私の行動を教授は黙って見つめていた。それは、女医の言うとおり、これ以上瞳子の回復を期待しないほうがよいと批判めいたまなざしにも、
その反対に女医に言われ、そのままあきらめるしかないと一種、なげうった自分を露呈した気まずさにも見えた。
「今日の瞳子の様子は今までとちがっていたんでしょう?
そういう部分も話して回復の手立てを探ってみたいのです。
それと、私はこれからもちょくちょく、瞳子の様子をみにきますから、
教授は・・簡単に手放し気分にはなれないかもしれませんが、夫人とともに、食事とか・・なにか、気晴らしをなさってください。
教授はまだしも、夫人は一日中、瞳子の様子をみているわけですから、夫人のほうがまいってしまいます。
普段どおり、普通通り、楽しんでください。それくらい気長に構えて、鬱々した気分を上手に解消していかないと、
なにもかもが、瞳子のことで、気楽に楽しめなくなっている状況に押しつぶされてしまいますから・・・。
長期戦になるとどっしり構えて、娯楽は娯楽できりわけて楽しめる、それが大事ですよ。
それに、夫人にとってもこの状況を知っている唯一の理解者でもあるのですから・・」
黙って聞いていた教授が手で顔をぬぐうと小さな声が漏れた。
「ありがとう」
瞳子のことで、目いっぱいになり、夫人の困憊まで気遣えなくなるほど教授自身もくたびれ果てていた。
なんでもない私の提案に涙するほど教授の心も「癒し」に餓えていた。
「君がそこまで・・・」
教授の言葉は涙に呑まれたが教授はこの時に私の勤務を考慮していた。
研究室にこもって、実験と資料集めと論文構想・・瞳子の様子をみにくるどころではないと思ったのだろう。
何日か後に、顧問助手としての嘱託扱いというフリータイム制にきりかえ、自宅でのフリーランス体制を整えてくれていた。
私は瞳子が寝入っているすきにパソコンをつついていたが、
泥のように眠りにおちた瞳子に、夫人はケットをかけてやり、傍らで瞳子を見守っていた。
私は今日のところはこのまま帰ろうと教授の書斎をでて、居間をのぞいた。
思ったとおり、まだ瞳子はぐっすり寝入っていた。
立ち上がりかける夫人をそのままでと手で制し、私は人差し指を口の前にたて『無言のまま・・・で』と、合図を送るとそのまま立ち去ろうとした。
ところがどういう敏感さなのだろうか?
瞳子はぱっちりと眼をあけ、居間のむこう、廊下に立つ私を見つめた。
瞳子が私を見つけたと私にも解かる眼差しが急に崩れた。
「帰っちゃだめ。帰っちゃだめよ」
瞳子の懇願は幼子のものでしかなかった。
退行現象・・・安心できる場所を探す前に、自身が庇護される存在にならなければならない。瞳子は幼児にもどることで、安心できる場所に入り込み、庇護される自分になれる。
「瞳子さん・・また、明日来ますから・・・」
なだめてみたが瞳子は聞き入れなかった。
「いや!!だったら、私も一緒に帰る」
涙をためた眼で瞳子が私のそばに近づいてきた。そして、私の手をしっかりとつかんだ。
涙いっぱいの瞳が私の前にある。
瞳子の懇願を振り切って帰ってしまったら、瞳子からの私への信頼を失くしそうだったし、見捨てられたと受け止め、瞳子が錯乱をおこしはしないかとそれが、なによりも不安だった。
せっかく、心開き始めた瞳子が心を閉じてしまったら、もう二度と私に寄り付かず、教授に見せたとおなじような「男性への恐怖」しか持たなくなるのではないか、私はこの場をどうすればよいか惑った。
「瞳子・・・義治さんは、明日もお仕事なのよ」
瞳子の後ろから夫人が口ぞえをしたが、瞳子は聞き入れなかった。
「いや!!お仕事に行くまで一緒にいる。お仕事に行ったら・・・・」
瞳子は一人ぼっちになると気がついた。
「お仕事にいってる間、お母様の所にいるわ。お仕事が終わったら迎えに来て・・」
幼稚園に預けられ下園時刻に保護者が迎えに来る。
そのころの慣習でしかないと思える瞳子の思いつきから、逆に、今、瞳子は幼稚園のころに戻っていると判断できた。
パソコンを閉じて少し遅れてやってきた教授は瞳子の様子をじっと、見ていた。
私が感じたと同じ不安を考え付くのは、今となっては、教授にも私の存在が一縷の望みになっていたからだろう。
「しかたがなかろう・・・泊まってくれるかね?」
瞳子の言うとおり、私のアパートまで一緒に帰るわけには行かない。
むしろ、私が教授宅にとまったほうが簡単である。
「かまわないのですか?」
「いたしかたあるまい・・客室を・・」
夫人に寝具などの準備を促すと教授は瞳子に声をかけた。
「瞳子・・義治君はとまっていってくれるから、料理・・作ってあげれるかな?」
「うわ~、お泊り会だね」
瞳子にとっては、幼稚園の行事・・・・。
瞳子は逆行現象を起こしている。それは、父親を怖いと思ったと語るために、瞳子の意識がその頃まで逆行したせいだろう。
瞳子の症状として現れる物事を私は一つずつ把握していくに努めるしかない。
それらの症状の奥には、何か・・・・、原因の源水があるはずだと思った。
白い蟲が見える瞳子の源水もどこかにある。
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