ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

ジャン・ルノワール・9~『自由への闘い』

2018年04月29日 | 戦前・戦中映画(外国)
『自由への闘い』(ジャン・ルノワール監督、1943年)を観た。

場所は、ナチス・ドイツに占領されたある町。
小学校教師で臆病な性格のアルバートは、彼を溺愛する高齢の母親と二人で暮らしている。
隣りの家には、女教師をしているルイーズが兄ポールと住んでいる。
ルイーズの恋人のジョージは貨車操車場の責任者で、ポールもそこに働いていて二人は仲がいい。

ある日、操作場で貨物車が破壊されるが、ナチスのケラー少佐は事件が拡大しないようにと、妨害活動でなく事故として処理する。
そして後日、抵抗新聞を発行している印刷所の者を逮捕し連行する。
その現場からの帰り、利敵協力者の市長と共に乗っているケラー少佐の車の一行に、建物の二階から手榴弾が投げ込まれる。
屋根に向かって逃げていく男、それはポールだった・・・

手榴弾の犯人を逃がしたケラー少佐は、皆が尊敬しているユダヤ人のソレル教授に嫌疑をかけ逮捕する。
しかし抵抗運動は続き、今度は兵器輸送列車が爆破される。
その捜査の過程で、アルバートが逮捕されてしまう。
アルバートを溺愛している母親は、何とか釈放させようと必死になる。

ナチスに犯人とばれてしまったポールは、逃げる途中で撃たれて死ぬ。
実は、犯人を知っていたアルバートの母親がアルバートのために、ジョージに告げ口をし、それを市長、ケラー少佐へと情報が流れていたからだった。

何も理由を知らずに釈放され、上機嫌になっているアルバートは、好意を寄せている隣家のルイーズの所へ行く。
しかし、そこに見たのは、悲しみに暮れるルイーズの怒りに燃えた顔と、「卑怯者」扱いの罵倒の言葉。
ショックを受けたアルバートは、母親を問い詰めて真相を知り、怒り心頭でジョージの仕事場に出向く。

現状追認主義者のジョージは抵抗主義者のルイーズから、意見の相違で婚約解消されたため意気消沈している。
そこに現れたケラー少佐は、ポールの葬式の場でのルイーズに対する慰め方を伝授する。
そしてケラー少佐は言う、そのルイーズから共犯者を聞き出せと。
命令されたジョージは、ケラー少佐が去った後で、机から拳銃を取り出し絶望のあまり自殺する。
そこへ、怒っているアルバートが来る。

ジョージ殺しの犯人にされるアルバート。

その後のクライマックス、法廷場面でのアルバートの弁明。
自分の内と外の二面性、つまり、内には勇敢さを秘めていても臆病なこと。
その反対の者としての、市長やジョージのこと。

休廷の時に、ケラー少佐は監獄のアルバートを訪ね、有利な条件を出してアルバートを手なずけさせようとする。
その気になったアルバートは、たまたまそこの庭で処刑されるソレル教授たちを見る。

真の勇気を知ったアルバートは、再開された法廷で熱弁する。
それは、占領国ドイツに対する痛烈な批判であり、占領が続けばそれを利用する同国人への批判。

アルバートは言う、「私が裁判で無罪になっても、ドイツはその後で処刑するだろう」と。
それは「社会でなく専制国家にとって有害だから」と。

あのオドオドしていたアルバートが、なぜ急に堂々と演説をぶてるのかと不思議には思うけど、その言っている内容に心が打たれる。

ドイツのフランス侵攻でアメリカに渡ったジャン・ルノアールは、会社側の意向でこの作品を自分の思うようには出来なかったと言う。
そう言うこともあるのだろうか、この作品は評価がイマイチだったりする。
しかし、チャップリンの『独裁者』(1940年)が傑作で、こちらはそうでないとは決して思わない。
その演説場面は、同等に感動させられる。

この作品を魅力的にしている理由のひとつは、やはりチャールズ・ロートンとモーリン・オハラ。
それと物語の進み具合。
ラストの、アルバート、そしてルイーズが教室で力強く読む「人間の権利の宣言」は、ひしひしと胸に迫ってくる。
これは、私にとって重要な作品のひとつである。
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キム・ギドク監督作品

2018年04月25日 | 目次・キム・ギドク作品
1.キム・ギドクの『ブレス』を観て

2.『The NET 網に囚われた男』を観て

3.『鰐 ワニ』(キム・ギドク監督)を観て

4.『ワイルド・アニマル』を観て

5.『受取人不明』を観て

6.『悲夢』を観て

7.『殺されたミンジュ』を観て

8.『メビウス』を観て

9.『悪い男』を観て

10.『悪い女 ~青い門~』を観て

11.『アリラン』を観て

12.『コースト・ガード』を観て

13.『魚と寝る女』を観て

14.『リアル・フィクション』を観て

15.『STOP』を観て

16.『人間の時間』を観て  




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『女は二度決断する』を観て

2018年04月22日 | 2010年代映画(外国)
『女は二度決断する』(ファティ・アキン監督、2017年)を観てきた。

ドイツのハンブルク。
カティヤは、ビルの一階で店を開いている夫ヌーリに息子を預け、迎えに行く時間まで友人と公衆浴場で過ごした。
カティヤが戻って来ると、店の前で爆弾による惨事が起きていて、巻き込まれた夫と息子は命を落としてしまっていた。

そう言えば、夫に息子を預けてカティヤが店を出た時、荷台にケースをつけた自転車を駐輪していく女がいた。
カティヤはその女が犯人だと確信するが、警察は、ヌーリがトルコ系移民であり、以前に麻薬の売買に関わっていたのを怪しみ、それに絡む抗争事件とにらむ。
家族を失い絶望に陥ったカティヤは、手首を切りバスタブで自殺を図る。
丁度その時、ドイツ人のネオナチ男女が逮捕されたと連絡が入り、女はカティヤが目撃したとおりの人物だった・・・

三部構成になっている1部の「家族」から、次の「正義」へと進む。

ネオナチの男と女を被告とした裁判シーンである。
被告側弁護人と原告側弁護人の法廷やりとりが緊張感を伴って論点を尽くしていく。
しかし生きる力が生み出せないカティヤが、またまた麻薬を使用したことが裁判に不利に働く。

そして、3部「海」。
被告のアリバイを証言した極右団体のホテル・オーナーを探すため、ギリシャまでやって来たカティヤ。
この辺りからサスペンスの雰囲気が、緊張感と共に盛り上がってくる。

裁判に勝った二人は、無罪になったものの社会の目を気にして、ホテル・オーナーを頼りギリシャに来ていた。
それを偶然に知ったカティヤ。
一度はためらうカティヤだが、この海辺で、最後には大きな決心をする。

ネオナチによる外国人排斥問題。
この作品にはそのこと、例えば、ドイツにおける外国人のおかれている立場、その排斥運動としての極右勢力の動き、
それに対するドイツ社会の全体性などは具体的に深くは描かれていない。
しかしその分、夫と息子を失ったカティヤの悲しみ、やるせなさ、残された者の生きることの意味合いを、カティヤ役のダイアン・クルーガーが迫真の演技でみせる。

この映画は、そんじょそこらの生半可な作品よりよっぽど面白くて印象に残る、かつ身の引き締まる優れた作品だった。
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『魚と寝る女』を観て

2018年04月18日 | 2000年代映画(外国)
『魚と寝る女』(キム・ギドク監督、2000年)をレンタルで借りてきた。

湖に浮かぶ釣り小屋を管理する若い女ヒジン。
ヒジンはボートで釣り人たちに飲食物を運び、時には身体も売っている。

ある日、この釣り場に元警官のヒョンシクがやって来る。
恋人を殺害し逃亡しているヒョンシクは、自殺する場所を求めていた。
釣り小屋で拳銃自殺を試みるヒョンシクに、ヒジンは小屋の下からキリで彼の腿を突いて自殺をとめる。
このことを契機として、二人の間に奇妙な感情が生じ始めてきて・・・

孤独なヒジンはしゃべらない。それとも口をきけないのか。
そんな彼女は、影のあるヒョンシクにいつしか惹かれていく。

ペンチで針金細工をしながら毎日を潰すヒョンシク。
身体を求めるヒョンシクを頑として拒むヒジン。
その代用にヒョンシクが買った娼婦ウンアとの肉体交渉を、水中から覗き見るヒジン。

本作が4作目になるこの作品には、後のキム・キドクの特色がすべてと言っていい程よく表れている。

蛙を叩き殺して皮を剥ぐ。
ナイフで身を削がれた鯉が水中を泳ぐ。
ヒョンシクは自殺しようとして釣り針を飲む。
そのヒョンシクをリール竿で水から引っ張り上げるヒジン。
と思えば、自分から離れて行くヒョンシクを取り戻すため、ヒジンは股間に釣り針を入れてボートで引かせようとする。
その残酷さと、ゾッーとする痛々しさ。



朝靄の中に浮かぶ小屋と、湖の静寂な風景。
ヒョンシクとヒジンの間の会話のなさと、そこに漂う孤独。
そして、殺され水に沈むウンアと売春斡旋のマンチ。

この絵画のような映像によって描かれる絶望的な愛に、ただただ心を揺り動かされる。
キム・ギドクの作品の中でも、これは最も印象に残るうちのひとつと言えるのではないか。

これで、日本で観ることのできるギドク監督作品20本中、未見は『リアル・フィクション』(2000年)のみとなった。
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『ラブレス』を観て

2018年04月17日 | 2010年代映画(外国)

今、上映中の『ラブレス』(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督、2017年)を観てきた。

一流企業で働くボリスと、美容サロンでマネジメントを任されているジェーニャの夫婦。
離婚協議中のふたりにはそれぞれすでに別のパートナーがいて、早く新しい生活に入りたいと苛立ちを募らせていた。

12歳になる息子のアレクセイをどちらが引き取るかについて言い争い、罵り合うふたり。
耳をふさぎながら両親の口論を聞いていたアレクセイはある朝、学校に出かけたまま行方不明になってしまう・・・
(公式サイトより)

ボリスには、すでに妊娠中の若い恋人マーシャがいる。
片やジェーニャにも、成人し留学中の娘がいるアントンと恋仲である。

そのジェーニャは、ボリスと結婚したのは母親から逃れるためであって、アレクセイを中絶しなかったことを今でも悔やんでいる。
要は、この夫婦には最初から愛はなかったらしい。

観ていて、親の離婚後のアレクセイの立場、居場所を思うと、自然とどうしようもなさや絶望的な気持ちに襲われてしまう。
だから、アレクセイが登校せず行方不明になることが、すんなりと素直に納得できる。

しかし不思議なのは、あれ程アレクセイに無関心というか邪険だったジェーニャが、アレクセイを必死に探そうとすること。
やはり、何だかんだと言っても、いざと言う時、母性心は強力であるということか。

万一を心配するジェーニャに、警察はまともに取り合ってくれない。
一緒になって夫婦に協力してくれるのが市民ボランティアの捜索救助団体だという、痛烈な皮肉を込めた批判。

そんな懸命な捜索をし、あらゆる手段を尽くしているのに、見つからないアレクセイはどこにいるのか。
その過程でえぐり出されるのは、ボリスとジェーニャの夫婦関係の断絶の絶望としか言いようのなさ。
その心情を映し出す、樹立する多数の高層マンションを遠景にした森の寒々とした風景。
そこに、降る雪も混じってくる心象。

暗くて重い、そして深い現代の家族の崩壊物語である。
そこに描き出される内容は、社会問題も背景とした強烈なインパクトを与える作品の、第一級としての印象であった。

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『悪魔のような女』(1955年)を観て

2018年04月15日 | 1950年代映画(外国)

観たい観たいと思っていた『悪魔のような女』(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督、1955年)をやっと観ることができた。

舞台はパリ近郊の寄宿学校。
校長のミシェルは、妻クリスティナの莫大な財産によって今の地位を築いていたが、その横暴ぶりにクリスティナの心労は極みに達していた。
ミシェルの愛人でもある女教師のニコールはクリスティナに同情を寄せ、彼女とミシェルの殺害を企てる。

そして、二人は週末を利用してニコールの実家に赴く。
計画どおり、クリスティナはミシェルへ電話し離婚の決意を告げる。
それを聞き、彼女を連れ戻そうとやってきたミシェルは、二人の策略による睡眠薬入りの酒を飲まされ、バスタブで溺死させられてしまう。

死体をトランクに隠して学校に戻った二人は、ミシェルをプールに沈める。
そして、後は死体が誰かに発見されるのを待つばかりであったが・・・
(allcinemaより一部抜粋し修正)

自殺か、事故を装うには死体が必要である。
死体が発見されるのを待つクリスティナとニコール。
その心理状態がサスペンスを生む。
まだか、まだか。とうとうプールの水を抜くところまでいく。

その結果は?
ミシェルの死体は、どこにもない。
どうして、そうなるのか。
サスペンスはグングン盛り上がり、クリスティナの心理は極限状態に達していく。

驚いたのは、ラスト間近のバスタブの場面。
そのシーンは、まさしく記憶にある場面だった。
意識することもなく記憶から消えてしまっていた映画。
それが、遠い昔に強烈な印象を与えた場面でふいに蘇る。

そればかりか、無意識のうちに記憶を辿っていたのだろうか、結末は、物語の途中辺りから想定していたとおりだった。
それでも、ニコール役のシモーヌ・シニョレと、クリスティナ役のヴェラ・クルーゾー(クルーゾー監督夫人)の二人の演技が緊張感を盛り上げ、満足の行く作品だった。

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ジャン・ルノワール・8~『河』

2018年04月12日 | 1950年代映画(外国)

『河』(ジャン・ルノワール監督、1951年)を観た。

舞台は、ベンガル地方のガンジス川流域。
製麻工場のイギリス人支配人の長女ハリエットは、工場主の娘のヴァレリー、アメリカ・インドの混血で隣家のメラニーと大の仲良しであった。

ある日、メラニーの従兄弟で退役軍人の青年、ジョン大尉がこの地にやってきた。
ジョン大尉が来た理由は、第二次大戦で片足を失い英雄扱いだったが、戦後になって、人々からの障害者としての憐れみの目を逃れるためだった。
三人は、生活の中に入ってきたジョン大尉に対して、それぞれの初めての恋に胸をときめかせるのだった・・・

物語は、詩を愛するハリエットのナレーションにより、淡い初恋の話として進んでいく。
と言っても劇的な筋があるわけでもなく、ルノワールが描きたかったのは、雄大なガンジスのほとりでの人々の風景だったのではないか。
そのような中で興味を引くのは、ハリエットが語って聞かせる“クリシュナとラーダ”の逸話である。
若者に恋をした娘は、願いも叶わず父親の決めた相手と結婚する。
婚礼の日に娘が対面した相手は、なんとそれは恋した若者だった。
二人は、“クリシュナとラーダ”に変身し、ラーダになった娘は愛の舞踏を踊る。
その踊りが何とも素晴らしく魅了される。

あらすじが単調としても、それでもハリエットの弟ボギーの死が絡んでくる。
コブラ使いに憧れ、菩提樹の根元にコブラを見つけたボギーは、笛を吹きながらコブラをあやすが毒牙にかかる。
それを自分の不注意と感じたハリエットは、ガンジスに身を投げようする。
漁師に助けられたハリエットに、駆けつけたジョンが生きることを諭す。

ボギーが死に、ジョンが去り、その後で、ハリエットの母は新しい生命を産む。
すべては、大河の流れと共に、また再生して行く。

色彩感覚が豊かと言われるこの作品が、DVDを観た限りではそんな風には感じられず、映像的な印象はそんなに残らない。
画質のせいなのか、それとも評判が大袈裟なのか、いずれにしてもそんな素晴らしいという映像色彩を、是非見てみたいものである。

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ジャン・ルノワール・7~『南部の人』

2018年04月06日 | 戦後40年代映画(外国)

『南部の人』(ジャン・ルノワール監督、1945年)を観た。

アメリカ南部の移住農業労働者、サム・タッカー一家の物語。
綿花の摘み取り作業中に倒れた叔父の死をきっかけに、サムは独立しようとボスから河岸近くの土地を借り受ける。
希望に燃え、妻ノーナと幼い子供2人、それに年老いた祖母で到着した場所は、荒れ果てた地にある廃屋だった。
それを見た気難しがり屋の祖母が愚痴をこぼす。
サムは早速応急処置に掛かり、ノーナはどうにか住めそうになった家で、コーヒーを入れるのだった・・・

自立しようとする希望と努力、それに対する現実。

まず、肝心の井戸が使えない。
そのために、隣人のデイヴァーズに井戸を使わせてもらうよう頼むが、隣人は偏屈な態度をとる。
デイヴァーズのその態度は、子供のジョディーが栄養失調になり牛乳を分けてもらおうとする時も同じである。
挙げ句は、刃物を使ってのケンカまでに発展する。

そればかりか、農場開拓に付きものの自然を相手とした苦労がサムを襲う。

やっと夫婦の苦労が報われる時期になっての、突然の豪雨。
ぬかるみと化した畑は、見る影もない無惨な姿。
諦めて農業をやめようと考えるサム。

このような現実の中でも、なぜかこの作品はそんなに陰気くさくならない。
例えば、酒場でのドタバタとか、他にも何かにつけジャン・ルノワールらしさがあって、登場人物はめげてしまわない。
隣人のデイヴァーズとの関係でも、あわやと言うところで御都合主義的に改善されてしまいサッパリする。
そして、何といってもタッカー家の夫婦の愛情表現がいい。
こんな夫婦関係だったらお互い頑張ろうかと、自然と納得させるところが憎い。

この作品は、ジャン・ルノワールがナチスを逃れて、アメリカに行って撮った作品の中でも評価が高い。
成る程ラスト近くの、豪雨後の大量に流れる河で、牛を助けようとするサムと友人のシーンを見ると、まさしくルノワールの作品だなと思う。
そして、悲惨な境遇に挫けず希望を持つところがアメリカ的であるようでいて、ルノアール的だなと勝手に解釈する。

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ジャン・ルノワール・6~『黄金の馬車』

2018年04月04日 | 1950年代映画(外国)

『黄金の馬車』(ジャン・ルノワール監督、1953年)をDVDでやっと観た。
と言っても、パソコンの故障の関係上、1ヶ月前の鑑賞記憶である。

総督フェルディナンの支配する南米のスペイン植民地。
そこへ船にのってやってきたのは、ドン・アントニオ率いるイタリアのコメディア・デラルテ(即興仮面劇団)一座。
そして、そのヒロイン、カミーラに恋し同行している騎士フェリペ。
早速、一座は興行を始めるが、観客の方は客席にいた人気闘牛士ラモンにばかり注目がいく。
怒ったカミーラがラモンを挑発し、やっと大喝采をとるが、あがりはほとんどなかった・・・
(映画.COMから一部抜粋して修正)

そして、宮廷で舞台を演じないかという総督からの使い。
カミーラをすっかり気に入る総督のフェルディナン。

このようにして、闘牛士ラモンも絡んでカミーラをめぐる3人の男たち。
どちらかと言えば、『ゲームの規則』(1939年)に近い雰囲気の内容である。

この作品が日本で封切られたのが1988年。
当時、ジャン・ルノワールの幻の傑作が上演されると言うことですごく気になりながら、つい今日まで来てしまった。
ただ観てみて、色彩感覚が素晴らしいとか、最高傑作であるとかの評をよく聞くが、DVDでは画質が悪くどうもその恩恵に預かれない。
それにアンナ・マニャーニはうまい女優だとわかっていても、三人の男が恋焦がれることに、どうも違和感が先立つ。

だから、この作品の魅力を探すために再度観直した方がいいとも思うが、なぜか食指が動かない。
私にとってジャン・ルノワールの作品評価としては、珍しくこの程度であった。

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