つぶやき、遊び・仕事・日常

一日の出来事のあれこれを雑多に記録していきます

奈良県旅行2-2

2024-12-04 06:35:00 | 日記

昨日に続いて二日目の奈良県旅行です。

昨日は、360kmほど走行しましたので、今日はやや少なめです。

 

◆観光ルート上の立地だけで選んだ上北山温泉の宿でした

 〇大当たりの宿でした

  

  

  

  失礼かもしれませんが、こんな辺鄙な山中でこんな夕食がいただけるとは期待していませんでした。

  写真のほかに、あまごの塩焼きとサツキマスのから揚げが後追いで出てきましたし、フグの刺身もありました。

  きっと、きちんと和食修行をされた職人さんがいらっしゃるのでしょう。

  じゃらんで予約したのですが、最高評価を口コミ投稿しておきました。

 

 〇もう何度も訪問している曽爾(そに)高原のすすきです

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  どこにでもあるすすきですが、それでもこれほどの群生は見たことがありませんでした。

  今日の走行は250kmほどで、温泉体験は175湯になりました。

  


人生のラストシーン

2024-12-02 06:46:40 | 日記

ある方が老人ホームで、これまでの人生で一番幸せだったことはなんですか、とみなさんに質問した。

ところが入所者のみなさんは、はぁ幸せ?思い出せないなぁという反応でした。

そこで一計を案じ、これまでの人生で一番心に残っていることはなんですか、と問いを変えた。

その答えがこうだ。

 

それは辛かった話や苦労話だった

 一番心に残っていることの問いには、みなさん生き生きとして話し始めたそうだ。

 それぞれ、辛かったことや苦労を次々と争うように語り始めたのだ。

 いやいや、わしのほうが大変だったぞとか、あたかも不幸の自慢話のようだった。

 そしてその苦労話をしているときの顔が、最高に生き生きとして輝いていたそうだ。

 

 それには、考え込んでしまう。

 人は、幸せになるために生まれてきたのか、それとも苦労をするために生まれてきたのか。

 思うに、幸せとは振り返った時にそこにあるものではないでしょうか。

 大変なことに直面し、逃げることもできず、泣きながら向き合ったあの日々の体験が、

 いつの日かかけがえのない思い出となるようです。

 そしてそれは、もしかしたら素晴らしく幸せな時間だったのかもしれません。

 人生にはふたつの時間があるようです。

 楽しい時間と、辛い時間=学んでいる時間です、辛い時ほど深く学んでいて、後にそれは幸せな時間となるようです。

 

 →うん、これはわかるような感覚です。でもできればそんな辛い経験からは遠ざかりたいものです。


神仏とはこういうもの

2024-12-01 06:53:45 | 日記

仕事に行き詰まっているとき、難題に取り組んでいるとき、人は神仏にすがりたくなるものだ。

だがそれを受ける、その神仏の立場としてはどうなのだろう。

こんな興味深い指摘があった。

 

神仏は頼るものではなく感謝するべきもの

 神仏というものは、崇(あが)むべきもの、尊ぶべきもの、いわゆる尊敬すべきものであって、頼るべきものではない。

 むろん、祈りは大事だ。

 だがそれは、頼るものではなく、感謝であるべきだ。

 

 人間にはすべて、もともと積極精神が備わっている。

 その精神と、身のうちから沸き上がる潜勢力によって、道を切り開いていくべきもの。

 神仏にすがってはいけない、それは自己本位な行動となる。

 生命力を旺盛にして、自らの力を信ずるべきだ。

 自分を信ずれば、道は拓ける。

 これができることを、自覚と言う。

 そして、感謝をするのだ。

 

 →はあ、神仏に感謝をすべきということはわかりました。

  でもそれで、諸々が解決するわけではないようです。

  結局は、自分自身のようですね。

 

 

 


大量の情報

2024-11-30 06:39:41 | 日記

生活をしていくうえで、情報量は多い方がいいと漠然と考えていた。

また、行動決定における選択肢も、多い方が選びがいがあると思っていた。

これらは行動経済学によると、どちらも間違っているそうだ。

オランダのエヴァ・ファン・デン・ブルックという方だ。

 

大量の情報は注意の欠如をもたらす

 人に何かを伝えたい場合、大量の情報を提供すると、たいがいは失敗してしまう。

 人間の脳は、簡単に処理できることを好むのだ。 

 一目でわかるものに快感を覚え、苦労せずに情報整理・理解ができることで、出し手のメッセージがはっきりと伝わるのだ。

 米国スタンフォード大学の有名な実験がある。

 大型スーパーマーケットのジャムコーナーにジャムを24種類陳列した場合の購買率は2%だった。

 反して、6種類だけのジャムを陳列した場合は、購買率は12%だったのだ。

 これは、選択肢が多すぎると、客は選ぶことをあきらめてしまうからだ。

 

 紳士の国イングランドで、たばこの吸い殻の散乱に悩まされていた折に、こんな選択肢が提供された。

 大きな灰皿がふたつに区切られ、世界一のサッカー選手はどちら?との質問が表示されている。

 片方にはクリスチャード・ロナウド、今一方はリオネル・メッシだ。

 このことにより、吸い殻を床に投げ捨てるという選択肢をなくしてしまったのだ。

 結果は設置者が期待した通り、吸い殻のほとんどは灰皿に捨てられることとなったのだ。

 

 →ほう、行動経済学というのは、思いがけない活用方法があるものですね。

 

 


渋沢栄一

2024-11-29 06:48:26 | 日記

新札の肖像人物だ。

そのため、もう多くの人たちが彼を語っている、渋沢栄一。

こんな話もある、結婚式の祝儀には相応しくないとか、曰く自宅に本妻と妾婦を同居させ、同時に出産させたとか。

まぁ当時の社会常識ではあったのだろう、余裕のある紳士は多くの婦女子を手助けするべきというような・・・

そんな栄一の語録を振り返ってみたい。

 

◆自己の本分はこうだ

 私は天に対しても、神に対しても自己に幸福が訪れるように祈ったことはない。

 ただ自己の本分を尽くす上に、不足がないか否かについて自省するのみである。

 天は人為ではどうすることもできない。

 だからこそ、人為を尽くして天命を待つのです。

 

 清濁は併せのむ必要はない。

 世の中は、清、すなわち良いことだけが行われなければならないはずで、

 濁、すなわち悪いことがあることは根本的に間違っていると考えるのです。

 彼の力を期待して、多くの陳情客がひっきりなしに訪れていた。

 彼は求められれば、そのすべてに応じていたそうだ。

 だが渋沢は、事を為すのに清濁は問うべきだと示す。

 あくまで、清、のみに与せよと述べているし、実際にそれは、貫かれていたようだ。

 

 →ふうん、当時の社会常識ねぇ・・・  都合のいい言い訳のようにも聞こえますが・・・