<以下の記事は、2001年12月29日に書いたものです。以後、この考えは全く変わっていません。>
国旗と国歌について考えたい。 まず「日の丸」だが、これほど美しくて、純化され崇高な国旗は他にないと思う。一目瞭然、「日出づる国」日本を象徴するのにふさわしい国旗である。 我々国民は誇りを持って、「日の丸」を国旗として仰ぐだろう。
しかし、「君が代」についてはどうであろうか。 この「国歌」は明らかに天皇による統治、絶対君主制を讃える歌である。 政府は「君が代」とは、「主権者国民の総意に基づく天皇を象徴とする我が国のこと」だと説明している。 これは現在の国民主権の原理に「君が代」がふさわしくないとする、多くの批判に対して弁明したものだが、はたしてこれで国民全体が納得するだろうか。 私自身は、どうしても納得がいかない。
近い将来、憲法改正が行われるとしても、国民主権の原理は変わりようがない。憲法9条をはじめ改正すべき点は多々あると思うが、主権在民の考えは変えようがない。 憲法改正で、天皇が「象徴」のままであろうとなかろうと、国民主権の原理は変わらないし、むしろ、より鮮明にすべきである。
将来の憲法改正について民間では様々な試案が出ているが、注目すべきは、天皇を「元首」とする保守的な試案の中にも、国歌は国民の手で新しく作るべきだという考えが少なからずある。私もその考えに賛成である。
いわゆる保守的な試案の中にも、そういう意見があることに注目すべきである。 私自身は、2005年頃までに、21世紀にふさわしい新しい「国歌」を策定して欲しいと思う。 勿論、私も皇室を敬愛する立場から、「君が代」は天皇と皇室を敬愛する歌として残すべきだと思う。しかし、天皇を敬愛し尊崇する気持と、国歌は別だと思う。
この点について、民間の憲法改正試案の中に、私が最も我が意を得たりと思うものがあった。 それは、慶応義塾大学教授の小林節氏が著した「憲法守って国滅ぶ」(1992年3月5日初版。KKベストセラーズ発行)である。 その一部を引用させてもらう。 その中で小林氏は、「法律上の根拠がなくかつ日本国憲法の基本原理に反する君が代の慣用を止め、新しく、現在の国民主権国家・日本に相応しい国歌を制定し、そのことを憲法典の中に明記すべきであろう」(同書の129ページ)と述べておられる。
1992年当時は「国旗・国歌法」が成立していなかったので、「法律上の根拠がなく」という文章になるが、それ以下は私の考えとまったく同じであり、意を強くしたので紹介させてもらった。
個人的な話しで恐縮だが、私は所沢にいるので「西武ライオンズ」のファンである。 よく西武球場に行くが、試合開始前に「君が代」が演奏される時には、だいたい起立もしないし歌いもしない。 戦後民主主義の教育を受けた世代なのかもしれないが、国民主権が骨の髄まで染み付いた人間として、違和感を覚えるから歌わないのだ。(観客席を見ていると、いつも多くの人達が起立もしないし、歌ってもいない。) そのかわり、天皇誕生日など皇室の慶事の時は、喜んで「君が代」を歌うであろう。
21世紀を迎えて、沈滞した日本国民の活性化のためにも、憲法改正など喫緊の課題が数多くあると思う。 国歌についても、新世紀にふさわしい明るい躍動感のある、日本国民の活力を取り戻すようなような、歌詞と曲を作って欲しい。 それを国民の中から公募して、「新国歌・制定委員会」で定めて欲しいと思うのである。(2001年12月29日)
後記・・・野球などの楽しい時に、いちいち「君が代」を歌わされるというのは、少し場違いではないのか。 日米対抗野球の時などは、アメリカの「星条旗よ永遠なれ」に対抗して、今のところは「君が代」が演奏されても不思議ではない。 しかし、公式戦の一試合ごとに「君が代」を歌わされるというのは、やり過ぎではないのか。 私は西武球場に行く時、「君が代」で悩むのが嫌だから、わざと試合開始前に遅れるように行くことがあるし、最近は行くこと自体が嫌になった。
サッカーの場合もそうだ。有名な中田英寿選手は、国際試合の度ごとに「君が代」を演奏されるので、閉口しているようだ。 彼は「ダサイですね。 気分が落ちていくでしょ。戦う前にうたう歌じゃない」と言って、「君が代」を歌わないそうだ。(松本健一氏著『日の丸・君が代』の話。PHP新書を参照) 私は埼玉県民だから、“ダサイ”という言葉は好きでないが、中田選手の気持は実に良く分かる。
たしかに「君が代」は、スポーツ選手を奮い立たせる歌ではない。荘重ではあるが、聞いていると、かえって気分が沈んでいくように聞こえる。 「君が代」を歌う時、私は戦前の曲「海ゆかば」を思い出してしまう。やはり国歌は、明るくて活力を生み出すような曲であって欲しい。