ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

アキ・カウリスマキ・5~『パラダイスの夕暮れ』

2022年09月01日 | 1980年代映画(外国)
『パラダイスの夕暮れ』(アキ・カウリスマキ監督、1986年)を観た。

ゴミ収集人で独身のニカンデルは、毎日同じ仕事の繰り返しでも真面目に働いている。
ある日年上の同僚から、独立してこの仕事を起ち上げようと誘われる。
その日、うっかり腕に怪我をしたままスーパーに行ったニカンデルは、それを見たレジ係のイロナに手当てをしてもらう。

独立に気乗りしたニカンデルは、英語リスニング教室まで通い出したが、勤務中同僚は、突然に心臓発作で亡くなってしまう。
ショックを受けたニカンデルは、飲食店で大量に酒を飲んで暴れ、その挙げ句、留置場の厄介になる。

留置場を出たニカンデルは、職場に掛け合って、同室だった失業中の男メラルティンを採用してもらい、二人はコンビとしてゴミ収集をし出す。
スーパーのゴミ収集時、裏口にいたイロナを見たニカンデルは、勇気を出し、翌日のデートの約束をもらう・・・

味気ない生活をしているニカンデルが、思い切って、たぶん生涯初めて女性にデートを申し込む。
当日、一張羅に、手には花束。
ただ、不器用なニカンデルが選んだデートの場所は、みんな黙々とビンゴをしている場所。
観ていて“こりゃアカンわ”と思ったら案の定、イロナから今後の付き合いは無しにされる。

そのイロナは、経営不振を理由として勤め先のスーパーを解雇されてしまう。
腹いせに店の手提げ金庫を盗んだイロナは街をさまよい、偶然にガソリンスタンドで給油中のニカンデルと出会って、彼に遠くへ行こうと誘う。
再度チャンスを得たニカンデルがまず寄った所は、友人となったメラルティンの家。
その理由は、デートのお金をこっそり工面するため。
メラルティンはお金を奥さんに頼むが拒否され、寝ている子どものお小遣いを失敬してニカンデルに渡す。
ニカンデルとメラルティン、二人の寡黙の友情が微笑ましく、とってもいいなぁと納得する。

この後、やはりニカンデルとイロナは気持ちのすれ違いがあったりしてうまくいかなくなるが、
カウリスマキはそこの辺りをテキパキと手際よく演出して進む。
その進み具合で見えてくるのは、ニカンデルとイロナは、上手に言葉には表せなくってもやはり相手のことを一途に想っているということ。

ついつい、この二人に惜しみなく声援がしたくなり、心情的にこの作品はピッタリだな、と我ながら納得する。
言い方に語弊があるかもしれないが、不細工な若い男女の不器用な恋の顛末で思い出すのが『マーティ』(デルバート・マン監督、1955年)。
このような作品は、美男美女が出てきてウットリとする作品よりも、はるかに心に強烈な印象を残し、いつまでも慈しみたい気持ちになる。
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アキ・カウリスマキ・4~『真夜中の虹』

2022年07月03日 | 1980年代映画(外国)
『真夜中の虹』(アキ・カウリスマキ監督、1988年)を観た。

フィンランドの北の地の鉱山で働いてきたカスリネンと父だったが、閉山となり仕事がなくなってしまった。
父はカスリネンにキャデラックを譲り自殺してしまう。
カスリネンは有り金を全部下ろし、仕事を求めて南の地に向かってキャデラックを走らせる。

途中、ハンバーガーを買うための財布を見た地元の二人組がカスリネンを殴り、その有り金すべてを奪って逃げてしまう。
仕方なくカスリネンは日雇い仕事を始め、その日の食べ物と教会宿泊所に寝る場所を求める。

そんなある日、駐車違反を取り締まり中の女性イルメリと出会う。
二人は食事に行き、その日はイルメリの家に泊まる。
イルメリは夫と離婚して息子リキと暮らしていて、家のローン返済のためにいくつもの仕事を掛け持ちしていた。

カスリネンは仕事を求めていろいろと探すが、滞納のため教会宿泊所も追い出され、とうとうキャデラックを売る羽目になる。
そんな時偶然に、金を奪った男を見つけ追いかける。
男はナイフを振りかざし抵抗したが、カスリネンはそのナイフを奪って男を押さえつける。
しかしその時、警官がやって来てカスリネンは逮捕されてしまう・・・

結果は、強盗殺人未遂等による1年11ヵ月の懲役刑。
刑務所では寡黙なミッコネンと同房になり、なぜか意気投合。
ミッコネンは、殺人罪で服役中の身で出所までに後8年もあり、もう我慢の限界が来ている。
片やカスリネンはイルメリと一緒になりたいために、一刻も早くここから出たい。
二人は、脱獄して遠くの地へ行ってしまいたいと望む。

脱獄計画は成功し、外国へ逃亡するための偽パスポート資金を得るために、本当に銀行強盗をして、と話の展開は段々ハードボイルド・タッチになっていく。
カスリネンとイルメリは、教会でミッコネンを仲人として結婚式を挙げ、幸せに浸る。
その後、ミッコネンは運悪く亡くなってしまうが、カスリネンとイルメリ、息子のリキは夜、メキシコ行きの客船に向かってボートを走らせる。
そしてラストに流れる『「オーバー・ザ・レインボー』。
この曲の効果によって、三人の行き末の希望が自然に垣間見えてきたりしてホッコリとなってしまった。
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アキ・カウリスマキ・3~『ハムレット・ゴーズ・ビジネス』

2022年06月30日 | 1980年代映画(外国)
『ハムレット・ゴーズ・ビジネス』(アキ・カウリスマキ監督、1987年)を観た。

大企業の社長の座を自分のものにするため弟クラウスは、社長の飲み物に毒薬を垂らす。
社長は亡くなり、その妻と愛人関係のクラウスは重役のポロニウスと結託する。
ポロニウスは、会社株の51%を所有することになった社長の息子ハムレットを骨抜きにしようと娘オフェリアを近づかせる。
案の定、ハムレットはオフェリアに夢中になり、だがオフェリアは“結婚するまでは”と身体を触らせない。

ハムレットの母と再婚したクラウスは社長となり、この会社を利用して多額の保険金を搾取しようと企む。
一方、ノホホンとした感じのハムレットは、会社のことはよくわからない振りをして、実はこの計画を盗聴していた。
そんなある夜、ハムレットの前に父の亡霊が現われ、毒殺されたから自分の仇を取って欲しいと訴える・・・

「ハムレット」を下地にしたカウリスマキの現代風ハムレット版と言ったらいいのか。
シェイクスピアの「ハムレット」を読んだのは十代だし、ローレンス・オリヴィエの『ハムレット』(1948年)を名画鑑賞として観たのも十代。
あれから50年以上は経っているので、本も、映画も、凄いなとの印象は残っていても筋はあらかた残っていない。
だから今回このカウリスマキの作品を観て、話の粋筋の面白いこと、それはそれは飽きが来なかった。

深刻な内容のはずの、その骨格を十分に捉えて軽くいなす仕方、唯々“凄いね”と感心する。
それと対の、オリヴィエの『ハムレット』の先程の記憶。
オリヴィエの『ハムレット』は最高だとの思いから、相当前からDVDを所蔵しそれに安心してしまって、あの時代からこの方観ていないので暇な時じっくりと観てみたい思いに揺り動かされた。
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『レイニング・ストーンズ』を再度観て

2021年02月01日 | 1980年代映画(外国)
随分と前に観た『レイニング・ストーンズ』(ケン・ローチ監督、1993年)を再度みてみた。

失業中のボブは、娘のコリーンの聖餐式のために白いドレスを買ってやりたいと願っている。
彼は仲間のトミーと羊泥棒をしたり、金になることなら何でもやるがうまくいかない。
下水道掃除に行った先の教会のバリー神父から、生活さえままならないのに娘の聖餐式にそこまで見栄を張る必要はないと諭されるが、ボブは耳を貸さない。
ある日ボブは、妻のアンとコリーンを連れて洋品店を訪れたが、ドレスの値段を聞いて驚く・・・
(MOVIE WALKER PRESSより修正し一部抜粋)

場所は、イングランド北西部のマンチェスター。
ボブは、7歳の娘コリーンが初聖体拝領を受ける時のドレスを新調するために、失業中で生活もにっちもさっちもいかないのに、金を工面しようと悪戦苦闘する。
下水道掃除の後はディスコの警備員と、ボブは努力してみるがそこでもトラブルが絡む。

それでもボブは、娘のためにひいては自分のためにこだわりどうにかしようとする。
バリー神父だって、中流階級の親はこの日のためにあまり金をかけないと、処世術を教えてくれているのに。
ボブが警備員の仕事を叩き出され、妻のアンも裁縫の仕事をしようと必死になるが、慣れないためにすぐにクビになる。

それでもボブは、親友トミーらと手入れのよい庭の芝生を剥がして盗んだりとかしながら、どうにか娘に白いドレスを買ってやることができた。
しかし、これでメデタシ、メデタシになったかと言うとそうではない。
アンがコリーンのために家でクッキーを焼いていると、そこに突然、高利貸しのタンジーがやって来て借金の返済を要求する。
ボブはタンジーから借金をしていたわけだ。
タンジーは、何も知らないアンから少ししかない現金と結婚指輪を強引に奪い取ってゆく。

それを知ったボブは、逆上してスパナを懐に入れタンジーを追う。
タンジーが持つ借用書によって人生が台無しにされると必死なボブは、地下駐車場でタンジーを追い詰める。
タンジーは車を発進させ、逃げようとして誤って柱に激突し息絶える。

ボブは良心の呵責に耐えきれず、バリー神父を訪ねる。
そんなボブに神父はどう答えるか。
神父の考え方は実に現実的で、返ってボブの純粋な人間性が際立つ。

ラストでボブの住居に警官が訪ねて行く。
こんなに貧しく細やかなボブの家庭の中に、無惨にも権力が入り込むのかと思いきや、ケン・ローチはこの底辺の人々を暖かく包み込む物語とする。
これがケン・ローチの人間への共感性だと、いつしか胸が熱くなる。
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ロベール・ブレッソン・7~『ラルジャン』

2019年05月09日 | 1980年代映画(外国)
『ラルジャン』(ロベール・ブレッソン監督、1983年)を観た。

現代のパリ。
高校生のノルベールは、父親にお金をもらおうとして断られ、借金を返せなくなり、クラスメートの友人に相談。
彼はノルベールに一枚の500フラン札を渡すがそれはニセ札で、カメラ店で安い額縁を買い女主人からツリを貰う。
後にニセ札だと気づいた主人は妻をなじったが、ガソリンの集金に来た若い店員イヴォンに黙って支払った。

それをカフェの昼食代に使おうとしたイヴォンは、カフェの店主と争って警察に通告された。
イヴォンは刑事とともにカメラ店に行き、潔白を証明しようとするが、主人はイヴォンの顔に見おぼえがないという。
幼い娘と妻エリーズがいるイヴォンは裁判に掛けられ、カメラ店の若い店員リュシアンも偽証して・・・
(Movie Walkerより)

その後、イヴォンは有罪にはならなかったが失職し、理由も知らずに銀行強盗の片棒を担ぎ、再び逮捕される。
結果、3年間入獄することになる。
その獄中のイヴォンのもとをエリーズは黙って去ってゆく。

一方、偽証したリュシアンは、店のカメラの値段を誤魔化して差額を着服し、それが元でクビになる。
そのため、店の金を盗んだのを始め、詐欺、窃盗をしては他人に施し、慈善事業みたいなことをする。

妻に見捨てられ、子供も病気で失ったイヴォンの人生は、元々は無実の嫌疑から出発しながら、どんどん悪い方向へと邁進する。
出所後は、泊ったホテルの夫婦を殺害し金を奪ったりする。
そして、後をつけていった老婦人に、親切にも納屋に泊めさせてもらい、そこに留まりながらも、最後には一家を惨殺する。

この作品は封切り時に劇場で観、その感想は、内容が理解不可能で一人取り残されたようなモヤモヤ感だけが漂った。
それを今回また観て、結局は、『バルタザールどこへ行く』(1966年)の時も感じたように、物語の流れが分かりにくかった。
要は、状況説明が一切ないために、筋がどうなっているのか一度観ただけでは理解しにくい。

例えば、二度に渡っての殺害時。
そのシーンは、具体的には描かれない。
特にホテルの場面では、間接的に、手を洗う水道水に多少血が混じる程度でお終い。
それを想像力でカバーしようとしても、場面はもう先に進んでしまっている。

そればかりか、いくら金のためといえ、何で殺人までするのか理由が何も示されない。
これがブレッソン流なのだと言い返されれば、それはそうなのだが、つまり心理描写をすることを拒否している。 
場面と場面の間(ま)が完全に省略されているので、続けて二度鑑賞してやっと全体が理解でき、成る程と頷く。
そうなると予備知識なしで、お金を払って劇場で観た時は、よく理解できなくって損した気分だけが残ったのは当然か。
そのように意識的に演出された作品群の中で、この作品がブレッソンの遺作となってしまい、そのことが印象に残る。
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『グロリア』(1980年)について

2016年04月03日 | 1980年代映画(外国)
『ローズマリーの赤ちゃん』の記事の中で少し触れた『グロリア』(ジョン・カサヴェテス監督、1980年)について書いてみようと思う。
後の『レオン』(リュック・ベッソン監督、1994年)が、この映画をどれほど意識したのか知らないが似たような設定をしていた。
もっとも、あの映画も印象が強くて好きだが、こちらの方がもっと強烈な記憶を私に残した作品だった。

ニューヨークのサウス・ブロンクス。
あるアパートを数人の男たちが取り囲む。
そこの住人、ジャックはギャングの会計係をしているが、組織の金を横領したうえにFBIに情報を洩らした。
そのために彼らから命を狙われるはめになってしまった。
丁度その時、同じフロアのグロリアがコーヒーを飲みにジャックの家に来た。
怯える一家の異常な雰囲気の中で、ジャックは6歳のフィルを預かってくれとグロリアに頼む。
そして、情報の詳細を記した手帳をフィルに託して・・・・

出だしの雰囲気から、いっ時も画面から目が離せない。

緊迫した状況のなかをグロリアは、フィルを連れて逃げる。
二人がいくら逃げようとしても、相手はギャング、マフィアである。
その先々で情報網が張り巡らされている可能性がある。
グロリアに疲れが滲み出て来る。

グロリアは、もともと子供が大嫌いである。
フィルを守るにしても、なんで私がこんな危ない目に合わなければいけないのと思う。
それでも、容赦なく危険が迫る。

さあ、ここからである。
グロリアの本来の強さが発揮される。
追い詰めて来た相手に銃をぶっ放す。
レストランでも“公衆の只中であんた達、人が殺せるか”と、お客が呆然としている中で、逆に銃を突きつける。
まだまだ、ある。
地下鉄の電車のなかに乗り込んできた相手を、思いっきり殴る。
要は、群衆の中での機転の利く対処のしかた。
その度胸の良さと賢さ。女性だからと言って侮ってはいけない。

じゃ、なんでこのおばさん、綺麗だけどやっぱり少しおばさん、そんなに強いの?と思う。
それには、ちゃんと理由があった。なるほど、そんな訳なら強いわけである。

“ジーナ・ローランズ”様。
むちゃくちゃカッコよくって、服装もずばり決まっていました。
これを観てしまった男の私でも、その強さに憧れてもう忘れられない。
ああ、ジーナ様、ラストも感激しました。
子供嫌いなあなたの、その変わる姿を見て。大好きです。
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忘れ得ぬ作品・2〜『エル・スール』

2016年01月22日 | 1980年代映画(外国)
1985年にビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』(1973年)が日本公開され、その評判からか同年に、長編二作目の『エル・スール』(1983年)も公開された。
前作のみずみずしさに感銘し、この作品が公開されるや、すかさず観に行った記憶が残っている。

場所は、スペインの北の地。
父アグスティンがもう帰ってこないと、エストレリャが予感したのは15歳の時の、1957年秋、夜が明けるベッドの中。

エストレリャの年少時代に遡って。
一家は、城壁がある川沿いの町の郊外の、“かもめの家”と呼ばれる家に移り住んだ。
県立病院に勤める父は、振り子を使った霊能力で村人に尊敬されている。
そんな父を慕い、一緒にいられることだけで嬉しいエストレリャ。

エストレリャの初聖体拝受の前日、南の地から祖母と父の乳母がやって来た。
その乳母から、スペイン内戦の政治的主義の違いから、父は祖父と仲たがいして家を出たと、エストレリャは聞かされる。
南に想いをはせる父。そして、雪が降らないという南を知ってみたいと憧れるエストレリャ。
祖母たちが南へ帰ったある日、エストレリャは、父の机の中にあった封筒に、ひとりの女性の名が繰り返し書かれているのを発見した。
母にその名をそれとなく尋ねてみても、母も知らなかった・・・・

エストレリャの回想による父についての思い出の物語。

ある日の学校帰り、エストレリャは映画館の壁に貼ってあるポスターの中に、ひとりの女性の名、イレーネ・リオスを見つける。
車の陰で映画館から父が出てくるのを待つエストレリャ。
その父は、喫茶レストランに入って手紙を書く。
それを窓の外から眺めるエストレリャには、そのことの意味合いがまだのみ込めない。
だが、理由も分からずに不安だけが残る。

それ以降、父、母、エストレリャの心は、それぞれに異なった方向へ進んでいく。
少しずつ、穏やかで平和だった家庭に重苦しい空気が流れ、崩壊していく。
エストレリャは、父を苦しめているもの、過去の謎を子供ながらに解明しようとするがわからない。

15歳になったエストレリャは、どことなく淋しげで孤独な少女に成長している。
憧れの父も、人生に疲れ切った憐れな様子の男になっている。

ある日のこと、学校の昼休みに珍しく父アグスティンが来て、エストレリャを昼食に誘う。
ホテルでのレストランで、幼い頃の疑問をエストレリャは聞いてみる。
イレーネ・リオスって誰?
父は、その名の人は知らないと曖昧に答える。
エストレリャは、その名を何度も書き連ねていた封筒を見たこと、
映画館でその名を知ったこと、その後で父が手紙を書いていたことを話す。
アグスティンは黙って洗面所へ立つ。
隣りの部屋では、結婚式の宴会が行われていて、舞踏曲のメロディーが流れている。
その曲は、初聖体拝受の日、家で父とエストレリャが楽し気に踊った曲だった。
エストレリャは父に手を振り、学校に帰っていく。これが父を見る最後だった。

静かに流れる物語に、そこはかとなく哀感が漂う。
そして、ラストのホテルのレストランの場面のように、余分な会話がない。
それでいて、何もかも、いろんなことが凝縮されている。

映像だって、そう。
父親が国境と呼ぶ、家の前の並木道が象徴する意味。
庭にあったブランコがなくなって、樹だけになっている風景。
さりげなく映しながら、その底では緻密に計算されている映像の数々。
それらが心に沁みつき、記憶の奥底に残って忘れられない作品となっている。

最後の場面で、エストレリャは南に向かって出発する。
この作品は、本来この先、“南(エル・スール)”での物語が続いていくはずだったという。
資金不足でプロデューサーからストップが掛かり断念したと聞いている。
エストレリャに異母兄弟がいて、父アグスティンの過去の秘密が具体的になって、自殺した真相も明白になる内容だと思っている。
といっても、作られなかったから、この『エル・スール』の作品自体の評価が下がるというわけではない。

ビクトル・エリセの長編映画は40年以上の期間に、わずか三本だけである。
まだまだ現役の監督であるから、是非『エル・スール』の後半等を作ってもらいたいと、ファンの一員として願っている。

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