どうしたはずみか、ひょいと見たドラマがきになってしかたがない。
原作は中園ミホ。
どちらかというと、ドラマはみない。
で、あるのに、ひさしぶりにはまっていた。
タイトルは初恋・・。
自分の作品でも映画になったらきれいだろうなあとおもうのがwww(おこがましい)
ブロー・ザ・ウィンドであるが、
初恋は原作はよんでいない。
原作を読んだものの映像作品の鑑賞というのも・・・
ーーーしばし、考えるーーーー
原作を先によんだという場合があったろうか?
デイズニーなどならあるけど(w)
どちらかというと、映画などをみてから原作を読むということが多いきもする。
NHK の大河ドラマや時代物など、読んでいるはずの作品がしばしば登場するが
同じものというきがしてこない。
たぶん、今回の「初恋」も原作を読んでもぴんとこないところがあるとおもう。
(あとで、ドラマのためにかきおろした脚本のみ、と判明)
映像にちょっとにてるのが、イラスト・漫画であるが
多くを語らず、キャラクターのまなざしとかで心理やムードをえがきだしてしまう。
この精神面(感情面)までふくめた世界を仮に4次元とよぶとすると
もじというのは、なかなか立体的な世界も構築しにくいところを
精神面までかきこもうとすると
とうてい、画像やイラストなどにはおよびつかないほどの
努力?あるいは文字数がいる。
ところが、ものを書く人間というのは
どこまで書けるかということが重要で
およびつかない4次元までもものにするまでいかずとも
どこまで、近づけるかを楽しむところがある。
長く、書き手側にいた憂生であるが、
ここ、しばらく読み手側になっている。
映像にしろ、文字にしろ、
心に響いてくるというか・・・。
自分でも自覚のない「深遠」というか、
それをかいまみせてくる。
むろん、自分でかいているものも、
「深遠」をみせつけてくる。
このあたりは、当の本人でないとわからないことだけど。
映像にしろ文字にしろ
自分の書いたものにしろ
深遠をみせつけてくるということは
こちらの姿勢は「読み手」になっているのだろう。
初恋の「深遠」は
リフレインではいってくる
10代の二人の想い出にある。
これが、映像ゆえに効き目があるという意味で
原作では感じられないかもしれないと思う。
なぜ、過去の二人の回想シーンが胸をさしてくるのだろう。
これも、回想というのでなく、
しいて、思い出しているというのでもない。
しいていえば、主人公のもっている「深遠」として
なにかの弾みにうかびあがってくるというパターンで
血のなかにあるというより、肉のなかにあるというか。
時折、見知らぬ路地でありながら、そこをを通るとどこか、なにか、不思議となつかしいような
気持ちに吹かれることがある。
「依然として、自分の中にあるもの」
を、みせつけられることがある。
ちょうど、そんな感じでけして、回想でない。
こういう「深遠」を上手に表現していると思うのと同時に
なぜ、憂生がそれらに惹かれてしまうのかともおもう。
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