深夜、寝静まった部屋のドアのノブがきしんだ音を立てた。
私は一瞬、瞳子が来たかと思った。
食事を作るとき、瞳子は体が覚えているのだろう、夫人に差し出された材料でかなりてきぱきと調理をこなしていた。
調理メニューについては、夫人に指図されなければ考えつけないようで、何を作るかたずねると、答えを口の中で何度もつぶやいていた。
「肉じゃが・・肉じゃが・・卵サラダ・・いんげんのごまあえ・・お豆腐とねぎの味噌汁」
つぶやきながらメニューを頭の中に叩き込むようだがいったん決まったメニューに対しての手順は、体が覚えこんでいるのだろう、迷いなく手が動いていく。
私はその様子をみつめながらまたひとつ、瞳子の回復の希望を見出した。
意識は確認を要するが、瞳子の五感は「記憶」をバックアップしている。
私に親密な親近感を覚えたのと同じ部位にバックアップというホルダーを有している。
ホルダーを意識の中に組み込み、開くことができれば、新しい学習で五感にさらに学習を上書きしていけば、瞳子はかなり回復する見込みがある。
問題は、どうやれば、奥底の五感ホルダーを開けるかという事になるかもしれない。
私は夫人に促され風呂を頂戴すると、湯船の中でそんなことを考え直していた。
風呂をあがると食事がすっかり整っていて、味も瞳子が以前、私に作ってくれたものと同質のものだった。
遅い食事をとると、瞳子は食器をあらいあげ、キッチン横に作られた畳の部屋に私を引っ張った。
テレビがおいてあり、ちょうど放映されていたピラミッドの発掘ドキュメントを眺めていた私の横に瞳子が並び座った。
「金色の棺なんだね」
「そうだね」
短い時間だったが瞳子と昔のように、同じテレビ放送を共に見て、同じ空間と同じ時間と同じ体験を共有できたことがうれしかった。
やがて、瞳子も夫人に促されて、浴室に入っていった。
私は夫人に瞳子の回復の手立てを探すために、明日、クリニックを尋ねようと思っていることを告げた。
「はい・・おねがいします」
夫人は自分が手を差し伸べきれない立場にいることを私の話で理解していた。
「瞳子にとって・・私を見るのもつらかったのですね・・」
夫人の落胆が伝わってくる。
「いえ、だからこそ、瞳子は回復するとかんがえられませんか?
つらいはずなのに、ですよ。記憶を封じ込んでも、まだ、あなたに対し「母」であることを、五感が教えてる・・」
「そうですね・・あの子のベースはなにひとつ変わってないはずですよね」
「ええ、それをひっぱりだしましょう」
そのあと、私は瞳子が風呂から上がるのを待って、瞳子におやすみを告げた。
「私・もう・・眠いわ」
瞳子はかわいらしいカラフルな水玉模様のパジャマの袖で口元におさえ大きなあくびをして、
自分の眠気を告げると、睡魔に勝てない幼子の行動そのまま「もう・・寝る・・」と、自分の部屋に戻った。
私も用意された部屋に戻り、布団の中にもぐりこんだ。
だから、瞳子であるわけがないと思いながら、私が帰ろうとしたときの瞳子の突然の覚醒を思い起こしてもいた。
枕元を手で探りリモコンのスイッチをつかむと部屋の明かりのボリュームをあげ、私はドアの前に歩み寄った。
「はい?」
ドアの向こうは静かだったが確かな人の気配があった。
やはり、瞳子なのかもしれないと私は迷いながらドアを開いた。
「ああ・・」
そこにいたのはやはり瞳子だった。
自分の枕を抱きかかえ私と一緒に寝るつもりで自分の部屋を抜け出してきたのだろう。
「どうしました?眠れませんか?」
「・・・・・」
無言の返事の唇がとがっている。
瞳子を一人ほったらかしにして、どうして平気で眠れませんか?なんて聞けるのだろうか。
瞳子のむくれた感情が唇の先に乗っかっていた。
「私と一緒に寝ますか?」
瞳子の感情を確認してみると、素直な肯定が返ってきた。
「うん!!」
「じゃあ・・どうぞ」
瞳子を部屋の中に招じいれたその時だった。
「YOSHIHARU!!」
瞳子が私の名前を呼ぶのと私にむしゃぶりついてくるのが同時だった。
確かに私の名前を呼んだ瞳子である。
私は瞳子に突然の覚醒(正気)が訪れたと思った。
だが、その覚醒がそのまま、覚醒として定位置におさまるか、どうか。
ぬかよろこびに踊り狂い、うっかり瞳子の希求に応じてしまったら、
その時になって、瞳子の精神が後戻りしたら?
私は瞳子を襲う悪辣な人間と認識されるかもしれない。
私は瞳子をだきよせたまま瞳子の希求をなだめた。
「瞳子さん・・私のお嫁さんになってくれますか?」
狂った瞳子の概念の中で瞳子自身の行動がどういう位置にあるのか、
適切な言葉をおもいつかないまま、私は瞳子の行動の意志がそこにあるのかどうか、確かめたかった。
「うん」
あっさり、瞳子が応諾をかえしてくると、瞳子は私の下半身に触れる。
正直、私も男でしかない。
ましてや、愛する女性である。そのモーションに反応しないわけがない。
今、瞳子の希求をかなえるのは実に簡単なことだと言える。
だが、性への恐怖故に狂った瞳子の不可解な行動をそのまま受け止めてよいわけがない。
「じゃあ、こんなことは、瞳子さんがちゃんと私のお嫁さんになってからにしようね」
私は瞳子の手をつかみ、私の下半身から取り除いた。
瞳子はすねたぶりで私に絡みつき、バランスを崩した私は布団の上に瞳子とともに倒れこんだ。
私はこの局面を打開するために、瞳子に質問を続けるしかないと思った。
「瞳子さん・・もう少しいろいろおしえてくれませんか?」
瞳子の意識があるいは、「YOSHIHARU」を意識しなくなるかもしれない狂いの中に瞳子を戻しいれる作業になるかもしれない。
だが、一時の覚醒(で、あるかもさだかではない)に振り回されたら、間違いなく結末は惨憺たるものになる。
「ん?な~~に?」
徐々に瞳子が逆行現象を起こしている。
子供のなぞなぞ遊びをまちうけるように、瞳子の瞳が好奇心いっぱいにくるくる動いていた。
「瞳子さんは白い蟲のせいでお父さんが嫌いになったんですよね?だから、瞳子さんはその蟲を退治しなきゃならないと思ったのかな?」
瞳子が鳥になって白い蟲をついばむこの発想はそういうことなのだろうか?
「そうかもしれない・・・・」
「じゃあ、今、私からも白い蟲がでてきていますか?」
白い蟲が男の性欲の象徴ならまさに今の私からも白い蟲が吐き出されているだろう。
もっといえば、すでに私が瞳子を愛しはじめたその時から白い蟲は排出されていると考えられる。
だから、瞳子は今夜白い蟲を退治するために私の元にやってきたと言うことになるか?
すると、こういう行動が、教授に対しても行われたと言うことになるのか?
だから、「娼婦のように誘う・・・」と教授は苦悶したのかもしれない。
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