私はおろかにも、話を切り出してみてから、此処まで、教授が憔悴しきっていると、悟った。
私は、教授の慟哭がおさまるのを待つことしか出来なかった。
いらぬ事をいってしまった非礼を詫びることもできないまま、私は教授を見つめ続けるしかなかった。
やがて、覆った両手がはずれ、教授の顔があらわになった。
唇の端が細かく震えているのは、言葉を出すのさえ、辛いことを私に伝えようとしているせいだろう。
教授の母親は私が類推したような簡単な状態じゃないのだ。
それは・・・。
私の中で、教授がここまで、取り乱し悲しむわけを推し量っていた。
たとえば、教授の母親は余命いくばくもない状態でありながら、意識もしっかりしていて、本人は病気だとは思っていない。
だとすれば、私が会いに行くなどという行動をとれば、本人があやしみだし、余命いくばくもないことに気がついてしまう。
本来なら、会いにいかせてやりたいが、それも出来ない。
娘の婿をみせることもできないまま、・・逝くを見送るしかない。
こういうことなのかもしれない。
だが、瞬時によぎった推量とは、まったく異なる意見が教授の口から、寄せられた。
私は教授の口から出てきた言葉を、理解することが出来なかった。
「ま・・まってください。私の耳がおかしいのでしょうか?」
教授の口から出てきた言葉にたいして、私はまず、教授と私自身の正気を疑った。
聞き違いか?そう、聞こえる自分がおかしいのか?
教授はなぜ、そんなことをいいだしたのか?
教授の母親との間で、なにか意見が衝突したということなのか?
それで、教授がパニックをおこしている?
私の呆然とした様子をしりめに、教授は今度は、はっきりと言い直した。
「君には、寝耳に水すぎるだろうが、瞳子との婚約はなかったものにしてもらいたい」
先ほどの憔悴とは、打って変わった力強さが声の中にある。
間違いなく正気で、覆すことの出来ない決意がこもっていた。
教授にどういうわけがあろうと、わけのわからないことを承諾するわけにはいかない。
「確かに寝耳に水過ぎます。いったい、どういうわけで、そんな事をおっしゃるのですか?
何らかの対処方法を一緒に考えようというのなら、私もわかります。
なにがあったか、いっさい知らされず、婚約は解消してくれといわれても、私が納得できるものがなにひとつ、ないじゃないですか?
それに、そのことは、瞳子も承諾しているということですか?」
私は教授の母親が自分のめがねに叶った男との、結婚を瞳子にすすめてきたのではないかと、かんがえていた。
余命いくばくもない母親の願いを叶えてやるしかないと、教授は思ったに違いない。
瞳子も優しい娘だから、父親の苦渋を見かね、私との結婚をあきらめたのかもしれない。
でも、それならば、安物の劇場芝居ではないが、因果を含めて、相手の人に一芝居うってもらうだけでいいじゃないか。
こんな単純な切りぬけを思いつかない教授のわけが無い。
すると、私の類推は的を得ていないという事に成るのかもしれない。
「瞳子は承諾・・している・・」
教授の口がにごり、言葉が詰まると変わりに滂沱の泪があふれてきた。
「教授・・嘘ですね・・」
瞳子が本当に納得していることなら、教授が泣くわけが無い。
私と一緒に暮らせる日をどんなにか、楽しみにしている瞳子か、教授が一番わかっている。
判っている教授が瞳子の気持ちにしらを切り、そ知らぬ顔で婚約破棄を瞳子が承諾していると言い切れるわけが無い。
その証拠がその泪でしかない。
「教授?いったい、なにがあったのですか?
何故、そんな結論を選ぼうとしなきゃ成らないのですか?
教授が話せないのなら、私は瞳子に直接、きくだけです。
教授、こんなことを私の口からいいたくはありませんが、婚約不履行を口にする以上、
私は法的に訴えることも出来るのですよ。
それくらい、私にも、権利があるのですよ。それをいっさい、無視して・・・」
私の感情が随分高ぶっていた。
だが、教授の泪の前に語気がひるんだ。
「すまない・・。わけをいわないのは・・・赦してほしい・・。瞳子のためにも、君のためにも、
白紙に戻す事が最善の方法なのだ。わけを・・知ったら、苦しむのは君であり、おそらく、瞳子も・・同じだ。私も・・口にだした・・・く・・ない」
事は一芝居うてばすむという簡単なものではないらしいことだけが、教授の言葉の端々にみえ、私はそこに食い下がっていった。
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