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乱鳥の書きなぐり

ナツノヨノユメ

今回は辛口でごめんなさい。
好き勝手に独断で書き込んでおりますので、間違いやお気づきの点がありましたら、お教えください。


  
       『NARU no YO no yume』感想

                 

      



『ナツノヨノユメ』  シェークスピア 原作
         小池竹美    脚色
         加納幸和 脚色・演出

         ショウロク 村井國男 菅野菜保之 ハナ組他







 久しぶりにお芝居に行きました。

 この日は『ナツノヨノユメ』とあって、花道は当たり前のごとく影を潜めている。

 シェークスピアの原作とあって、心なしか教育熱心な親子の姿も多い。

 だが、加納幸和の脚色・演出であるこの芝居は、原作からは大きくかけ離れていた。

 みたい芝居とは大きくかけ離れ、芝居知らずの私の期待を見事なまでに裏切ってくれた一作品である。



 ショウチクにおける『ナツノヨノユメ』はエロ表現が露骨であった。

 もちろん、表現の自由。

 演劇界においてエロス表現は切っても切れないことは承知している。

 高尚な芸術だと皆が思っている様な演劇等においても、婉曲な表現や露骨な表現を交えて演じられていつのは、観客側も楽しい。

 以前千之丞演じる狂言会で『起き上がりこぼし』を見せて頂いたことがある。
千之丞さんは、
「さぁ、皆さんもごいっしょに~~」
と、にこやかに会場に降りてこられた。

 その会場は親子劇場の母親だけを対称にしたものであったが、みんながいっせいに千之丞さんに続いた。

 お母さん方は声をそろえて、
「京に京に流行る~~、起き上がりこぼうしやあゥ~~、合点か~、合点だ~~、合点、合点合点だぁ~~」
と合唱し始めたからたまらない。
 
 内容を把握した人間は顔を紅くしながら、まわりを見渡し、千之丞さんとお母さんたちの顔を見比べていた。

 千之丞さんのあの時の悦に浸った、かわいらしいいたずら顔は、今でもはっきりと覚えている。

 あの時の千之丞センスのエロは見事な成功例といえよう。



 何がいいたいのかというと、エロにはエロの必要性とセンスといたずら心と、最後に抜け道が必要だということである。

 芝居知らずの私においては、シェークスピアを観に行ってまで、露骨なエロを必要とはしていない。
 


 一番驚いたのは、女王にのろい(魔の花の汁)をかけて、一番初めに見たものを愛するといった場面。

 女王がおきて最初に見たものは、醜いがまであった。

 女王は麻痺うにかけられたとおりに、その醜きモノを愛することとなる。

 愛?

 言葉が美しすぎる。

 とにかくやる、やりまくる。

 お付の者どもの前で、
「あぁあぁあ~~~」
ともだえ、がまは女王にまたがり除夜の鐘状態。



 ZUDO~~N!

 お付の者ども曰く、
付き人たち:「ひと~~~つ!」
女王   :「あぁあぁあ~~~」


 ZUDO~~N!

      「ふたぁあ~~つ!」
      「あぁあぁあ~~~」

 ZUDO~~N!

      「みっつぅう~~!」
      「あぁあぁあ~~~」

 舞台はいかがわしく回りながら、全部で十一つき。
マイケルトミオカの腰の大きな動かし方は、品位にかける。


 この調子で舞台は進行するのであるから、水色のワンピースを着て、シェークスピアにつれてもらったっ小学生低学年の女の子はたまったものではない。

 どうしてもこういう表現をとりたいのであれば、『12k』なり、せめて『9k』なりの表示をするのが親切というものではないだろうか・・・。



 シェークスピアはもともとは祝典劇であり、軽やかさが必要である。

 この点において私は今回の芝居に疑問を覚える。

 膨らまして欲しい場面はさらっと流され、間延びしたダジャレや冗談揚げ足の繰り返しで時間を引き延ばしていたように思われる。

 通常繰り返しのパターンは三回であることが多く、その点では問題ない。

 ただスローテンポで粘っこい。



 佐藤エリコは背が高く足が長いことを強調。

 保田圭の背の低さや足の短さを、本人たちやまわりの男たちが強調する。

 なんとも聞き苦しい。


 
 これではショウチク座ではなく、隣の劇場に足を運んだ方が、子どもに安心してみせられる分だけ良いのではないだろうか。


 また、舞台が『夏』を表現仕切れていなかったのは誠に残念としかいいようがない。

 ライトや舞台、大道具などどれをとってもアナログ的で、今の時代にはかえって斬新な感じはしたものの、それを生かせられるだけの役者た血とはいいがたい。

 役者たちは踊りですらぴたっと合わずに、みている側はジレンマを感じる。

 みんなが違ったおどりだということを行っているのではない。

 別々の踊りであったとしても、統一感は必要である。

 みんながアップテンポでステップを踏んでいる中、佐藤eri子はまるで自分のステップに酔いしれているかのように、ゆっくりと上手さを強調していたのが、鼻につく。


 先ほど出てきた円形の舞台は、品のなさを引きずったまま右に回り続ける。

 時の流れのなかの ほんの夏の一夜、一コマの出来事に過ぎないことを現しているつもりであろうか・・・あまりにも単純であった。


 アジアンブームのさなか、東南アジアや京劇、灰色(石)の鳥居、果てはバッセーラ(?)までを思わせ、なんだかイメージの寄せ集めにすら感じる。

 また役者陣も集客を踏まえたバラエティに富んだ人材ではあったが、思いのほか女優目当ての男性は少ない。

 まわりを見渡すと、オノエショウロク目当ての芝居好きの男性が多かった。



 収集のつきにくい舞台において、ショウロク一人七五調で声も通り、演技においても見ごたえがあった。

 彼の台詞は群を抜いてリズム感があり、心地よく心に響いた。

 なかには細切れ、尻上がりの台詞の役者も何人か目につき、芝居が途切れる。

 素人芝居に迷い込んだ感が拭い去れない。


 ただ・・・

 パック役でまずはじめにイメージするのは、ジェラール・フィリップ。

 日本人ならば、藤原達也・・・といったところであろうか。

 惜しいことにあの演技の上手い松録サンの顔の表情は硬く、パック役にしては軽やかさと笑いが少なく思えた。

 ショウロクさんのこの舞台においての日々の苦悩が伺えるように感じたのは、私だけでしょうか。



 喜劇はその場で発散させて後に残らないというのがベストといったご意見があるのは知っているが、悪い意味で・・・・・。

 観ている時は楽しいのだが後に何も残らなかった。

 むしろ一万円以上の大枚を複数枚どぶにそ手たという口惜しさが、あとをひく。

 演劇を観てこんな屈辱は初めて味た。

 これもまた授業料。



 最後に、私はまったくの芝居の知らない人間のために独断と偏見により、好き勝手に自分個人の感想を述べています。

 人によっては感じ方も違われ、非常に不愉快な思いをなっさった方もいられるかもしれません。

 未熟者ゆえ間違いだらけの陳腐な感想をお許しくだされば、幸いに存じます。


 これから『ナツノヨノユメ』を観劇しようか迷っておられるか方はどうぞ劇場に足をお運びになってください。

 そして私の力量ではわかりづらかった演出や舞台の良いところを 教えていただきますように、よろしくお願いいたします。


 最後に、ショウロクさんはやっぱり魅力的であった。
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