ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『人生フルーツ』を観て

2017年04月20日 | 日本映画
あるブロガーさんの『前編/森の妖精のようなスローライフ。。ドキュメンタリー映画「人生フルーツ」』を読んで、是非、その映画を観たいと思った。
『人生フルーツ』(伏原健之監督、2016年)、東海テレビ製作のドキュメンタリーである。
今年の1月に上映されたのを評判の良さからか、アンコールとして丁度上映されていたので観てきた。

高蔵寺ニュータウンの一角に住む津端夫妻。
美しい平屋は果樹や菜園に囲まれている。
建築家津端修一は住宅公団に勤務していた時に、元の里山の景観を活かした先進的な観光デザインを提案する。
しかし高度成長期の合理主義一辺倒の風潮とは折り合わず、高蔵寺の丘陵地は見る影もなく造成された。
その後、妻英子とこの地に移り住む。
ふたりだけの里山の再生が始まった。誰も思いもよらない方法で・・・
(劇場専用の通信誌から)

修一さん90歳、英子さん87歳。
300坪の敷地には、家のほかにキッチンガーデンとして70種類の野菜と50種類の果実を育てる。
季節の野菜に果物。それを使った料理にフルーツの焼菓子。
二人の生活は自給自足に近い。
と言っても、英子さんは月に一回ほど名古屋・栄の食品売り場へ買い物にも行く。

生活の場としての母家は、平屋30畳1間で、雑木林の中に隠れている感じの静寂そのもの。
日常は、穏やかに充実した日々として、それぞれに自分の日課を過ごしていく。

では、なぜ津端家のライフスタイルはこのようなのか。
住宅公団が発足した時に入社した修一さんは、高蔵寺ニュータウンの設計を任されるまでに、18団地を手掛けているエースだった。
高蔵寺計画で修一さんが描いたマスタープランは、地形を活かし、街の中に雑木林を残して風の通り道を作るというもの。
しかし、時代は経済優先で、修一さんが思い描いたものとは程遠いものだった。

そこで考えたことは、それぞれの家が小さな雑木林を作れば、ひとりひとりが里山の一部を担えるのではないかということ。
そのような思いを実践した家として、津端家がある。
そればかりでなく、修一さんは里山の構想として、隣りにある禿山に約1万本のどんぐりの木を市民を交えて植えた。
今ではその山が雑木林に包まれて、昔の殺風景な姿はない。

風が吹けば、枯葉が落ちる。
枯葉が落ちれば、土が肥える。
土が肥えれば、果実が実る。

こつこつ、ゆっくり

淡々とたおやかにその日の時間を楽しむ。
二人の微笑み。
人生は長く生きるほど美しくなる、という言葉。

これほどに、生きていることに充足した人をみると、我知らずこちらまで充実感に満たされてくる。
参考にしたい人生のしるべというべきか。
結婚する時、新居を高蔵寺ニュータウンにしようかと下見に行ったこともあり、今でも距離にしてすぐのそこに、このような人がいたのが感慨深い。
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『コースト・ガード』を観て

2017年04月18日 | 2000年代映画(外国)
キム・ギドク監督の『コースト・ガード』(2002年)があったので借りてきた。

場所は、南北軍事境界線に近い海岸。
韓国の海岸には北の侵入に備え、要所に鉄条網が敷かれている。
そして、その軍事地域には「夜7時以降の侵入者はスパイとみなし射殺する」の立て看板がある。

海兵隊のカン上等兵は、人一倍訓練に熱心で、北のスパイを捕まえる情熱に燃えている。

ある夜、村人で恋人同士のヨンギルとミヨンは悪ふざけも手伝い、酔ってそこに入り込み肉体行為を行う。
その最中に、沿岸警備中のカン上等兵が夜間透視望遠鏡で人影を見つける。
すかさず、カンは機関銃乱射し手榴弾を投げる。
ヨンギルは即死し、それを見たミヨンは半狂乱に泣き叫び・・・

カン上等兵は「不審者に対して適切に対処し、忠実に任務を遂行した」として表彰され、特別休暇を与えられる。
その根拠は、スパイを射殺すれば勲章と報奨金が貰えて一階級特進で除隊でき、その代わり、取り逃がせば営倉行きのうえに生涯不名誉となる、という規則。

ただ、カンは民間人を殺してしまったことで、次第に精神を病んでいく。
そして、早期除隊させられた彼は、再び部隊周辺をうろつくようになる。

片や、恋人を殺されたミヨンは、鉄条網の周辺にいる警備隊員を死んだ恋人と錯覚し、精神が完全に破壊されてしまう。

ミヨンは、どの警備隊員なのかわからないままに妊娠してしまう。
それを、指揮官は部下に堕胎させる。
兄チョルグは妹のことに気づき、包丁を手にして警備隊員を襲撃する。

カン上等兵は自分を、いまだ現役だと信じている。
部隊に侵入するカン。
警備隊の方こそが侵入者、北朝鮮のスパイだと妄想するカン。
そしてついに、カンと部隊との銃撃戦。

朝鮮半島が分断され、それの解決が見いだされないままの現状において、キム・ギドクは独自の方法で問題提起する。
その方法として、扱う内容を重くせず何気なく見せながら、的確に思いをテーマに据える。
軍隊はどのような形であれ、そもそも狂気の萌芽ではないのか。

このあいだ上映された『The NET 網に囚われた男』(2016年)も連想しキム・ギドクの作品全体を考えた時、
初期にまさか、これ程の傑作が発表されているとは想像できなかった。
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『午後8時の訪問者』を観て

2017年04月16日 | 2010年代映画(外国)
『午後8時の訪問者』(ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督、2016年)を観てきた。

診療時間を過ぎた午後8時。
小さな診療所のドアベルが鳴らされるが、若き女医ジェニーはそれに応じなかった。
翌日、診療所近くで身元不明の少女の遺体が見つかり、診療所の監視カメラにはその少女が助けを求める姿が収められていた。
彼女は誰なのか。何故死んだのか。
ドアベルを押して何を伝えようとしていたのか・・・
(Movie Walkerより一部抜粋)

あの時、研修医のジュリアンはドアを開けに行こうとした。
それを、ジェニーが止めた。
理由は、ジュリアンの時間外勤務のこともあったが、それより、代診の自分の方が彼に対して優位性を示したかったため。

ドアを開けていれば、少女のその後の事態は当然に変わっていた。
それをジェニーは悩む。
その後、なんどきも後悔の念から、どうしても開放されない。

この黒人の少女は、どのような犯罪に巻き込まれたのか、それとも事故だったのか。
そして、いったいどこの誰なのか。
ジェニーは罪悪感から、少女が誰にも知られず無縁仏になってしまうのが辛く、彼女の足取りを探し始める。

作品の内容は一見、サスペンス調のようにも思えるが、ダルデンヌ兄弟の視点は、今までがそうだったように社会に注がれている。

ジェニーは、待遇も良い大きな病院での勤務が決定していたにもかかわらず、この事件で、診療所を引き受けることに決心する。
ジェニーが往診に行く先々での患者とのやり取り。そこでは、その家庭の状況や家族そのものが垣間見える。
研修医を辞めて、田舎に引き籠るジュリアンの本当の理由。肉親との間に抱える葛藤。
家庭内の葛藤はジュリアンばかりではなく、患者の少年ブライアンにも共通し、重要な事柄となっている。
そして、作品として何気なく提示してあった移民問題が、観終わってみると大きな主題となって表れる。

ダルデンヌ兄弟のコメントが、この映画のメッセージ性を教えてくれ、重要な意味をもつ。
「ジェニーが閉じた扉は、ヨーロッパが移民に対して閉ざした扉を意味します」

ダルデンヌ兄弟の映画は、どの作品を取っても絶対に損をした気分にさせない。
正しく今回もそのような思いと共に、ジェニー役の“アデル・エネル”の印象が鮮明に残る。
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『悪魔を見た』を観て

2017年04月12日 | 2010年代映画(外国)
チョット毛色が違ったモノを観ようかなと、『悪魔を見た』(キム・ジウン監督、2010年)を借りてきた。

ある夜、雪の夜道で車がパンクし、レッカー車の到着を待っていた若い女性が、黄色いスクールバスに乗った男に連れ去られる。
地元警察は大規模な捜索を開始。
まもなく川底から切断された頭部を発見する。
このバラバラ殺人事件の被害者は、引退した重犯罪課の刑事チャンの娘ジュヨンだった。

一ヵ月前にジュヨンと婚約したばかりの国家情報院捜査官スヒョンは、ジュヨンが事件に巻き込まれる直前まで携帯電話で会話を交わしており、
彼女を救えなかった自分のふがいなさを何度も呪う。
深い絶望感に苦しむ彼は、自力で犯人を追い詰めると決心。・・・
(Movie Walkerより一部抜粋)

ジュヨンの葬儀で「あいつから受けた苦しみを返してやる」と、復讐を誓うスヒョン。
スヒョンは、上司に休暇を申し出る。
一匹オオカミになったスヒョンは、捜査線上に浮上した容疑者の中から、塾の送迎バス運転手のギョンチョルが犯人であると確信する。
その間に、ギョンチョルはまたもや若い女性を惨殺。
さらには、塾生の少女を襲う。

少女が襲われている時に、スヒョンが駆けつける。
スヒョンは、ギョンチョルを殴って殴って痛めつける。
そして、GPSチップのカプセルを飲み込ませる。
ジュヨンの苦しみをギョンチョルにも十分に味わわせるため、スヒョンはギョンチョルを開放する。

復讐の鬼と化しているスヒョン。
片や、その泳いでる間に、冷酷な殺しを繰り返すギョンチョル。
そのギョンチョルに、GPSによって徹底的に制裁を加えるスヒョン。
そこに、ギョンチョルと同類の殺人鬼テジュも加わって。

観ていると、血があちこちで飛び散って、それは悲惨。
若い女の子の頭をハンマーで殴るわ、アキレス腱もグサリと切るし、手の甲に刃をグイと突き刺すわ、
挙句の果ては、ほっぺたにエイッと、ドライバーみたいなのを刺してしまう。
凄いのは、手で力任せに口を上下に開けて潰すから、もう痛いのなんの、頭がガンガンしてくる。

それでもこの作品のいいのは、まずテンポ。
メリハリが利いてて、最後までノンストップ。
それに、スヒョン役のイ・ビョンホンが苦悩を抱かえながら復讐する、その怒りがいい。
そしてギョンチョル。
こんな悪は徹底的にやっつけなければいかんと思わせる、チェ・ミンシクの顔付きが憎たらしくていい。

もうこうなると理性で、暴力はいかんなんて言ってられない。
スヒョンは、ギョンチョルを「一番苦しい時、恐怖に震えた時に殺してやる」と言っていたから、もっとジワジワ苦しめなけりゃイカンでしょうと思う。
スヒョンも、最後に涙を流して人間味を出すんじゃなくてもっともっと鬼になりなさい、と勝手に拳に力が入る。

でもこれは、グロテスクであっても久々にみる非常に面白い、すかぁとするワルでいい映画だった。
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『ムーンライト』を観て

2017年04月09日 | 2010年代映画(外国)
『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス監督、2016年)を観てきた。

この作品の場合、あらすじを後半まで書いておいて、いつまでも記憶を薄れさせないようにしたい衝動にかられた。

マイアミの貧困街に住む、内気な黒人少年のシャロン。
彼は、“リトル”とあだ名され、学校でいじめられたりしている。
ある日の学校帰り。
いじめから逃げて廃屋に隠れていると、麻薬ディーラーのフアンが心配して話しかけてきた。
フアンは何も話さないシャロンを連れて、恋人テレサとの家に帰り、夕食を差しだす。
その後も何かと気にかけるフアンに、シャロンも徐々に心を開いていく。
ある日、海で、フアンは「自分の道は自分で決め、周りに決めさせるな」とシャロンに言う。
家に帰っても居り場のないシャロンは、父親のようなフアンと友達のケヴィンだけが心の許せる相手だった。

シャロンは、高校生になっても相変わらず学校でいじめられる。
家では、相変わらず母親のポーラが麻薬に溺れている。
ある日、同級生に罵られショックを受けたシャロンは、夜の浜辺に向かう。
そこに以前からの友達ケヴィンが現れる。
シャロンは、密かにケヴィンに惹かれている。
しかし翌日、ケヴィンは、そそのかされてシャロンに暴力を振る。

大人になったシャロンは、それまでのひ弱な体形から、筋肉隆々の姿に鍛え上げた。
ある夜、それまでの地域から離れて住んでいるシャロンに、突然、ケヴィンから携帯に電話が掛かる。
小さなレストランの店主のケヴィンは、ジュークボックスで客がかけた曲でシャロンを思い出し、連絡してきたという。
あの頃のすべてを忘れたいシャロンは、突然の電話に戸惑い動揺するが、翌日、ケヴィンと再会するためマイアミに向かう。

作品は、少年期、高校生期、そして大人になったシャロンの三部構成になって話が進む。
そして、シャロンを取り巻く環境と周囲の人たちとの関係を絡め、シャロンの一時期ずつを描き出す。

場所がマイアミの貧困地域であるということ。
その貧困をどうにかしなければいけないと、声高に訴えるわけではない。
生活全般に染み付いてしまっている状況での貧困を、静かに描く。
具体的には、フアンは麻薬ディーラーで、麻薬中毒の母親ポーラはフアンから薬を買い求めているというふうに。

この作品の大きなテーマは、シャロンがゲイであるということ。
しかし、このことに対しても声高に雄弁に語るわけでもない。
まだシャロンは、少年期において自分がゲイであると自覚がなかったはずだ。
それを同級生たちが、シャロンの雰囲気を嗅ぎつけていじめる。
それによって、シャロンの感情は屈折し、傷も負い、無口な少年として成長していく。

そもそも、この作品に大きな事件は起きない。
それでも、先程の貧困、麻薬問題、同性愛、それに係わるいじめ、人種問題なども絡まり、アメリカに蔓延する社会問題を浮かび上がらせる。

シャロンの瞳を見ていると、彼の心情が透けて見え、その自分なりに生きようとする姿が、目に焼き付けられ脳裏から離れない。
それに、シャロンとケヴィンの、レストランでの再会場面。
穏やかでも、二人の心理的葛藤とその和解がこちらの心に沁み渡る。

月明かりの下の浜辺。そのブルーな色合い。
この色彩と、そしてシャロンの瞳を、いつまでも記憶にとどませるに違いないはずの、静かな感動を与えてくれる作品だった。
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『アリラン』を観て

2017年04月07日 | 2010年代映画(外国)
キム・ギトク監督のドキュメンタリー作品『アリラン』(2011年)を観た。

世界的映画監督のキム・ギドクは、2008年の『悲夢(ヒム)』の撮影中、ある女優が命を落としかけるという事故にひどくショックを受ける。
そのことが尾を引いて映画を撮れなくなった彼は、トイレもない粗末な小屋に移り住み、家の中にテントを張って暮らし始める。
薪ストーブで炊事する孤独な彼を慰めてくれるのは一匹の猫だけだった。
(シネマトゥデイより)

村のはずれの山あいにある一件の小屋。
周りが覆われていないような小屋だから、寝泊まりはテントの中。
用を足す時は、外で土に小さな穴を掘る。
冬は雪を鍋に入れて、ストーブで湯を作る。
そんな生活だから、たぶん風呂もない。

この映画はドキュメンタリーだが、ギドク自身が言うようにドラマでもあり、ファンタジーにもなっている。

ギドクは、3年にも亘りこのような隠遁生活することになった事について語る。
『悲夢』のラスト辺り。ヒロインの“イ・ナヨン”が、収容所の中で首を吊るシーンの撮影中に、彼女が死にかけたという。
ギドクは、そのことに強い衝撃を受け、映画を撮ることの意味を考え直さざるを得なくなったという。
映画を作るために、一人の人生を断ち切ったかもしれないという痛恨の念。

そんなギドクに、もうひとりのギドクが語りかける。
そして、生のギドクの言うことに疑問を投げかけ叱咤する。
二人のギドクが、このような形で自問自答を繰り返す。

映画についての想い。
それが今では、あの事故がトラウマとなって撮れないこと。
また、ギドクを慕ってきた弟子についても語る。
彼らが資本主義の誘惑に負けて、ギドクのもとを離れていったこと。

ギドクは悩み、葛藤し、そして怒りもし、挙句は泣き出してしまう。
それを、もう一人のギドクが冷静に客観的に見つめ、意見をする。

「アリラン」を歌うキム・ギドク。
熱唱し、ついには泣き唄となってしまう「アリラン」。
アリランは“自らを悟る”という意味の朝鮮民謡。
恨(ハン)の思いがこもった「アリラン峠における上り坂、下り坂」の歌詞は、ギドクにとって人生そのものとなり、そのために感極まって涙を流す。

ラストでギドクは、手製の拳銃によって“引きこもっている自分”を自殺させる。
このことは、自分が落ち込んでいる境遇からの脱出、と解釈すると、この先の自分に希望を見い出しているとも取れる。

この作品で、さすがだなと感心するのは、ギドク一人だけですべて行っているのに、撮影はあたかも第三者の手によっているみたいに見えること。
ただギドクに興味がない人が、この映画を観た場合、或いはなんら面白くも何ともないかもしれない。
そうであっても、これは仕方がないことだと思う。
何事も興味の持ち方は人それぞれだから。
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『悪い女 ~青い門~』を観て

2017年04月06日 | 1990年代映画(外国)
レンタル店にほとんど置いてない『悪い女 ~青い門~』(キム・ギトク監督、1998年)を、やっと探すことができた。

近くに臨海工業地域が見える海辺。
一軒の民宿に、スーツケースを持った若い女性が訪ねてくる。名はジナ。
民宿を経営している夫婦には、ジナと同世代のヘミと高校生のヒョンウがいる。
実は、このひなびた宿は隠れた売春宿として機能している。

その夜から客を取るジナに、翌朝、ヘミはことごとく冷たく当たり嫌がらせをする・・・

民宿を経営する一家は、売春婦のジナに依存しながら生計を成り立たせている。
だから、ジナも生活は一緒で、食事も同じ食卓で食べる。
しかし、大学生のヘミはそのことに我慢ができない。
売春婦がいることによって、恋人に家の実情を隠さなければならないし、ましてや連れてくることもできない。
そのようなことも絡んでか、ヘミは性に対し、すごく潔癖症になっている。

ジナのおかげで、ヘミも大学にも通うことができているのに、偏見に満ちた頑なな考えは変えようとしない。
それに対してジナは言い返しもせず、そう思われるのが当然だと自分自身のことや人生に達観しているようにみえる。
男たちは皆、ジナを欲望の対象としか見ないし、金銭さえ与えれば良いと思っている。
経営している民宿のおやじから、果ては、まだ高校生ヒョンウまでジナと関係を持ってしまう。
そんなでも、彼女の精神はどこか透き通っていて、やさしさに満ちあふれている。

あれ程、嫌悪感でジナを拒否していたヘミだったが、絵が好きなジナの心持ちがわかってくると、やがてわだかまりも徐々に消え、打ち解けてくる。
エンドロール。
海を泳ぐ金魚と一緒に、水中から見るヘミとジナの顔。
水に揺れていびつに崩れながらも、楽しそうな二人。
まるで幻のようなその姿が、微笑ましくて、なんとも愛らしい。

どこにも“悪い女”は出てこないのに、見当違いな邦題のイメージとは違って、とっても忘れがたい女性の物語であった。
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『悪い男』を観て

2017年04月03日 | 2000年代映画(外国)
今回もキム・ギドク。『悪い男』(2001年)を観た。

雑踏の街なかにあるベンチ。
ヤクザのハンギは、ボーイフレンドと待ち合わせをしている女子大生ソナを一目で気に入る。
ハンギを無視するソナは、やって来た彼の元に駆けよる。
それを見たハンギは、突然ソナにキスし強引にそれをし続ける。
公衆の前で、軍の部隊員から殴られたハンギは屈辱の怒りも手伝って策略を考える。

書店で、出来心から財布の中身を抜いたソナは、手下を使ったハンギの罠にマンマと引っかかってしまう。
多額の借金を背負ってしまうことになったソナは、ハンギの仕切る売春宿に売り飛ばされることになり・・・

どう見ても、清純そのもののソナ。
男性経験もないそんな彼女が、裏の社会で稼がされる。
残酷な話である。

ソナを気にいっているハンギは、自部屋にいるソナの様子をマジックミラー越しに伺う。
ただし、ソナと顔を合わせても好きだとひと言もいわない。
そもそもハンギは、物語が始まってから、その後もずぅっと喋らない。
ただ、ハンギが後半に発する言葉で、喋らないその理由がわかるが。

諦めからか、徐々に娼婦へと変わっていくソナ。
一度は脱走するが、またハンギに連れ戻され、売春宿の日常に染まっていくソナが、観ていて悲しい。
ハンギの子分ミョンスがソナと肉体関係を持って惚れてしまう。
それでもハンス自身はソナに手を出さない。
“ヤクザに愛なんて”と、自分にはソナを愛する資格はないと思っているハンス。
そんなハンスを、いつしか終いにはソナも愛してしまう。

ソナが、破れてた写真を貼り合わせる象徴的な場面。
男と女が写っているはずだが、そこには顔の部分が欠落している。
それが、最後には埋め合わせできる。
ただ、これは夢か現実か、どのようにも解釈できて定かではない。

好きな相手を社会の片隅で、売春婦として働かせる。
これが、ハンスのソナへの愛し方か。
いびつとも思える愛情表現だとしても、これは純粋なプラトニックな愛を、それこそ究極的に描いている。
その鮮明な印象が、キム・ギドクに中毒となる原因なんだなと、満足感とともに思った。
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『メビウス』を観て

2017年04月01日 | 2010年代映画(外国)
抵抗感がありそうでこの作品だけは観たくないなと思っていた『メビウス』(キム・ギドク監督、2013年)を観た。

韓国のある一家。父、母、高校生の息子の3人家族。
朝から赤ワインを飲んでいる母親は、夫が浮気をしていると感づいている。
夫に電話が掛かってきた日、母親は夫の浮気現場を目撃する。
その夜、母親は刃を持って夫のベッドへ向かう。
夫のペニスを切り落とそうとして失敗した妻は、今度は息子の寝室に行きペニスを切り取ってしまう。
息子の悲鳴を聞きつけた夫は、それを取り戻そうとするが、妻はそのペニスを飲み込んでしまい・・・

出だしから、痛そうでドロドロした展開。
正しく、狂気の世界への第一歩。

息子を守れなかった悔悟の念からか、父親までも手術でペニスを切り取る。
そして、ペニスを失った息子は、同級生からいじめられ出す。

その後、強姦罪容疑で息子が逮捕された時、父親は息子の股間を見せて無罪を証明しようとする。
しかし息子は拒否し、その心情は持つ物を持っている者には計り知れない。
その父親が息子に、ペニスがなくてもマスターベーションのオーガズムを得る方法を教える。

そのやり方がすごい。
石で足の甲を、ゴシゴシと血が出ようがこする。
もっとすごい方法は、刃を肩に刺されて、それをグリグリ、グリグリ揺らしてもらうこと。
観ていて、性を扱っているのにエロティックさはゼロで、あまりにもグロテスク過ぎて目を背けたくなる。

男と女の性への執着。それに伴う傷みと快感。そして正気と狂気の狭間。
これらの表裏が一連となって、これが“メビウスの輪”の意味合いかと思ってもよくわからない。

この作品には、うめき声や悲鳴はあってもセリフがない。
登場人物は一切言葉を発しない。
以前に『うつせみ』(2004年)でもセリフがなくそれが成功していたが、ただ今回は無理に喋らないような窮屈さを感じる。
たぶんこの作品は、観るほとんどの人が共感しないだろうなと思う。
それでも、最後まで一気に見させてしまう力量は大したものだなと感心もする。
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