン・ゾエトロープ、エレメンタル・フィルムズ製作
キャスト
ビル・マーレイ
スカーレット・ヨハンソン
ジョバンニ・リビシ
アンナ・ファリス
文浩
品が良く、終わってからすがすがしさが残る。
清涼飲料水のような映画。
しかし各シーンは細やかでシャープな感覚で切り、仕上げられている。
映画館に行っても良かったのではないかと思われる一作品。
会話の身でみせる映画ではなく、二人の表情が見もの。
心情の揺れ動き、二人をとりまく、異空間である日本。
二品の時間的流れは、二人の周りを、二人を置き去りにしてまわり流れる。
それは無意識の意識下における走馬灯のようなカメラアングルで、私個人としては好きな散る方であった。
外国から日本は首を傾げる面白さと、かなり納得し感心する二面性を兼ね備えていた。
哲学的、観念的な、どのようにでもとれる映画で、興味深い。
湾曲された「日本」を見るのは、私にとっては新たな世界の中の日本の発見。
ただ、この映画はセンスと品が良く、海外映画における『藤山芸者』といった低次元な表現法は、一切ない。
むしろ普段私たちが首を傾げたくなる日本人の行動などを、鋭い裁きできっている。そしてこのことに対し、感心させられる方が多かったのも事実である。
日本の表現としてテレビや若者、日本の遊び人など面白いと思った。
中でも、女が小指の痛みを見てもらうために、総合病院にいったときのこと。
待合室で有名な映画俳優であるビルとシャーロットは前列に座っていた。
すぐ横には、神経内科にかかっておられる風の男性と臨席していた。
男は杖を持った患者にひじで合図をして、話始める。
杖の患者は、彼を有名人とはまったく思っていない。
二人はコミュニケーションをとろうとはするものの、英語を知らない患者と日本語を知らない男。
まったく会話にならない。
患者は神経内科の病気のために言葉のイントネーションははおかしいものの、患者の彼なりに一生懸命だ。
その一部始終を耳を澄まして聞きながら、二人のどぎつい化粧をした中途半端な金持ち中年女の見舞い人二人は、域を潜めながらも、露骨にクスクス笑う。
このシーンを観て、字本の福祉的観念の低さを恥じるべきであると、私は恥ずかしい思いをしながら観ていた。
外国からは、日本の弱者に対する対策や民間人の感覚は、このようにとらえられている点は、各自が大きく反省すべきである。
話が通じないのは患者と男に限らず、同時通訳の不親切や病院の受付、果てはコールガールにいたるまで同様で、日本人が一方的に、スローテンポとはいえ、日本語を話す。
ゆっくり話しても、相手には通じていないことをわかりながら、半ば強引に。
ところが患者はどうだろう・・・
知らない英語を次々と身振り手振れで通じさせようと努力し、果てには男の方が、
「 おぉ~ミュージック♪」
といって、患者の言葉をハミングにしてしまう。
素晴らしい。
コッポラ監督の女性的な感性が生きている。
しかしながら・・・
二人の中年女は、厚化粧な日々が入らんばかりに、笑い続ける・・・・
日本に滞在中の二人のアメリカ人、ビルとシャーロットの現実的夫婦問題と孤独を描いた作品。
少しなを潜めた、ハリウッド・スターのビルは、CM撮影のために来日中。
撮影現場でのやりとり―使えない通訳、意味の通じない英語。
脳もなさそうな、偉そうなカメラマン。
そんな中で身の置き場に困るビル―だったり、ホテルの自室でぼんやりとテレビを見たりしている姿には、どこにもスターらしくはなく、普通の一個の人間であり、男であった。
ただ、日本に来てもそうだが、家庭に帰っても同様。
妻はアメリカから時差も考えずに明け方の四時頃に、平然と電話をかけてきたり、儒ータンの入りはどれにするかなど、小包まで送って来る。
まるで夫は日本に遊びに言ったような錯覚を持っているように、自分勝手な二十五年の夫婦生活なのだ。
哀愁漂う中年男之居場所のない、居心地の悪さが前面ににじみでている。
一方、新妻のシャーロットはカメラマンの夫ジョンの来日についてきた。
夫は仕事が忙しく、満足にかまってもらえない。
一人で出歩くにも言葉が通じないため、シアンばかりで行動が取れない。
シャーロットは華道教室にふと入り、意味もわからず花を生ける。
京都で偶然見かけた結婚式の様子は、外国人らしい見方。
構図や色のコントラストやシャーロットが見せる表情は洒落ていて、息を飲むほどの美しさがあった。
私が一番印象深かったのは、ラスト。
男はこれからホテルを出るという。
理由をつけて女之部屋に電話。
女はロビーに降りて来た。
日本の仕事の関係者が集まる中、二人は互いに駆け寄るが、思うように話すこともままならない。
一致奇の逢瀬を阻まれ、男は関係者の元に戻るが、悲しみをこらえて出て行く彼女の方ばかりを見つめている。
本当の別れだ・・・
男はタクシーに後、空港へと向かう。
途中で信号待つち。
ふと見ると小道の雑踏に毛行く彼女を発見。
彼はタクシーに、
「少し、ここで待っていてくれ。」
という言葉を残し、彼女を追いかける。
不利澪た彼女の目のまわりは真っ赤で、深い悲しみに襲われていたことが読み取れる。
彼は道の真ん中で、誰にはばかる頃もなく彼女を抱きしめ、キスをする。
「今度こそ、お別れだ。」
彼女の思いは満たされ、目には光が差していた。
END
8 BSフジ にて