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博士の愛した数式 ルート先生

2006-01-24 17:12:00 | カッチイ’s ジャーナル

「博士の愛した数式」については、昨日の23日のブログで、その作品を語ったが、ここでは、ルート先生について語りたい。
                  
カッチイも、教壇に立つ経験があるので、先生サイドの視点から、このルート先生を見てしまったところがある。授業を進めるルート先生は、「教師のあらまほしき姿」の理想である。
                  
映画を見た観客から、「ルート先生に習えば、数学が好きになったのに。」とか「ルート先生に教えてもらいたい」という感想が、公式サイトや映画関係のサイトの書き込みとして、圧倒的に寄せらてれいる。
                  
この授業のシーンは、小泉監督によると(キネマ旬報 2月上旬号)リハーサルを念入りにしたところであるという。「授業で扱う数式などマテリアルを研究し、生徒役をオーディションで決めて、助監督に先生をやってもらって授業の進め方を吉岡さんに見てもらう。それから吉岡さんに入ってもらって、生徒と一緒に何度かリハーサルをするというやり方をした」ということだ。
                  
ピンとはねた寝癖がかわいい吉岡ルートは、実年齢より、うんと若く見える。博士と母と過ごした話を語りながら、きっちり今日教えようと思っている数式の説明の段取りは、頭のなかにピシッと入っている。
                  
黒板に書く事項を、「板書」と言うが、授業で伝えたいエッセンスでないといけない。教師としては板書している間は、説明もできず、学生は、書いたしりから、写そうとするから、板書は、できるだけ簡潔なものでなくてはいけない。学生の頭のなかに素通りで、学生が、板書を単に「写しているだけ」の授業になることは、最も避けねばならない。
ルート先生が、数式を書く場所、順番、内容は、計算しつくされている。書き進めながら、授業が終わったとき、緑の黒板に、提示したい世界が残っているという具合だ。
                  
彼の声、トーン、学生に投げかける視線とその動きは、プレゼンテーションをする者は、見習うべきだろう。どうすれば、学生に、自分の伝えたいことが、伝わるのかを、熟知している。
                  
映像は、学生の姿は、後姿しか写さないのだが、学生の先生の説明に、無邪気に反応する声が響く。ルート先生が上手いのは、その学生の反応を受け止める時で、カッチイ自身が、一番うなったところだ。
                  
実は、教壇に立つものは、学生から質問や、反応が飛びかうとき、内心、一番オタオタする(笑) 突然投げかけられたボールを、しっかりキャッチして、返さねばならない瞬間だ。一方的に、こちらが言いたいことを聞かせようとしているならば、そういう瞬間は、狼狽するしかない。
                  
学生の反応に、感謝して、ボールを投げ返し、そのボールが、学生のグローブに受け止められる音を確認できるのが、理想の教師だ。だいたい、それは、学生の目が、どれだけ輝いているかでわかる。ルート先生は、手ごたえを確かめながら、ユーモアを持って、生き生きと授業を進行させていく。
                  
オイラーの公式は、指数関数と三角関数を結びつける数式だそうだが、ルート先生は、今日のところはと大事な結論だけと、授業で刈り取るべきところもさりげない。

10を知っていても、1しかあえて、言わないことも大切なのだ。これができる教師は、案外少ない。往々にして、はりきって、学生の受け止める容量を越えて、延々と説明してしまう。それは学生に、混乱と不安を与えてしまうだけなのだ。今の段階で、相手が、どれだけ受け止められるかを考え、10のうち1を伝えるか、2まで伝えるか、冷静な判断がなくてはならない。が、もちろん、質問されて請われれば、10まで説明できる力は、持っていなくてはいけない。

そして、学生には伝えないといけない重要なひとつは、先生が、楽しげに授業をしている姿勢自体だ。
ルート先生が、どれだけ数学を面白いと思っているか、博士がどれだけ好きなのかということを、学生には、しっかりと届いた。だから、「先生、ありがとう」という言葉が、学生から投げかけられるのだ。
                  
これには、じーんと来た。でも、本音を言えば、現場の教壇に立っている者として、無力感にもさいなまれた。既存の学校組織と、私自身の度量に、欠落しているものを感じずにはいられなかった。
                  
ルート先生の吉岡秀隆のパートは、映画製作の初めの部分で撮影されたという。吉岡秀隆自身は、博士の演技を見ているわけではなかったが、寺尾聰が博士を演じることを念頭において、作品全体がよくなるために、自分のパートを演じた。小泉監督にとって、この部分の撮影が無事終わり、この映画は、うまくゆくという安心感を持ったという。
                  
博士と成長したルート先生が、一緒に登場するのは、唯一、最後の博士とのキャッチボールのシーンだ。昨日のブログにも書いたが、あのとき、ルート先生が、その前に、頭をたれて、お辞儀をする姿には、感動した。あの時点の博士は、ますます記憶障害が進み、病院に入院しているのを、ルート母子が、博士を訪ねていくという設定のところだ。
                
はっきりと描いていないが、子供のときと同じように、ルートの頭をくしゃくしゃにしてなでる博士には、成長したルートを、どれだけ認識できているのか、わからない状態だったのだろうと思う。しかし、ルートがしたことは、お辞儀だった。ドイツ人だったら、目を見て、握手するところだろうが、日本人の美しい所作に、不覚にも涙がこぼれた。教えられた者が 尽くせることは、感謝にほかならない。
                  
William Blake ウィリアムブレイク(1757-1827)の詩が、小泉監督の訳で、掲げられる。 映画で、この詩を出すのは、ちょっと蛇足かなと思ったが、小泉監督の審美眼には、この詩は、この映画の世界観を、如実にあらわしているのだろう。最初のところだけ、カッチイも試訳しておこう。
                  
Auguries of Innocence 無垢のまえぶれ

To see a World in a Grain of Sand

And a Heaven in a Wild Flower,

Hold Infinity in the palm of your hand

And Eternity in an hour
                  
一粒の砂にも世界を
一輪の野の花にも、天国を見る。

君の手のひらに無限を
ひと時の中に、永遠を握ってごらん。
                   


博士の愛した数式 原作本

2006-01-24 16:00:00 | カッチイな本棚
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「博士の愛した数式」にはまってるんで(笑)、今度は原作について。

寺尾聰が主演で、吉岡くんも出るし、監督が、小泉堯史(たかし)が、メガホンを取る。ウハハ(笑)原作があるなら、ぜひ原作をと、映画が封切られる前に、小川洋子氏の「博士を愛した数式」を読んだ。初めて、この作家の本に触れた。

数学を、小説のなかに、取り入れたという着想に、まず乾杯!それをルート母子に伝える記憶が80分しか続かないという天才数学者というキャラクターを作り上げた小説家のイマジネーションに脱帽!

博士には、記憶が80分しか続かないという破綻を与えたのは、必然だった気がする。ちょっと現実離れしている寓話的な人物だからこそ、無垢でいられるのだ。

この浮世離れした数学者のもとに、家政婦母子が、入ってくる。3人をつなぐものに、数学と阪神タイガースを配して、この小説の図式が結ばれる。

原作では、シングルマザーという選択をし、家政婦をしながら子育てをする杏子の目から描かれているが、数学者に対して、淡い恋愛感情が揺れているようであっても、それ以上は踏み込まないように律している。

これも、現実世界では、ありえないのでないか?と思うのだが、息子のルートを抱擁してくれる博士を見ているだけで、彼女は、幸せだというところに留めている。博士の離れでの3人が、暖かな絆を育んでいくのは、擬似家族のようであるが、純粋であるためには、杏子と博士が、生臭く近づく関係あってはならないのだ。

それでは、彼女も、メルヘンのような存在であるかというとそうでなく、彼女の日常を短いが効果的に叙述して、リアリティを与えている

たとえば、博士のところを、問答無用でクビになって、新しい雇用者に振り回される日々、ルートと二人で阪神タイガースの試合を見て、ためいきをついたこと。彼女が、仕事に向かう停留所で、見知らぬ女に金をとられたアクシデント。母の命日に、墓参りをして、子鹿の死骸をルートと見たこと。ルートの父親が、技術研究賞を受賞した新聞記事を見つけたこと。これらの一連のエピソードが、リズム感をもって描写される。

そこから、彼女が、博士が彼女の靴のサイズが24と聞いて「実に潔い数字だ」と誉めたように、りんとして孤独を引き受ける女性であることが読み取れる。

そんな母親に育てられているからか、息子のルートは、実に素直で、思いやりがある。母親がつらいめにあったとき、「ママは美人だから大丈夫だよ」と慰めてくれる。

「キネマ旬報 2月上旬号」に、「原作者 小川洋子について」によると、翻訳された作品も多く、特に欧州で広く知られているということだ。記事の筆者は、「選びぬかれた日本語により紡ぎだされた彼女独特の美しい筆致が、海外にどの程度忠実に伝わっているのか、気になるところではある。」というが、海外の翻訳者が、彼女の作品を取り上げたくなる気持ちはわかる気がする。

「孤高」「潔い」「精明」「安心」など、美しい響きの日本語は、漢字とともに表されるが、ひとつの完成された概念であるので、良い翻訳者にあたれば、意図するところを、間違えることなく翻訳されるのではないかと思うのだ。小川洋子氏の文体は、簡潔で、文章の連なりのなかに、無理のない論理性があるので、多分、ドイツ語にも訳しやすいだろうと思う。

作品から見えてくるのは、煩雑で面倒な毎日の暮らしのなかで見失いがちな大切なものを教えてくれる。それは、どんなに世の中が騒がしくても、数式のように清らかに存在する真理であり、時を超越して普遍的なもの。「Universal」と言い換えられるものだろうと思う。