河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

ちょっといっぷく9

2022年02月24日 | よもやま話

雪の積もった森の中を、子犬を連れて、おじいさんが歩いていました。歩いているうちに、お爺さんは片方の手袋を落としてしまいました。

「温かそうだ、ここで暮らそう」と、一匹のネズミがその手袋の中にもぐりこみました。

そこへ、一匹のカエルがきて、手袋に入れて欲しいとお願いします。さらに一匹のウサギが走ってきて、手袋に入りたいとお願いします。

手袋の中は三匹になり、ちょっと手狭になりました。

それなのに、キツネ、オオカミ、イノシシも入ってきました。手袋の中は、もうぎゅうぎゅうづめです。

これでいよいよ満員かと思いきや、今度は大きなクマも訪ねてきました。

さて、手袋が片方ないことに気づいたおじいさんが、犬を連れて手袋を探しにきました。

子犬が、むくむく動いている手袋を見つけ、わんわんと吠えました・・・。

 ウクライナの民話です。結末は、

 「すると、みんなは、あわてて逃げて行きました」

なのですが、

 「おじいさんは、子犬をなだめて、手袋をそのままにして帰ったとさ」

であることを祈ります。

※福音館書店の絵本『てぶくろ』を参考にしました。

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ちょっといっぷく8

2022年02月24日 | よもやま話

  「○と×」さてどちらを選ぶ? 

  答えは当然○です。

  では、「○と○」のどちらを選ぶ? 

  悩みそうですが、どちらも好きなので、ラーメンにするかカレーにするかのようなもので、けっこう選択しやすい。

 では、「×と×」ならどちらを選ぶ?

 これは悩みます。そこで、右の良いところ、左の良いところを一つずつ見つけましょう。すると「○と○」の時のように選択しやすくなります。

 人間でも同じです。「あの人嫌い」ではいつまでたっても悪い関係のままです。どこか良い所を見つけましょう。さて、困るのはこの選択です。

  「?と?」。

 これは選択のしようがない。いくら考えても堂々巡りのまま。堂々巡りに発展はありません。こんな時は、こうしましょう。

 とりあえず「△と?」にしましょう。そして△について調べましょう。すると△が×になったり○になったり、もう一つの△が出てきたりします。○らしくなったらもうけものです。

 コロナワクチンの接種券が届きました。

 ファイザーかモデルナか?

 空いていそうだし、効果ありそうだからモデルナにしました。

※実際に申し込んでみると、ファイザーは満員。モデルナは初日からガラガラでした。

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その十六 室町――【番外編】

2022年02月23日 | 歴史

 ある日、春やんから聞いた話だ。

 喜志の宮さん(美具久留御魂神社)の一の鳥居の国道(旧170号線=東高野街道)沿いに、茶店があったの知ってるやろ。あの茶店は古くて、昔は、宮さんにお参りに来る人のための接待所、休憩場あった。「お旅の茶屋」というていた室町時代の話や。

 宮さんの方から黒染めの衣を着た坊さんが一人、茶屋にやって来た。坊さんといっても、頭の毛はもじゃもじゃで、無精ひげをはやしたお坊さんや。

 「しばし休ませていただきます」と言って、茶屋の前の床几(しょうぎ)に座る。

 「へいへい、ごゆっくり」と茶屋のおやじが茶を持って来る。

 そのお茶を飲んでいると、太子の方から、紺の青の小素襖(こすおう)に、烏帽子(えぼし)をかぶった若者が一人、茶屋にやって来た。舟木一夫か橋幸夫のような、なかなかの男前や。

 お坊さんがその若者を見るなり、

 「おお、三郎やないかいな」

 若者もお坊さんを見て、

 「あっ、和尚様!」

 「久しぶりじゃのう」

 「このような所にどうして?」

 「知っての通り、せんだってからの戦(いくさ=応仁の乱)で京の都は荒れ放題。わしの寺も焼けてしもうた」

 「えっ、父上の墓は?」

 「本堂から離れた所にあったがゆえに大丈夫や」

 「それを聞き安堵いたしました。こうして和尚とお会いできたのも父上のお導きでございましょう」

 「そうじゃのう、悪いこともあれば良いこともある。災い(禍)わざわいは、福の裏返しにすぎず、福と禍は一筋の縄のごとしということじゃ」

 そんな話をしていると、鳥居の下で猟師と坊主(ぼうず)が言い争いを始めた。和尚が近づいていき、猟師に「どうされました?」とたずねると、

 「へい、今日は仏事があるゆえに、猟師は鳥居をくぐってはならんと・・・」

 そばの立札を見ると、「皮を身につけた者、立ち入るべからず」とある。それを見た和尚が坊主に向かって、

 「釈迦(しゃか)といういたづらものが世にいでて多くの人を迷わすかな。皮をきたものが入れるのならば、お寺の太鼓を捨ててしまわれよ! 太鼓にも皮が張ってあるであろう! ナムサン!」

 大声で恫喝(どうかつ)したので、坊主はたじたじになって逃げて行った。礼を言う猟師に和尚が、

 「太鼓だけにバチがあたった」

そう言って茶屋に戻って来た。三郎が、

 「昔からの頓智は健在ですね! 老いてもなお初心忘るるべからずですね」

 「いやいや、釈迦の教えを笠にきて偉そうにする輩が増えてきた。南無釈迦じゃ 娑婆(しゃば)じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃどうじゃこうじゃというが愚かじゃ!」

 「稽古は強かれ、情識(偉そうな心)はなかれとなりですね」

 「ほほう、三郎、だいぶ稽古の腕も上がったようじゃのう」

 「いえいえ、まだまだ父には及びませんが、家にあらず。継ぐをもて家とす(家の芸を継いでこそ家が残る)、ということがようやくわかってきました」

 「それだけでもたいしたものじゃ。時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり(若い時の美しさを自分の魅力だと思っていると、本当のの自分の魅力にたどりつけない)」

 「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず(思いもかけないところに芸の花がある)」

 「そうじゃ。それで、これからどこへ?」

 「はい、千早へご先祖を偲びにまいります」

 「おお、わしもそうじゃ」

 そう言って、二人は高野街道を南に向かったそうや。

【補筆】

 楠正成公の系図は十六通りほどあるそうです。春やんは次の系図を作って話をしていたのです。

 春やんの話に出てきた和尚はテレビでおなじみの一休さん(一休宗純)です。

楠正成の孫の正儀(まさのり)の次男正澄(まさずみ)の三女が、第百代後小松天皇の官女になり、天皇の寵愛を受けて生まれたのが一休さんです。北朝側の追ってから逃れるために六歳で出家させられます。そして、81歳の時、京都の大徳寺の住職に命じられます。しかし、おりしも応仁の乱のまっただ中で、大徳寺は焼かれてしまいます。そこで、乱からの避難、寺の再建のために、一休さんは大坂の堺へ来ていました。

 正月気分で人々が浮かれている中を、竿の先に人間のドクロ(しゃれこうべ)を刺して、

  門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

と歌って歩いたのもその頃です。漫画のイメージとはかなり違う反骨精神旺盛な坊さんでした。

 一方の若者は能楽を大成した世阿弥(ぜあみ)です。楠正成の妹が、伊賀の服部氏に嫁ぎ、世阿弥の父の観阿弥(かんあみ)が生まれます。子の世阿弥が生まれた31歳の時に、名張市小波田(おばた)で猿楽座(後の観世座)をたちあげます。やがて、観世父子が能を演じ、将軍足利義満に認められます。52歳で病死し、葬られたのが一休さんが和尚となる大徳寺なのです。

 その後、家を継いだ世阿弥が能楽を完成させていきます。

 ※二人が千早に向かったのはご先祖(楠正成)を偲ぶためでした。

 ※赤字部分は二人が残した有名な言葉です。

 このように書くと、春やんの話はいかにもありそうな話なのですが、一休さんが生まれた時(1394年)、世阿弥は31歳でした。つまり、一休さんより世阿弥の方が年上ということです。世阿弥が亡くなった時(1443年)、一休さんはまだ49歳です。春やんの話は年齢が逆転しています。【番外編】としたのは、そのためです。

 美男子だった世阿弥、肖像画の一休宗純のイメージで逆転してしまったのでしょう。

※神社と寺は相反するイメージがありますが、明治時代までは神仏習合(神道と仏教の一体化)の思想で、もちつもたれつの関係でした。神社のそばに寺が、よくあるのはそのためです。喜志の宮には、室町時代に十三の寺があったといいます。「神仏習合ぬきで、歴史を考えたらあかんで」が、春やんの口癖でした。

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ちょっといっぷく7

2022年02月22日 | よもやま話

 梅の季節です。

 梅といえば鶯。

 「梅に鶯」は、仲の良いもの、絵になるものという意味で使われます。しかし、ウグイスが花の咲いた梅の木にとまることはまれだそうです。なぜならウグイスの餌は虫だからです。この季節、まだ虫はいません。梅の花の蜜を吸いにきているのはメジロ(目白)です。

 

 とはいえ、「百花の魁(さきがけ)」として咲く梅と、「春告鳥(はるつげどり)」とも書くウグイスの取り合わせは風流です。

 花札に描かれているのもメジロです。

 花札ほど日本的で洗練されたデザインはありません。花札は博打(ばくち)に使われるので、札を一目見て判断できるように、余計なものを一切そぎ取ったからでしょう。

 ちなみに花札が表に出てくるのは明治時代の中ごろです。それまでは博打をさせないために花札禁止令が出されていました。その禁止令を廃止したのは初代総理大臣の伊藤博文です。

 伊藤博文の奥さんの名は「お梅(下町芸者だった頃の名。本名は梅子)」さんです。

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その十五後編 南北朝 ―― あてまげの溝

2022年02月21日 | 歴史

【大楠公の空手チョップ】  

 「前半」から二週間、春休みが終わり新学期が始まっていた。桜がきれいな時期だったが、前に話したとおり、町内には桜の木はなかった。粟ヶ池の参道か喜志の宮さんに行けば美しく咲いているだろう。そんなことを考えながら夜の8時前に駄菓子屋に行った。前の週よりもさらに人が増えていた。「あてまげの溝」の秘策を皆が心待ちにしていた。

 プロレス中継が終わり、春やんがテレビの前に座って話し出した。

 「さあ、天王寺で京の六波羅軍(都を守る警備隊)を破った大楠公。そのまま押し進むかと思いきや、なんと、兵を引いて金剛山へ帰ってしもた。野球で言うたら、大楠公一人が巨人と戦っている間に、播磨国で阪神の赤松則村というのが巨人軍に反旗をひるがえした。奈良の吉野では後醍醐天皇の息子の護良親王(もりよししんのう)も巨人軍と戦う準備が出来ていた。こうなると全国の阪神ファンも挙兵するやろう。これに対して鎌倉の巨人軍も黙ってないやろうから、千早赤阪の城で迎え撃とうというわけや」

 ここで春やん、例のごとくワンカップを取り出し、シュカーンと開けて、ゴクリゴクリと飲み出した。

 「案の定、関東からの軍勢が京の都に集結した。その数なんと百万人や。こんなん攻めて来よったらどないする? 当時の喜志の人口は500人くらいや。そのうち半分は女や。関東軍百万は全員が男や。おタキさん、あんた百万人の男を相手できるか?」

 駄菓子屋のお婆ちゃんのおタキさんは、年甲斐もなく顔を赤らめた。春やんも酔ってきたのか顔が赤い。

 「ものの本には百万人とあるが、これは大げさや。まあ、よう見積もって七、八万やろ。これが大八車がすれ違えるくらいの細い道を来たら、長い行列できてしまう。そこで河内に通じる中高野街道(国道310号線)と下高野街道(309号線)、それと東高野街道の三つに軍勢を分けたんやなあ。東高野街道いうたら、そこの国道(旧170号線)や。ここを少なくとも三万人の男どもがやって来る。これあったら、おタキさん、相手できるやろ!」 

 「いややわー」と言うて、おタキのお婆ちゃんがますます赤くなった。

 「さあ、ここからが大楠公が定吉に授けたあてまげの溝の秘策や!」

 そう言って、包装紙の裏に書いた絵を、テレビの上からぶらさげた。

 「2月も半ばのことや、関東の軍勢三万人が東高野街道を下って来た。これを真っ先に発見できるのは北山城や。軍勢がやって来たと見るや、一筋の狼煙(のろし)が上がる。これを見た喜志の村々の威勢のいい男たちが、腰のワラ帯に鎌をさし、手には楠公さんに用意してもろた弓矢をたばさみ、川面に集まってくる。女、子どもは安全な所へ逃げ延びる。宮の城から、宮の僧兵と村人が出てきて粟ヶ池の土手に潜んだ」

 「喜志の者だけで三万人を相手にするのかいな。何人ぐらいいたんや?」

 「そやな、元気な男だけやから200人もいたらええとこか」と春やんは言い、ワンカップをゴクリと飲み干して空にすると、店の奥さんに目配せした。奥さんが、一升瓶と湯飲みを持って来て、酌をする。他のオッチャンたちにも湯飲みが配られ、店で売っているノシイカをアテに飲み出す。私たちにはバヤーリースオレンジが配られた。

 「春やん、えらい高くつく話やな」と店のダンナさんが言うと、

 「辛抱しとけ。これも喜志のためや」と言って、話し出した。

 ――関東の軍勢がお旅所に近づいて来た時、潜んでいた宮の衆が粟ヶ池の堰(せき)を一気に開けると、怒濤のごとく水が流れ出した。普段は、街道を横切る1メートルほどの溝に丸太を架けてるだけやが、この日は幅3メートル、深さ2メートルほどに広げてある。おまけに腐った丸太を架けてあったので、先頭の兵が知らずに乗ってドボンや。次から次に落ちて流されていく。

 そのとき、川面に集まった喜志の衆が「オオー」とときの声をあげた。中には「関東のアホンダラ」と叫ぶ者もいる。かぁっと頭にきた関東の軍勢が、川面の方へと押し寄せる。ところが、この日のために、溝を広げて深くして、土が水流で流れんように石垣で囲ってる。おまけに道の左右には竹槍の柵がしかけてあった。

 関東の軍勢が、一本道にうんかのごとく押し寄せて来た。そこへ第一弾の桜井の「あてまげの道」がある。急ブレーキをかけたが、後ろから次々と来るもんやから、将棋倒しで、勢いあまって前の草むらに落ちる。するとそこにも竹槍の柵や。次から次に竹槍の餌食で死体の山や。

 ようやく逃げ切った軍勢が、地蔵さんの方に向けて押し寄せてきた。すると、第二弾の「あてまげの溝」。この頃には粟ヶ池の堰は完全に開けきっているから、溝やなしに濁流になって、大蛇のごとくうねりくるってる。水流の当たる所には、水があふれ出さんように石垣を積んで、竹で編んだ網がかけてある。周りにはやっぱり竹槍や。

 急ブレーキかけたが、後ろから来る味方に押されてドブン。ドブン、ドブンと落ちて濁流に飲み込まれていく。ようやく乗り越えても、次の「あてまげの溝」があるから、50メートルほどの一本道に何千人が立ち往生した。そこへ、喜志城や中野城から駆けつけた楠の軍勢千人と喜志の衆が、雨あられのように矢を浴びせた。関東の軍勢は必死で逃げるが、次の「あてまげの溝」がある。ここでまた立ち往生して、弓矢の餌食や。あわてふためき後ろに逃げるが、宮城、北山城の兵が矢を浴びせた。関東の三万の軍勢は全滅や!――。

 「おおーっと」皆がよろこんだ。一人のおっちゃんが、

 「それでも前に進む者もいるやろ。もう、あてまげの溝はないで!」

 春やんが天下をとったように、「本物の川(石川)があるがな」

【補説】

 喜志地区の田んぼは、石川東部をのぞいて、ほとんどが粟ヶ池から水を引いています。粟ヶ池の水は、上流の富田林の川西あたりから引いているので、池に水を満々と蓄えることができます。 粟ヶ池の堰から川面へは河岸段丘で緩やかな下りです。川面内では二つの坂になっています。大雨の時に溝があふれないように、下に行くほど広く深くなっています。桜井の当て曲げの道も、不自然に曲がっていて、地車を曳いたときは苦労する所です。

 大雨が降り、粟ヶ池の堤防(美具久留御魂神社の参道)が決壊したとき、溝の水が道にあふれて、鯉や鮒が道ではねているのを捕まえたことがあります。それを知っている人たちは、誰も春やんの話をうたがいませんでした。喜志の村人が一つになって三万人の関東軍を破ったと信じてました。

『楠合戦註文』という本の中の、楠公さんの軍勢の中に「喜志党」というのがあります。

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