小さなため息がまじり、慎吾はポケットの煙草をひっぱりだす。
「そろそろ、底をつく。貴重品だ」
苦笑でため息をかみころして、煙草に火をつける。
「俺な・・。元々、行き詰まりを感じたのは、お前のせいなんだよな」
意外な告白に、私もまた煙草をとりだした。
慎吾の様子があまりにも、殊勝にみえた。
いつも自信たっぷりの慎吾がやけにはかなげにみえ、
私もしらふで話をきけそうになかったが、さすがに酒はない。
酒の代わりの煙草で、妙な気配をかわしながら、
慎吾が先をしゃべりだすのを待つことにした。
「なんだよ?食ってかかってこないのかよ?」
慎吾は私をからかいながら、自分が満身創痍をさらけだしてるとしっかり自覚させられてもいた。
「俺な。おまえを超えることもできない男なのかとおもってさ」
慎吾は此処で微妙に言葉を選んだ。
超えることのできない「カメラマン」でなく、「男」だといいあらわした。
「お前は、女目線とか、そんな風にいうけどな、そんなものを超越してるってことにきがついてないんだよな。なんていうのかな、人生ごとカメラに収めてしまう。俺には、それが、できない。そんな俺じゃ、おまえの・・」
慎吾は、そこで、言葉をとめた。
「だから、判れよ!!」
しゅんとうなだれた子犬が急に噛み付いてきた時、自分の落ち度を探す。
何をしてしまったんだろう。
痛いところにふれてしまったのだろうか?
怖がらせてしまったのだろうか?
そんなものに似た気分が充満して、慎吾の言いたい事がわからない自分を妙にせめてしまう。その戸惑いをさっしたのだろう。慎吾のほうが、降りた。
「いいよ。俺・・・。とにかく、お前じゃ撮れない写真をとってみせる」
つまり、先のキャッチアイなど、「チサトでもとれる写真」として、撮ってしまったということになる。
「その時に、話すよ」
だけど、慎吾が、此処にいられるのは、もう、4,5日だろう。
「あと、4,5日で・・」
撮れるものならば、とっくに撮れているだろう。
その言葉の裏に意味にきがついて、私は言葉を止めた。
今までに撮れなかったものが、あと、4,5日でとれるわけがない。
つまり、-お前じゃ撮れない写真をとれるわけがないーと、いってるのに等しいと。
だが、慎吾はその言葉をさらりといなした。
「何年かけても、撮るさ。どうしても、超えなきゃ手にいれられないものがあるんだから・・」
手にいれたいもの。
超えなきゃ手に入れられないもの。
それが、私であると気がつかないまま、超えなきゃ手に入れられないという慎吾のカメラマンとしての意地に妥協を許さない本来の慎吾をみつけていた。
それから、テントに戻って、機材を確認する。
周りを見渡せば、浅黒い肌に大きな黒い瞳の母子が、やけに目につく。
子供を護るために、住み慣れた土地を離れ、キャンプにたどり着いた。
戻るあてのない住処を離れ、自分こそが母屋だと、心に刻んだ母親の瞳の奥に
強い光を感じる。
その光をとらえることができるだろうか?
迷う心に返事を捜しているより先に私はシャッターをおしていた。
ーマジ、カメラマン根性というか、習性だね、こうなったらー
心より先に手はカメラをかまえ、目は構図をきめ、指はシャッターをおしてしまう。
慎吾の言う、人生を撮ってしまうというのは、こういうことかもしれない。
相手の人生をカメラにおさめるということばかりでなく、
自分自身がカメラと一体になってしまう。
すなわち、カメラの中に自分の人生がとりこまれている。
こういうことかもしれない。
ーふぅぅー
口をとがらせた先から、小さなため息がもれる。
ーおそらく、私の人生はカメラなしでは、なりたたないんだろうー
それもまた、慎吾の言う通りなのだろう。
でも・・・。
それを、逆に慎吾にあてはめてみれば、慎吾にとっては、カメラなしでもなりたつ人生ってことになるのだろうか?
慎吾の言う「お前のせい」はそういうことだろうか?
いわば、カメラと一体化した私。
それに比べると、どこかで、慎吾は計算づく、あるいは、天才的な閃きで、写真を撮っている。
慎吾にとって、カメラが、表現のひとつ、道具でしかなく、カメラと一体化した私(で、あるならば)を見て、カメラにとってもらってるという借り物意識にきがつかされてしまったということだろうか?
それは、間違いなく、カメラが自分の外側、道具にすぎなくなってるということだろう。
私は、おそらく、カメラを自分の一部にしている。手足をとりはなせないのと同じように・・。
それが、慎吾の迷いのはじまりだったのかもしれない。
そして、計算づく、天才的閃きで、技術的に「チサトが撮るだろう写真」を物にすることはできたのだろうけど、慎吾の目標はそこじゃない。
カメラと一体化した慎吾を造る。
それが、「チサトには撮れない写真」ということになるんだろう。
確かにそうだろう。
慎吾がカメラと一体化したのなら、それは、慎吾、それ以外の何者でもない。
ーだけど・・・ー
じゃあ、私が撮ったものは、チサトそれ以外のものでないのだとしたら、慎吾が「チサトが撮るだろう写真」を撮ったなら、私の写真はチサトそれ以外のものでないわけでなくなる。
矛盾につきあたって、私はもう一度考え直す。
ー超える。そう言ったあとで、手にいれたいものがあるといったけ・・・-
誰にもゆずれない、誰にも超えられないものは、たったひとつ。
ーカメラ目線・まなざしー
そう。思いいれって、奴だ。
誰にわからなくても良い。自分だけが、わかれば良い。とらずにおけなくて、思いいれをこめられるもの・・。
ふと、編集長の言葉がよみがえってきていた。
ー慎吾は愛を知らないー
そんな意味合いだったろうか。
それは、私にいわせれば、被写体への思いいれだ。
思いいれがあればこそ、被写体への愛が映しこまれる。
ーつまり・・・ー
慎吾は天才すぎて、被写体への思いいれ薄い状況でも写真を物にしてこれた。
被写体への愛情・・・。
難しい命題かもしれない。
それは、人(物)への愛情・まなざしという「自分」の感受性だから。
今、例えば、さっきの写真の母子にたいしてもそうだろう。
住み慣れた土地をはなれ、この先の不安より、子供を護ろうという母親だ。という風に感受する自分がいるわけだ。
ーこの感受性は人それぞれだし・・・・・ー
私はいやなことにつきあたってしまった。
慎吾は自分の感受性がうすっぺらだと思ったのではないかということ。
相手の人生を感じる自分という自分の人生、すなわち感受性。
今まで育ってきた環境や経験、色んな物事から感受性が広がっていくけれど
たとえば、先の母子に対して感じるような思いを慎吾は感じ取れないのかもしれない。
ーそれを超えようとしているわけ?ー
つまり?
私の感受性、私の人間性を超えた慎吾になろうとしていて、それを、カメラにおさめたいってこと?
わきでたまま、思いをたぐってみたものの、私は首をふることになる。
ー私ごときを超えようって、やっぱり、ハードル低すぎる・・-
それとも、私って、本当はすごいカメラマンってことなのか?
ありえないとも、どうでもいいこととも、思え、一人笑いを口に含めると私のカメラを覗き込んでる小さな女の子にきがついた。
カメラをかまえると、にこりと笑う。瞳の奥に光が入り込み、純粋で綺麗だ。
母親の愛に充たされた子供はこんなにも澄んだ瞳をしているものかと思った。
もちろん、これも、シャッターをおしていた。
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