昭和八年生まれの伯父が俺が第1回卒業生だと言っていた。
昭和4年生まれの父の学歴は那間尋常高等小学校、
その後群馬県の軍需工場に同窓生と働きに行ったときいた。
食事がまずかったこと、いじめにあったなどで、
母が病気だと電報を打ってもらって逃げるようにして帰ったらしい。
親の反対を押しての同窓生との行動だときいたが、挫折したようである。
東京、大阪を経由して、親戚の家を頼って、
福岡県大牟田市の炭鉱町で一年あまり過ごしたようである。
町誌をしらべてみたら、昭和29年に与論中学に鉄筋校舎ができたとある。
私が入学した時にも新しい校舎、特別室(理科や技術う家庭等)ができ、
担任が美術の教師だったせいだろうか、
1年3組だけが新校舎の二階の教室だったように記憶している。
同窓会になると、
担任の先生のことが話題になって、
今だったら体罰で辞めさせられるようなことが、
それぞれの思い出として語られる。
昨日の植樹後の懇親会で、
小学生のころの体罰に会った話がでて大笑いをしてしまった。
私は体罰の記憶はないが、
出席簿で頭を叩かれたこと、
遠足の日に遅刻をして軽い拳骨を食らった、
A先生の思いでを語った。
A先生は与論島出身で、英語と美術の教員だった。
母が先生より一級先輩だったらしく、甘えたのか、、
家庭訪問には酔っぱらって最後に来た。
画が下手な私に優秀点を付けてくれたのは、
ひょっとしてえこひいきだったかもしれない。
宿直などもいっしょにつき合わされ、
今思うと、
その間に先生は酒飲みに行っていたようだ。
中学の敷地内に 誠の碑を造ったのが先生の思い出として蘇る。
全校生徒を使って、
ハキビナ海岸から石を運ばせて造ったものだ。
庭づくりに興味を持ったのは、
多分先生の影響だろう。
昨日、
学校の敷地内に植樹をさせてもいらいながら
私の記念樹(町誌追録編集)として
パンノキを植えさせてもらった。
与論町誌の事務局をA先生が担当していた記念にも、
私の心に刻んでおきたいから・・・。