ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『悪魔の発明』を観て

2023年07月09日 | 1950年代映画(外国)
DVDで『悪魔の発明』(カレル・ゼマン監督、1958年)を観た。

科学者のトマ・ロック教授とその助手アールは、新型爆弾の開発をしていた。
しかし、完成まであとわずかなところで、彼らは何者かによって拉致されてしまう。

事件の黒幕は大富豪のダルティガス伯爵。
彼はロックの開発した爆弾を使って世界征服の野望を燃やす。
ロックに爆弾の完成を急がせるダルティガス。
一方、監禁されていたアールは世界中にSOSを発信するのだが・・・
(DVDパッケージより)

ロック教授の助手アールの冒険談として、物語は進む。
場所は、大西洋航路にあるダルティガス伯爵の根拠地である死火山バックカップ島。
ここにロック教授とアールが拉致されてくる。
相手は伯爵のほかに、海底都市の設計者の科学者セルコと船長スペードたち。

伯爵たちは、所有する潜水艦によって南大西洋で最大の商船アメリアを撃沈する。
そして大破し海底に沈んだアメリアから財宝を運び出す。

片や、偉大な発明が悪魔の手に渡るのを阻止しようとするアール。
幽閉されている小屋から、早く世界に知らせようと手紙を書いて気球を飛ばす。
と、言うように話は進んでいく。

この作品は、チェコ・アニメの三大巨匠のひとりカレル・ゼマンがジュール・ヴェルヌの原作を
ストップモーションアニメ、切り絵、銅板画、実写を合成して作り上げた特撮冒険SF映画という謳い文句のしろもの。

確かに実写とアニメ、銅板画が見事に溶け込んでいて仮想空間というより、もっと現実感により近いと錯覚したりする。
今は冷静にそのような感想を述べたりしているが、例えばこの作品を10代前半に観たのならば、
そのインパクトにより後々まで私に何らかの形で影響を与えた作品だったのではないかと思える。
そんな貴重な体験を今回のDVDで得たりした。
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『黒い牡牛』を観て

2022年10月07日 | 1950年代映画(外国)
『黒い牡牛』(アービング・ラッパー監督、1956年)を観た。

メキシコの田舎の貧しい農家に育ったレオナルド少年。
母の葬式を終えた晩、落雷で倒れた大木の下敷きで死んだ母牛のそばに、生まれたばかりの黒い子牛をみつけて家に連れ戻る。
父親から育てることを許可を得て、闘牛用の猛牛の子にも拘らず“ヒタノ(ジプシー)”と名付けられた子牛は少年によくなついた。
だが「ヒタノは雇主である牧場主の所有だから烙印を押さねばならぬ」と父親から聞かされたレオナルドは、学校の先生の助けを借り牧場主に手紙を送る。
それを読んだ牧場主は、子牛をレオナルドに譲ると約束した。

2歳を迎えたヒタノは、逞しく育ち、闘牛用のテストにも勇猛ぶりを見せた。
たまたま、レオナルドが学校を卒業した日、牧場主は自動車レースによる不慮の事故死をする。
やがて牧場主の財産処分となり、レオナルドは牧場主からの譲渡証明の手紙を探しても見つからず、ヒタノが自分の物であることを証明できなかった。
そのためヒタノは競売に掛けられ、メキシコ市の闘牛場へ送られることになって・・・
(Movie Walkerより大幅修正)

児童映画とまでは言わなくても子どもと子牛が主役となっていて、大人の世界の都合によって当人たちが何度も引き離されそうになったりする。
だが、ここには悪意のある人物は現われない。
そのことが単純というか、筋の起伏はあっても単調なところともなっている。
しかしそのことが反って、レオナルド少年の子牛ヒタノに対する一途の思い、愛情がヒシヒシと伝わってくる要因ともなっていて、観ていていいなと思う。
そのいい例が、終盤近く、レオナルドが首都メキシコシティーへ行ってから、ヒタノの闘牛をストップさせようと大統領に会うカラクリは余りにも能天気すぎ、でもそれも良しかなと思えてしまう。

ただ全体的にそんなヤワな作品かと言えば全然そうではなくって、ラストに向かっての闘牛ヒタノと闘牛士による長い闘牛場シーンは、驚くほどの観客の多さもさることながら興奮のるつぼと化す。
そしてラストシーンのレオナルドとヒタノに向かって、いい映画を見せてくれたねと拍手を送りたくなる。
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イエジー・カヴァレロヴィチ監督の『夜行列車』を観て

2022年04月13日 | 1950年代映画(外国)
『夜行列車』(イエジー・カヴァレロヴィチ監督、1959年)を観た。

サングラスをかけた中年男イエジーは、ワルシャワ駅から北上しバルト海沿岸の避暑地へ向かう夜行列車に乗ろうとする。
生憎、指定券を忘れた彼だが、独りになりたいために女性車掌と交渉し、15,16号室の指定席を確保する。
しかしこのコンパートメントに行くと、若い女性が占有していて決して席を空けようとはしなかった。

結果、イエジーは見知らぬ女マルタと個室を共にすることになり、夜行列車はいろいろな人々の思惑を乗せて走り出した・・・

同室になったイエジーとマルタは仕方なく会話を交わすが、話は噛み合わず、ギクシャクした感情のまま列車に身を委ねる。
なぜイエジーは独りになりたかったか。
マルタはなぜ孤独そうなのか。
列車の狭い通路で新聞を読む客の記事には妻殺しで逃亡中の事件が載っている。

名前も何も知らない他人同士が乗る列車の中の会話では、通り一遍的で深くその人物の人となりは見えてこない。
老牧師と若い牧師、不眠症に悩む男、独身主義のハゲの男、そして隣室の老弁護士とその妻など様々な人々。

老弁護士の妻は、溜め込んだストレスのために刺激を求めてイエジーに色目を使う。

二等車両には、マルタへの未練を捨て切れずにいる若いスタシェクが乗り込んでいる。
列車内では、満員の普通席の二等車両から指定席の一等車両へは遮断されていて行くことができない。
だからスタシェクは、熱がさめている感じのマルタにどうにかして会おうと必死である。

列車は走り続け、時と共に徐々に明らかになってくる人々の内面。
臨時停車。
そこに警察が乗り込んできて、16号室にいるイエジーに手錠を掛ける。
イエジーとしては何のことか訳が分からない。

物語はスリリングな展開と張り詰めた雰囲気で盛り上がっていく。
その緊張感を醸し出す、走り続ける列車の音。

狭い個室や通路の空間を巧みに使用したカメラワーク、その人々の顔の描写。
少ない会話から滲み出てくる、個々の人物の内実。
そして最後に、朝、終着駅のホームに降り立ってバラバラに分かれていく人たち。
トランクを持って、静かに、白波の見える砂浜を一人歩き続けるマルタ。

映画はサイレントから生まれて来たように、本来、このように無駄がない映像で見せるべきだと言う見本ような作品であった。
それ程、見事に映画の本質を突いていると、これこそ真の傑作の一本であると、思った。
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イエジー・カヴァレロヴィチ監督の『影』を観て

2022年04月11日 | 1950年代映画(外国)
『影』(イエジー・カヴァレロヴィチ監督、1956年)を観た。

ドライブする男女の目の前で、並行する列車から男が飛び降りた。
驚いた二人がその場に行ってみると、男の顔は潰れ、身許の手がかりになるものはなかった。
この男を検死した医師クニシンはこれがキッカケで、戦時中に起こった地下抵抗組織に関するある事件を語った。

当時、地下抵抗組織に属していたクニシンは、ワルシャワ郊外の修理店を連絡所として活動を続けていた。
ある日、武器調達資金を得るために、クニシンの班はドイツ軍と関係があるポーランド人の店を襲った。
しかし、金を手にしようとした丁度その時、突如、別の一隊がやってきて、お互いに敵と誤認した同士で激しい銃撃戦となった。
そして、クニシンを除いて二グループの全員が死傷してしまった。

偶然にしては筋立が上手すぎ、クニシンはそれ以後、この事件に疑惑を感じた・・・

先の鉄道事故の直後に無賃乗車し逃げた青年、ミクワが近くの駅で捕らえられた。
ミクワは無賃乗車した理由を拒み、公安のカルボフスキが彼を引き取るために駅に行った。
そしてカルボスキは、戦争直後のある出来事を思い出す。

大戦直後でポーランド国内がまだ混乱し不安定な状態の頃。
共産党員の中尉カルボフスキは、ヤシチカと言う兵士と共に、"小隊"と呼ばれるヤクザな集団に潜入することになった。
うまく騙したつもりで相手の隊長の部落にたどり着いたが、実はヤシチカはその集団の一味だった。
カルボフスキは自分が持っていた手榴弾で危機一髪の難を逃れたが、両脚を粉砕してしまった。
誰がヤシチカをスパイとして送ってきたのか。

1956年現在、捕まったミクワの話。
炭鉱で働いていた彼は、ある有力者に坑内に入るよう命じられた。
その直後、坑内で火災が起きて犠牲者が多数出、彼は放火の疑いで追われる。
ミクワは身の明しのため、自分を依頼したその有力者を捜す。
そして、ついにその男を列車の中に追い詰めて突き落とそうとしたのだった。

このように作品の中に、三つの事件がなぞとして描かれている。
1943年の第二次大戦期ドイツ占領下での、外科医クニシンの回想と、
1946年の大戦直後の、公安高官カルボフスキの回想。
そして、1956年現在の炭坑労働者の青年ミクワの話。

互いに関係のなさそうな事件の背後に、影となる人物が浮かび上がりひとつに繋がっていく。
その時々の時代を背景としたサスペンス調の手法に一時も目が離せず飽きない。
さすが、その後のポーランドでもっとも重要な監督の一人となるだけあると感心した。
次は、このカヴァレロヴィチの『夜行列車』(1959年)を観る。
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『避暑地の出来事』を観て

2022年03月17日 | 1950年代映画(外国)
ずっと観たいと思っていた念願の『避暑地の出来事』(デルマー・デイヴィス監督、1959年)をやっと観た。

アメリカ東海岸メイン州の避暑地の島。
かつては名門だったハンター家のリゾート・ホテルに、20年ほど前、救命監視員として雇われていたケン・ジョーゲンソンが妻と娘を連れて休暇にやって来た。
今はビジネスに成功しているケンに対して、ハンター家のバートは落ちぶれた状態にある。
ケンの娘モリーとバートの息子ジョニーはすぐに親しくなり、次第に愛し合うようになる。
片や、昔恋仲だった関係のケンとバートの妻シルヴィアは、再会して恋の炎が再燃していく。

ある日、ジョニーとモリーは小型ヨットで沖に出かける。
しかし、やがて激しい風雨にさらされヨットは転覆し、二人は小島で一夜を明かす。
翌日、救出されたモリーを母ヘレンは激しく怒り、ジョニーと今後逢わせないために、その後、娘を遠くの学校に転校させる。
引き裂かれた二人は、手紙でやりとりし・・・

50年代の、青春恋愛ドラマ。
若い男女の恋愛ストーリーに、夫婦仲の冷めた両方の親の恋愛が絡んでくる。
親世代のケンとシルヴィアの仲は、昔、シルヴィアの母によって裂かれている。
そして、今、ジョニーとモリーの仲をモリーの母が裂いている。

ジョニーがトロイ・ドナヒューで、モリーがサンドラ・ディー。
よく有りそうなつまらなさそうな展開で、そして最後には当然ハッピー・エンドだが、私には飽きが来ない。
それは何と言っても、サンドラ・ディーが見れたため。それだけで十分、お釣りがくる。
それに、元々、どうしても一度は鑑賞しておきたかったのは、例の“夏の日の恋”の旋律の使われ方に興味があったため。
やはり、マックス・スタイナーのこの主題曲がうまくマッチしていて、ムードを大きく盛り上げていた。
だから見終わって意外にも十分に満足ができ、こういう作品もいいなと思った。

【YouTubeより“夏の日の恋”~パーシー・フェイス楽団】


中学生の頃、ラジオでポピュラー音楽を聞き出した時、流れていたトロイ・ドナヒューの“恋のパーム・スプリングス”。
その映画『パームスプリングの週末』(ノーマン・タウログ監督、1963年)もチャンスがあったら観てみたいと思っている。

【YouTubeより“恋のパーム・スプリングス”】
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イングマール・ベルイマン・4~『不良少女モニカ』

2022年03月15日 | 1950年代映画(外国)
『不良少女モニカ』(イングマール・ベルイマン監督、1953年)を観た。

スウェーデンの港町。
陶磁器店の配達係をしているハリーは、カフェで、煙草の火を借りるモニカと知り合う。
八百屋で働くモニカが「今夜映画に連れてって」と、ハリーに誘う。
要領も悪く大人しいハリーは、モニカとの出会いに幸せを感じる。

映画を観たあと二人は湾の見える丘に行き、恋は急速に進んでいく。
その後、ハリーの家を訪れたモニカだったが、ハリーの父が帰ってきて二人の抱擁は中断される。

狭いアパートで家族と暮らすモニカは、酔っぱらいの父親と喧嘩をし家出を決意する。
その足でハリーの家へ行くけれど、家にモニカを泊まらせるわけにもいかないハリーは、二人して父親の所持している船の船室に向かう。
一夜を過ごしたハリーは、翌朝、寝過ごしてしまってそこから職場へ向かったが、雇い主から遅刻の苦情を言われ仕事を辞めてしまう。
ハリーはせいせいして船に戻り、家に帰りたがらないモニカと共に、幸せに満ち足りた気分一杯で、人気のない岸辺に向かって自由に船を走らせていった・・・

ハリーが19歳でモニカは17歳。
8歳の時、ハリーの母親は亡くなっていて、父親と二人暮らしをしている。
その父親も具合を悪くして療養所に入り、叔母が世話をするようになる。
片や、モニカの家では彼女の下に3人の幼な子がいて、アパートの部屋も小さく、モニカは常に落ち着かない状態にいる。
そんな二人が出会って、それこそ二人だけの幸福のときを過ごす。
そして、モニカは妊娠する。

ハリーの叔母の計らいでめでたく二人は結婚したが、若い二人にとって生活の現実は甘くはない。
ハリーはモニカと子のために仕事をし出したが、モニカにはこの貧しい生活が耐えられなくなっていく。
まだ青春を謳歌できる年齢のはずのモニカにとって、今の現実が耐えられない。
家庭のために将来に向かって希望を持ち続けるハリーだが、モニカに対してどのようにも対処ができない。
社会は貧しい若者の家庭に対し、努力の方法もなくうち捨てていく。
貧しさが二人を傷つけ、その結果、破局に至り離婚する。
だがハリーは、モニカの想い出を抱き、引き取った子を育てようとしていく。

この作品は以前に観たように記憶していたが、実際に観てみたら初見だった。
ベルイマン作品を劇場で意識して観るようになったのは、『仮面/ペルソナ』(1966年)以後だから、
それ以前の作品をテレビで観たりしても相当数の作品が未見のままとなっている。
私にとってこの監督は昔から重要な人なので、少しずつでも今後も観ていこうかなと考えている。
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『危険な関係』(1959年)を観て

2022年02月08日 | 1950年代映画(外国)
『危険な関係』(ロジェ・ヴァディム監督、1959年)を観た。

外交官バルモンとその妻ジュリエットが自宅でパーティーを開き、そこには大勢の知人たちが訪れた。
この夫婦はみんなの間では、女性との恋愛を楽しむバルモンと、一方は貞淑な妻ジュリエットで通っていた。
だが実は、二人はそれぞれ複数の愛人を作って、その情事の報告をし合うことを楽しんでいた。

バルモンはパーティーで、17歳の従姉の子セシルが妻の愛人だったアメリカ人のコートと婚約したことを知る。
そこで妻ジュリエットはバルモンに、コートを出し抜いてセシルを口説き落とすよう勧める。
一方、セシルは貧学生のダンスニを好いていて、彼との結婚に憧れていた。
しかしダンスニは、学業や兵役の後にしか結婚を考えていなかった。

バルモンは、セシルがクリスマスを過ごすために友達と来ていたスキーリゾート地へ行く。
セシルをものにしようとしていたバルモンだったが、そのスキー場で美しいマリアンヌと出会い、心を奪われてしまった。
バルモンはマリアンヌを射止めようと考えたが、幼い女の子の母でもあり司法官の妻である貞淑な彼女は、バルモンの誘いには乗ってこなかった。
そこでバルモンは作戦を考え、マリアンヌに今までの自分の恋の遍歴を正直に打ち明け、誠実な人間であるところをみせた。
それでもやはり、マリアンヌの身持ちは固かった・・・

夫婦間でのゲームとしての情事の報告。
その恋の駆け引きを聞くジャンヌ・モローと、報告するジェラール・フィリップ。
そこには、変形したドロドロとした愛情表現が見え隠れする。

映画はパーティー場面から始まるが、集まる者たちの人物説明がないので判りづらい。
これは退屈な作品だなと諦めて観ていると、スキー場シーン以後、徐々に面白くなってくる。
後半に至っては、バルモンとマリアンヌ、バルモンとセシル、セシルとダンスニ、ジュリエットとダンスニ。
そして、バルモンとジュリエットの夫婦間の愛憎。
それらが絡み合って、何とも言えない満足感を味わう、そんな作品だった。

それに、十代にレコード購入したアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの『危険な関係のブルース』や、
セロニアス・モンク四重奏団の演奏も聴けてとっても嬉しかった。

【YouTubeより】 Art Blakey's Jazz Messengers - No Problem

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『突撃』を観て

2021年02月20日 | 1950年代映画(外国)
『突撃』(スタンリー・キューブリック監督、1957年)を観た。

1916年、独仏戦争。
戦線は膠着状態となり、前線では強固な要塞と塹壕が造られていた。
その頃、パリから師団司令部に来たブルラード大将は、ミロウ将軍に「前線を完全突破するため、明後日までに“アリ塚”を奪え」と司令部が決定したと伝える。

ミロウ将軍から命令を伝達された歩兵連隊長のダックス大佐は、「無謀な攻撃は兵士を犠牲にするだけ」と抗弁するが、作戦は実行に移される。
しかし、ドイツ軍の応戦が激しくて隊は前進できなくなる。
それを知ったミロウ将軍は我慢ならず、味方陣地に砲撃を加えるよう命令する。
だが砲兵指揮官は署名文書がなければと抵抗し、結果、隊は敗退し元の壕に退却する羽目になる。

ミロウ将軍は作戦が失敗したことに怒り、翌日、軍法会議を召集することに決定した・・・

3中隊から1名ずつ、見せしめのために、罪人として3名が選ばれてくる。
一人目のパリス伍長。
上官のロジェ中尉とパリス、もう一人ルジューンが作戦前段の偵察に出た時、臆病風に吹かれたロジェ中尉の投げた手榴弾によってルジューンは死に、
それを知っているパリスは中尉から指名を受けた。
二人目のアーノー二等兵は、、過去に2回も表彰されているにも関わらず、くじ引きで決まった。
そしてフェロル二等兵は、上官から社会的に好ましくない人物として選ばれている。

軍法会議で弁護人を買って出たダックス大佐は鋭く問題点を突くが、所詮は形だけの裁判である。
当然のごとく3人は、敵前逃亡の罪名の下に死刑を言い渡される。

ダックス大佐は、いろいろと手を尽くそうとするが為す術もない。
獄中のアーノー二等兵は、やって来た教誨師を偽善だと殴りかかり、そのためパリスから殴られて頭蓋骨骨折をする。
処刑は翌朝7時である。
ダックス大佐は、ロジェ中尉を射殺隊長に選ぶ。
ロジェが生け贄としてパリスを選んだように、ダックスは臆病なロジェにわざと任務を与える。

組織の中の絶対命令。その理不尽さ。
それが戦時中の軍隊で剥き出しとなる。
アーノー二等兵は、頭蓋骨骨折してほどんど意識がないにも関わらず、ベットに縛られて立った形で銃殺される。
要は、上部権力者の野心と名声のために、下部組織の人間の命は取るに足らないもの、単なる駒となっている。

そのことを、まだ30歳にもならないキューブリックが、主演カーク・ダグラスとチームを組んで痛烈な表現で教えてくれる。
昔、テレビで見て朧気ながらの印象しか残っていなかったが、今回観て、これ程までの傑作かとの印象を新たにした。
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『女ともだち』を再度観て

2021年01月24日 | 1950年代映画(外国)
『女ともだち』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1956年)を再度観た。

場所はイタリアのトリノ。
クレリアは洋装店の支配人として着任するため、ローマからやって来る。
宿泊するホテルに着くと、隣りの部屋で若い女が自殺未遂を起こす事件に遭遇する。
警察の聴取を受けたクレリアのところに自殺未遂者ロゼッタの友達モミーナが訪れて、ロゼッタの行為の原因を知るための協力をクレリアに頼む。
これが切っ掛けとなって、クレリアはモミーナの女友達ネネ、マリエッラとも知り合う・・・

正直言って、しんどい作品である。
5人の会話体の物語に、その相手となる男たちも絡んでくる。
その物語の先は、どこへどのように落ち着くかは後半になるまでわからず、観ていても常に不安定さがつきまとう。
それがアントニオーニの狙いと言ってしまえばそれまでだが観ている方は落ち着かない。

話はこうである。
モミーナは夫との関係が冷え切っていて、愛人と情事を重ねている。
女流彫刻家のネネは画家ロレンツォを夫としているが、自殺未遂したロゼッタはこのロレンツォに恋している。
ネネは夫とロゼッタの関係を知っていながら、絵画個展が失敗したロレンツォの苦しみも理解している。
ローマから着任したクレリアは、開店予定の店を設計しているチェザレの助手、カルロと恋仲になる。
モミーナは設計士のチェザレを部屋に誘う。

クレリアは、自殺未遂から回復したロゼッタが立ち直るために、ロレンツォを諦めて自分の店で働くよう勧める。
しかし、モミーナはロゼッタの恋心を知ると、内心面白がってけしかける。
こうなるとロゼッタは益々ロレンツォに夢中になり、クレリアの言葉も届かなくなる。

クレリアの店の開店祝いでのファッション・ショーに女友だちが集まる。
ネネはロゼッタに、ロレンツォを譲って自分は個展を開くためにアメリカへ渡る覚悟だと話す。
ロゼッタはネネからの言葉をロレンツォに話す。
それを知ったロレンツォは、ネネの心持ちを察してロゼッタに別れを告げる。
ロゼッタは絶望し、自殺して本当に死んでしまう。

クレリアはロゼッタを煽ったモミーナに怒り、人前で罵倒する・・・

話は終盤に向かってまだ続くが、ここにあるクレリア以外の女友だちの世界は、欺瞞とか虚飾で溢れている。
そればかりか、妬みも絡んで粉飾された上流社会の中で、彼女らの内心はドロドロしている。

アントニオーニの言わんとすることはラストの方になって理解できてくるが、
それにしても前半をもう少し単純にするとかして分かりやすくしてほしかった。

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『さすらい』を再度観て

2021年01月02日 | 1950年代映画(外国)
『さすらい』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1957年)の内容の記憶があやふやなので、この際もう一度観てみた。

場所は北イタリア、ポー河沿いのフェッラーラ地方で、そこの寒村ゴリアーノ。
製糖工場に勤めるアルドは、イルマと同棲して七年になり、二人の間には娘のロジーナがいる。

ある日、役場に行ったイルマは、別居している夫がシドニーで亡くなったと知らされる。
アルドはこれを機に結婚しようとするが、イルマは拒否する。
そしてイルマはアルドに、もう一緒には暮らせないと言う。
理由は、好きな若い男がいるからと言う。
アルドは動転し、こんなに愛しているのにどうしてなのか、と問い詰める。
イルマは、アルドを愛しているがもうダメなのだ、と意志が固い。

逆上したアルドは村人が大勢いる路上で、イルマの顔を何度も平手打ちする。
そしてその後彼は、娘のロジーナを連れて村を後にする・・・


村を出たアルドは、イルマと一緒になる前の元婚約者エルヴィアを訪ねる。
独り身のエルヴィアはアルドを暖かく迎え入れ、二人はヨリを取り戻そうするが、満たされない思いのアルドはこの家をロジーナと出て行く。

二人は、道路脇の一軒のガソリンスタンドでヒッチハイクで乗ったタンクローリーから降りる。
ここのガソリンスタンドは、独身のヴィルジニアが手の焼ける老父を抱えながら切り盛りしている。
寝る場所もなく困っているアルド親子にヴィルジニアは、小屋で寝起きすることを許す。
翌日アルドがガソリンの給油を手伝ったのをきっかけに、女盛りで淋しい思いのヴィルジニアとの間は急速に親しくなる。
だがヴィルジニアは、ロジーナの世話を段々嫌がりだして、アルドはやむなく娘を一人バスで故郷のゴリアーノに行かせる。
その後、やはりアルドは空虚な思いでヴィルジニアの所から離れていく。

仕事を探しながら道を行くアルドは、河岸の雨漏りする小屋に住むアンドレイーナを手助けし、泊めてもらう。
娼婦のアンドレイーナは、住む家があっても食べ物がなくてはどうすることもできないと、雨の中、相手を探しに行く。
追いかけたアルドだったが、やはりアンドレイーナと決別していく。
そして行き先のないアルドは、イルマのいる村ゴリアーノに向かう。


主になる物語は、アルドが娘ロジーナを連れて、あてもなく仕事を探しながら道をさすらう姿。
途中で知り合った女性は親切であったりしてアルドを愛するが、それでもアルドは満たされない。
アルドにとって、どうしてもイルマの別れにいたる心情がわからない。
普通に愛し合っていての突然の決別宣言は、一体どのような意味なのか。

アントニオーニが実際に当時の妻からこのことを突きつけられて、その結果として出来た作品だという。
だからここには、アントニオーニの苦悩が如実に表われているのではないかと感じる。
それにしても、ラストの、たどり着いたアルドが家の中のイルマを見た光景のショックは計り知れないものだったはずである。
そしてその後の悲劇に対して、イルマの取り返しの付かない絶望も想像を絶する。
 
この映画は、陰影の富んだ白黒画面の中に、寒々とした心境風景を的確に描いた真の傑作といってよい作品だった。
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