佐藤首相訪米阻止闘争(さとうしゅしょうほうべいそしとうそう)は、1969年11月16日 - 17日に行われた新左翼による闘争・事件。近代日本史上最大の2500人超の逮捕者を出し、1967年から続いた学生運動・新左翼運動の高揚に一つの終止符を打った。
出来る事、出来ないこと。
軍事的と謂うより、文化的な属国にする。
ものは
言い様だが、日本の学生運動が。米国の若者の政治意識を変えて、反戦機運を激しく燃え上がらせた。モハメドアリの徴兵拒否の事もあり。結果として、米国の徴兵制度は、無くなった。米国は国民軍を失って。アフガニスタンの村などでの結婚式に、銃撃を加える。その様な、ヤクザな軍隊 『らしきもの』 を持つだけの、半端な国と為り果てた。
しかし、米穀軍産は目も眩むような、天文学的な数字の、軍事予算を盗んでいる。
アメリカ民主党のバイデン大統領は、この米穀DS の要請に応えて。ウクライナ戦争を起こし。結局は敗戦である。ベトナムで負けた。此処で止めておけば良かった。9.11を起こして、今度はアフガニスタンや、中東に攻め込んだ。
しかし、今度は 米国内の良心的な市民の、反戦意識に負けて、アフガニスタンからの撤退である。ユダヤ・マスコミは、この撤退の意味を報じない。ならば、多くを想像しなければ、『何故こうなったのか。』それが判らない。病院を爆撃するなど、現地軍は気違いのヤクザその者であった。
三島 由紀夫氏は、1970年11月25日(45歳没)に割腹して果てた。
昭和45年(1970年) 儂が大学3年の時であり。 佐藤首相訪米阻止闘争は、1969年であり、儂も蒲田から過激派のあるセクトの、数千人と共に羽田に向かった。残念なことだが、我らは羽田空港に辿り着けなかった。
まあ、出来る事と 出来ぬことがある。
三島氏は、その学生運動の 一定の 挫折の。1年後に、自衛隊に決起を促して、自決した。儂は今、75歳であり。当時の儂は、22歳であった。
あれから、53年も経ってしまった。
自衛隊は決起しなかつたが。
自衛隊には、敵地攻撃力を持たせると。安倍晋三氏が決めた。ガザ地区の悲劇は、パレスチナが自衛の軍隊を持てなかったことにある。
何度かの軍事衝突があり、ガザ地区はパレスチナ人の、住む場所とされた。其れは米国などの国民が、パレスチナ侵略を許さないという良識があったから。イスラエルのパレスチナ侵攻を許す米国大統領はも選挙で勝てない。そして、今回も バイデン米穀大統領は、選挙で勝てない。というか、民主党の大統領候補にも、成れない 可能性が濃い。
ロシアをユダヤ資本主義の、植民地にせんとする。バイデン氏の思惑は、見事に 外れた。
そして、ガザでホロコーストを敢行した。ネタニヤフは、米国の権威を失墜させて、アメリカを世界の孤児にした。
何故に岸田氏の、人望が無いのか。
ホロコーストを敢行させるような、ヨイヨイの惚け老人 バイデン氏を支持しているから。
5% いや 3% の反対でも、表明できていれば。
彼の評価も変わっていただろう。
質的には、日本の科学工業力は、ダントツ 世界一である。その工業力が世界一の国の宰相としての。自覚も無いし、能力も無い。
日本は米国の植民地では無い。
米国には、世界を指揮する。倫理が無い。ならば、日本こそが世界の指揮を執る。まあ、今般の政治家諸氏は、安倍氏の暗殺に遭遇してしまった。まあ、見事なほど、ビビッている。
まあ、死線を越えてみなければ、真の実力は。
発揮できない。
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