乱鳥の書きなぐり

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田沼意次について

2025-01-12 | ことのは

 

 田沼意次について

 

 2019年に本を読み記録していたので、再びここに記録しておきたい。

 

   田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水
          

   白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき

        

『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次と失脚」   田沼意次について

 

 

以下のデーターはウィキペディアより
『江戸時代の古文書を読む 田沼時代』「田沼意次と失脚」 関係として

 田沼 意次(たぬま おきつぐ)
 田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。
 遠江相良藩の初代藩主である。
 相良藩田沼家初代。



 出生
 享保4年(1719年)7月27日、紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。
 幼名は龍助。
 父・意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。
 吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ[1][要ページ番号]。
 父・意行は息子を授かるために七面大明神に帰依し、そして意次が生まれた。そのため意次は七面大明神に感謝し、家紋を七曜星に変更したといわれている。


 相良藩主時代
 元文2年(1737年)、従五位下・主殿頭になり、延享2年(1745年)には家重の将軍就任に伴って本丸に仕える。
 寛延元年(1748年)に1400石を加増され、宝暦5年(1755年)にはさらに3000石を加増され、その後家重によって宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた。
 宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も、世子の第10代将軍徳川家治の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)にはさらに御側御用取次から板倉勝清の後任として側用人へと出世し、5000石の加増を受けた。
 さらに従四位下に進み2万石の相良城主となって、明和6年(1769年)には侍従にあがり老中格になる。
 安永元年(1772年)、相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増でわずか600石の旗本から5万7000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。
 順次加増されたため、この5万7000石の内訳は遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡にわたり、東海道から畿内にまたがる分散知行となった。


 田沼時代
 この頃より老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。
 悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する、などの政策を実施した。
 その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。
 しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行した。

 また、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。印旛沼運河工事の失敗や明和の大火・浅間山の大噴火などの災害の勃発、疲弊した農村部に天明の飢饉と呼ばれる食糧難や疫病が生じた。
 意次は対策を打ち出すが、失敗して逆に事態を悪化させた。
 その中にあって、財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていった。

 このような世相の中、それらが元による都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていく。

 外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方においてロシア帝国との貿易も行おうとしていたほか、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4年(1784年)に意次の世子のまま若年寄を勤めていた田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺されたことを契機とし、権勢が衰え始める。

 天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去した。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格した。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。

 その後、意次は蟄居を命じられ、2度目の減封を受ける。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。
 長男の意知はすでに暗殺され、他の3人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった[注 2]。

 その2年後にあたる天明8年(1788年)6月24日、江戸で死去した。享年70。





     
          田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水
          白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき
 



官途[編集]
享保19年(1734年) - 徳川家重の小姓となる。
元文2年(1737年) - 従五位下主殿頭に叙任。
延享4年(1747年) - 小姓組番頭格。
寛延元年(1748年)閏10月1日 - 小姓組番頭、奥勤兼務に異動。石高1400石加増。それまでは、小姓組番頭格奥勤。
宝暦元年(1751年)4月18日 - 御側御用取次側衆に異動。
宝暦5年(1755年) - 石高3000石加増。知行合計5000石になる。
宝暦8年(1758年) - 石高5000石加増。1万石の大名となる。評定所への出席を命じられ、美濃郡上一揆の審理に当たる。遠江相良に領地を与えられる。
宝暦10年(1760年) - 9代家重引退し、家治10代となる。意次御用取次留任。
宝暦12年(1762年) - 石高5000石加増され、合計1万5000石となる。
明和4年(1767年)7月1日 - 側用人に異動。従四位下に昇叙。石高5000石加増、合計2万石。遠江国相良2万石の領主となる。
明和6年(1769年)8月18日 - 老中格に異動し、側用人兼務。侍従兼任。石高5000石加増。
明和9年(1772年)1月15日 - 老中に異動。石高5000石加増、合計3万石。11月18日、安永元年。この年諸国で凶作。
安永3年(1774年)8月 - 杉田玄白ら『解体新書』刊行。
安永6年(1777年)4月21日 - 石高7000石加増。
天明元年(1781年)4月2日 - 元年。7月15日、石高1万石加増。合計4万7000石。12月15日、意知、奏者番になる。
天明5年(1785年)1月21日 - 石高1万石加増。合計石高5万7000石となる。
天明6年(1786年)8月27日 - 老中依願御役御免。石高2万石召上げ。雁之間詰。
天明7年(1787年)10月2日 - 石高3万7000石召上げ。蟄居となる。

 
 


 『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』

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