つぶやき、遊び・仕事・日常

一日の出来事のあれこれを雑多に記録していきます

われにそしりの火

2022-09-30 06:43:14 | 日記
自分としては正しいことをしていると思っていても、多くの人々から反対されることがある。
それどころか、非難さえ受けることがある。
そんな時にも心を折ることなく自らの考える道を歩むのにはどうしたらよいのか。
そんな時の心持ちを、真宗大谷派のご住職が教えてくれた。

◆九条武子さんの歌に救われる
 「百人(ももたり)の われにそしりの 火はふるも ひとりの人の 涙にぞ足る」
 これは、百人の人が自分を非難する矢を注ごうとも、一人の人が涙を流して喜べばそれでいいじゃないか、
 というような意味なのだろう。
 他人の言うがままに、自分の人生や行動を変えてはいけないようだ。
 むろん、独善的な考え方ではいけない。
 だが、喜んでくれたり評価をしてくれる方が一人でもいれば、その行動に価値があるということなのかもしれないな。

 そういえば、スティーブ・ジョブズもこう言っていたな。
 「新しいことをスタートするとき、一番大切なのは情熱を持つことだ。」
 まだ誰もやったことのない新しいことを行なうときには、多くの反対や困難があることだろう。
 それを乗り越える忍耐を支えるのは情熱だ。
 正しい情熱を持ち続けたいものですね。
 

2年ぶりの白樺峠

2022-09-29 06:38:28 | 野鳥
昨年は大雨の影響で、木曽方面からのルートの境峠が通行止めで訪問できなかったので2年ぶりだ。
天気予報とにらめっこしながら、9月18日、19日に観察に出かけたが完全に空振りで、温泉を楽しんだだけだった。
それではと25日に日帰りで再挑戦すると、この日はおそらく今シーズン最高の2,100余羽が飛んだ(渡った)。

◆白樺峠(松本市奈川)鷹の渡り
 〇平地まであふれる、斜面にはこの倍くらいの人で150人くらいかな
  

 〇サシバ(たぶん)太陽光を浴びて羽根がきれいでした
  

  

  

  

 〇ハチクマ観察員報告よりも多く感じました
  

  

  

  

  

 〇アサギマダラでしょうか
  

 〇ノスリ(たぶん)
  

 〇鷹柱、もっと大集団があったのですが、写真だとゴミのように見えてしまう
  ぜひ肉眼で体験していただきたいものです、初めての方は歓声を上げていました
  

 秋晴れのいい一日で、日焼けが気になるほどでした。
  
  

命がけらしい

2022-09-28 06:46:54 | 日記
少子高齢化傾向が言われだしてから久しい。
現在では一般的なシニア世代の65歳以上は、その比率が3割を超えているそうだ。
そんな社会には、当然シニア世代の悲喜こもごもがある。
樋口恵子女史の「老いの福袋」からだ。

◆風呂に入るのも命がけ
 女史の友人は、ある日風呂から出ようとしたが、突然バスタブから立ち上がれなくなったそうだ。
 この方は、幸い娘さんと同居だったので事なきを得たそうだが、そんなこともあるのだ。
 冬には脱衣場と浴室の温度差で、ヒートショックを起こし、心筋梗塞や脳卒中となることもあるそうだ。
 だが、最も怖いのは溺死らしい。
 ちょっと古いが、厚生労働省の2018年データでは、家庭の浴室での溺死者は5,398人。
 それは、交通事故死者の3,532人よりはるかに多い。
 しかも、その溺死者の9割以上が65歳以上だという。
 だから、高齢者にとっては、風呂に入るのはオーバーではなく命がけなのだ。

 →ふ~ん 他人事ではありませんね。
  「今日の若者、いずれじいさん」だし、「今日の乙女は、明日のばあさん」とも言うし。
  一休禅師は、目出度い正月でさえ、「門松は冥土の旅の一里塚」と詠んだな。
  正月を迎えるたびに、帰らぬ旅が近付いているということなのだろう。
  日本人は、人類が経験したことのない高齢化社会の先陣だそうだから、世界に模範を示したいものだ。
 

清水次郎長

2022-09-27 06:50:51 | 日記
江戸時代の五街道の中でもおそらくは最重要だったであろう東海道。
そこは、現在でも東海道新幹線や国道1号線が日本の大動脈として君臨している。
そして、その東海道一の大親分だったと言われるのが、清水次郎長(しみずのじろちょう)だ。
歴史上の人物ではあるが、東京明治座や名古屋御園座の舞台での演目で、その姿が生き生きと浮かび上がる。
中江良夫脚本、主演杉良太郎だ。

◆芝居の台詞(せりふ)にも感動する
 当時の大親分・小幡の周太郎が、まだ若い次郎長に語り掛ける場面だ。
 「次郎長どん、みなせぇあの紅葉を、きれいじゃねえか。
  わけえ青葉の頃を力いっぱい生きてくりゃこそ、散り際にあの色艶を残せるんだよ。
  次郎長どん、大きくなりなせえよ。

 その意は、青葉が空に向かって大きく枝を伸ばすように、
 若いころ地道に努力してこそ見事な色艶のある晩年を過ごせるということなのだろう。
 その結果として、街道一の大親分ということになるのだ。
 
 正に、舞台からおいらに語り掛けてくるような言葉で感動すら覚える。
 だが残念なことに、感動と実行は連動しない。
 舞台を観る他の大衆とともに感動はしたものの、それが実行に結びつかないのがおいらだ。
 それが現在のおいらならば、素直に受け止めるしかないか・・・




美味しい料理

2022-09-26 06:33:54 | 日記
昨日はマンガ喫茶でくつろいだ。
そこでのマンガで、「美味しい料理」について語られていた。
色々と考えさせられるもので、それは料理をビジネスに置き換えても成立するのではないかと思わされた。

◆錯覚することがあるとは言うが
 料理は、シェフの名人ネームバリューや、老舗オーラによって美味しいと錯覚することもある。
 だが錯覚と言う前提は、料理や味に対する鋭敏な味覚を持つ人たちの決めつけなのかもしれない。
 そうではない一般大衆の中には、その料理そのものを純粋に美味しいと感じているグループもいるようだ。
 物事の感じ方は各人の自由なんだから、そういう評価も間違いではないのだ。

 一方で、独創的で食材や調理法にもこだわった、いわゆる創作系の料理は、非凡な美味しさと称えられがちだ。
 だが人間は、そういうものばかりが美味しいわけではない。
 例えばチェーン店の、ありきたりの定番メニューの平凡な美味しさを求める層もあるのだ。
 だから、鋭敏な人が平凡な美味しさを侮ることは、独善の罠にはまることかもしれないのだ。
 それをかっこいい言葉で言えば、「未知への感動」と「既知への安堵」となる。
 そのどちらが正しいわけではなく、人はそれをライフスタイルに合わせてうまく使い分けているのだろう。

 →マンガ喫茶でもこんな学びが得られました。
  おいらのビジネススタイルは、「既知への安堵」を極めるものとしたいものです。
  余計な話かもしれませんが、たしかに「王将」のギョーザは美味しい。